デジタル大辞泉
「久留米市」の意味・読み・例文・類語
出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例
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久留米市
くるめし
面積:一二四・六八平方キロ
県の南部に広がる筑後平野のほぼ中央部に位置する。東は浮羽郡田主丸町、南は八女郡上陽町・広川町、筑後市、三潴郡三潴町、西は筑後川を挟んで佐賀県三養基郡の三根町・北茂安町、北は小郡市・三井郡北野町および佐賀県鳥栖市に接する。筑後川が北部から西部にかけて沖積平地を形成し、北東部の耳納山地は鷹取山(八〇一・八メートル)から西に向けてしだいに低くなり、高良山(三一二・三メートル)まで連なり、南部には国分・上津荒木丘陵が広がる。
〔原始・古代〕
筑後川両岸にわたる旧御井郡域では洪積台地上に縄文時代の遺跡があり、落し穴が発見された安武遺跡群、竪穴が確認された横道遺跡などがある。筑後川の自然堤防上にある野口遺跡では縄文時代の竪穴が多く発見され、土器・石器が出土した。対岸の大刀洗町域では北部の扇状台地に遺跡が集中し、縄文時代の遺跡が顕著に分布するが、台地上には甕棺墓・土壙墓などが列状に形成される甲条神社遺跡・本郷畑築地遺跡、集落跡が確認された西森田遺跡などがあり、沖積台地に掘立柱建物を主とする富多若草遺跡がある。北野町では沖積台地に弥生時代の墳墓・集落遺構がみられ、良積遺跡では多数の竪穴住居跡・掘立柱建物跡や井戸跡などが発見された。久留米市域では筑後川自然堤防上に木塚遺跡・安国寺甕棺墓群などの弥生時代の遺跡があり、洪積台地でも石丸遺跡・西屋敷遺跡・汐入遺跡などの甕棺墓群、東櫛原今寺遺跡・古宮遺跡・塚畑遺跡群などの集落跡が確認された。御井町の祇園山古墳は四世紀代、九州最古の畿内型古墳の一つとされ、大善寺町には水沼君(水間君)一族の墳墓とされる御塚古墳・権現塚古墳や銚子塚古墳がある。古墳時代初期の集落跡は久留米市域では弥生時代の集落跡と重なるところがあるが、野中前遺跡では同後期の集落跡が発見された。高良山など耳納山地(水縄連山)から派生する舌状台地に古墳群がみられる。大刀洗町の本郷鶯塚古墳では平面長靴形をなす特異な石室が発見されている。また久留米市域では五世紀中頃の浦山古墳・日輪寺古墳、六世紀後半の下馬場古墳・前畑古墳・薬師下南古墳・薬師下北古墳などの装飾古墳が点在する。
高良山に総延長二・五キロ余の高良山神籠石があり、七世紀代の古代山城とされる。同時期の上津土塁は、有明海側からの大宰府侵攻に備えた軍事的施設であろう。令制下では当市域の中央部から北部にかけての一帯が御井郡で、南西部が三潴郡、東部が山本郡、南端部が上妻郡に属した。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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久留米〔市〕
くるめ
福岡県南西部,筑紫平野にある中核市。市域中央を東西に筑後川が流れる。1889年市制。1951年上津荒木村,合川村,高良内村,山川村の 4村,1958年山本村,宮ノ陣村の 2村,1960年草野町,1967年筑邦町,善導寺町の 2町,2005年北野町,城島町,田主丸町,三潴町の 4町をそれぞれ編入。中心市街地は近世初期,毛利氏,田中氏の支配下にあったが,元和6(1620)年有馬氏が福知山から入部し,久留米藩 21万石の城下町として発展。廃藩置県後は久留米県,三潴県を経て 1876年福岡県となった。広い商圏をもつ久留米商人の根拠地。明治末期から第2次世界大戦末までは師団のある軍都でもあった。久留米藩は土地改良,灌漑用水の確保など農業振興策をとり,ワタ,ハゼノキ,サトウキビの栽培を奨励。さらに綿織物,木ろう,砂糖の製造など家内工業を育成した。特に久留米絣は今日も全国的に有名。工業では 1922年以来の地下足袋生産から成長したゴム工業が中心。今日ではタイヤ,チューブなどの各種のゴム製品を生産。筑後川流域は米の産地。そのほかカキ,ナシ,ブドウの果樹栽培が行なわれ,キュウリ,トマト,メロン生産も多い。東部の草野,善導寺,田主丸は苗木,植木,観葉植物などの日本有数の生産地でクルメツツジは有名。市内には水天宮,久留米城跡,石橋文化センター(→久留米市美術館),国指定重要文化財である高良大社,梅林寺,善導寺,鬼夜の火祭りで有名な大善寺の玉垂宮があり,御塚・権現塚古墳,日輪寺古墳,浦山古墳などの国指定史跡がある。また高良山参道付近のモウソウキンメイチク林は国の天然記念物。市域の一部は筑後川県立自然公園に属する。JR鹿児島本線,久大本線,西日本鉄道大牟田線,九州自動車道,国道3号線のほか多くの幹線道路が通る。面積 229.96km2。人口 30万3316(2020)。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
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