久留米城下(読み)くるめじようか

日本歴史地名大系 「久留米城下」の解説

久留米城下
くるめじようか

筑後川左岸、久留米城を中心に形成された城下町小早川秀包田中吉政の時代を経て、久留米城主有馬氏により整備・拡大され、久留米領経営を支える都市として発展した。

〔城下の建設と規模〕

 慶長五年(一六〇〇)小早川秀包が建設したキリシタン教会跡が発掘されている(両替町遺跡)。田中氏時代の城下町にもと(元町)うち町・柳原やなぎはら洗切あらいきりなどがあったが(石原家記・筑後将士軍談)、慶長八年祇園寺付近に一向宗寺院三ヵ寺が移転させられており、寺町の形成がなされた可能性がある(寛文十年寺社開基)。元和七年(一六二一)の有馬豊氏の入国以降、城郭の拡大・整備とともに城下町の建設が進められた。城地は御井みい郡の市上いちのうえ村・櫛原くしはら村・東久留米村、三潴みづま郡の西久留米村・大石おおいし村・庄島しようじま村・京隈きようのくま村・大隈おおくま村のうち(筑後封植録)。町割の基本は、城郭の南西に侍小路の京隈小路・小松原こまつばら小路、城郭正面に町屋を配し、町屋の南側に庄島小路が続き、東部のとおり(長町)沿いに北側に侍小路の櫛原小路・鉄砲てつぽう小路、南側に十間屋敷じつけんやしきを配置し、城下の東端にはてら町を置いて東の防衛線としている。豊氏は入国法度で「当町中諸役免許せしむこと」と商人の集住を進め(「掟」春林・瓊林二公制法)、当時四丁のなが町は寛永四年(一六二七)五丁目の東へ延び、同一九年に九丁目まで、正保三年(一六四六)には十丁目まで町屋ができた。この長町と並行してしん町・紺屋町こんやまち通が建設されている。この間、正保二年藩命で洗切の町人を移して瀬下せのした町がつくられ、筑後川の川湊として繁栄した。外堀正面の大手門(亀屋町口)から狩塚かりづか橋の間に北から両替りようがえ町・亀屋町かめやまち(瓶屋町)通、呉服町ごふくまち通・細工さいく町・今町いままち通、同じく東から片原かたはら町・八百屋やおや通・魚屋町うおやまち通・築島町つきじままち通などが形成された。寛文四年(一六六四)京隈小路の拡大がみられ、延宝二年(一六七四)に京隈小松原に屋敷割があり、津田勘兵衛ほか一〇名が移り、同四年には柳原の西側にあった家臣屋敷を小松原に移転させた。田中氏時代から町場であった柳川往還沿いの三本松さんぼんまつ町はさらに南に延び、寛文九年には原古賀はらこが町三丁目より南にも町屋が建並んだ(以上「石原家記」「米府年表」)

延享二年(一七四五)長町が通町と改称、天保三年(一八三二)通町三丁目を一丁目とし、これまでの一丁目・二丁目が札の辻ふだのつじ一丁目・同二丁目となり、併せて原古賀町七丁が十丁に改められた。また町ごとに掛札がかけられた(米府年表)。延宝城下図では原古賀町は五丁目まで、天保城下図では七丁目と町まで描かれ、城下拡大の様相がうかがえる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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