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有馬豊氏 ありま とようじ

デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

有馬豊氏 ありま-とようじ

1569-1642 江戸時代前期の大名。
永禄(えいろく)12年(一説に10年5月3日)生まれ。有馬則頼(のりより)の次男。豊臣秀吉につかえ,遠江(とおとうみ)(静岡県)横須賀3万石城主となる。関ケ原の戦いで父とともに東軍につき功をたて,丹波福知山(京都府)6万石を領す。大坂の陣の活躍により加増転封(てんぽう)され,元和(げんな)6年筑後(ちくご)(福岡県)久留米(くるめ)藩主有馬家初代となった。21万石。茶にもすぐれ,利休七哲のひとり。寛永19年9月30日死去。74歳。通称は玄蕃頭。

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朝日日本歴史人物事典の解説

有馬豊氏

没年:寛永19.閏9.29(1642.11.21)
生年:永禄12(1569)
江戸初期の大名,筑後国久留米藩(福岡県)藩主。播磨国(兵庫県)三木に有馬則頼の次男として生まれる。母は別所志摩守忠治の娘お振。幼名万助。従五位下玄蕃頭,従四位下侍従。初め豊臣秀吉に仕え3000石,その後加増され3万石を領す。秀吉死後は徳川家康に仕え,慶長5(1600)年家康の養女連姫(松平康直の娘)を妻とし,同年関ケ原の戦では東軍に属し,丹波国福知山6万石を得る。同7年には父の遺領摂津国有馬2万石を加えられ,元和6(1620)年筑後国久留米21万石に移封された。戦乱にあけくれた生涯であったが,茶人としても有名で,利休七哲のひとりである。<参考文献>『久留米市史』2巻

(福田千鶴)

出典|朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について | 情報

世界大百科事典内の有馬豊氏の言及

【有馬氏】より

…(1)江戸時代,越前国丸岡藩主。肥前国高来郡有馬荘に起こる。藤原純友の後裔と称するが,肥前藤津荘荘司平清澄・直澄の子孫とみられる。7代経澄のとき,鎌倉幕府から肥前国有馬荘の地頭職をえて有馬姓を称する。南北朝期は菊池・少弐氏にくみする。室町期の明応年間(1492‐1501)から肥前守貴純の名が聞こえ出し,その孫賢純のころ肥前6郡を制し,将軍の諱(いみな)をえて晴純と称する。晴信のとき,竜造寺氏の南進のため島津氏と結ぶが,1587年(天正15)豊臣秀吉の九州統一に服属し,高来郡4万石を領する。…

【久留米[市]】より

…しかし,1615年(元和1)の幕府の一国一城令で廃城となった。20年田中氏除封のあと,筑後北部8郡を与えられて入部した有馬豊氏が城下町の拡大をはかった。町の北端,筑後川の湾曲部に面して篠山城があり,その南・東方に武家屋敷,さらに濠をへだてて町人町が配置された。…

【丹波国】より

…亀山は玄以の死後02年から幕府領代官支配となり,子茂勝は八上城5万石へ移されたが,6年あまりで発狂を理由に改易させられた。これらに対して1600年福知山に有馬豊氏が6万1000石で遠江の横須賀より入封,2年後父の遺領摂津2万石を加増されたのに続いて,08年には八上(のち篠山に移る)に松平(松井)康重が5万石,09年には亀山に岡部長盛が3万2000石で入封し,丹波はこれらの譜代大名によって制圧された。さらに幕府は08年から10年にかけて,藤堂高虎を奉行とし西国大名を動員して亀山・篠山の両城を改築し,大坂の陣に備えた。…

【福知山藩】より

…1585年(天正13)小野木重勝が3万1000石で入封したが,関ヶ原の戦で西軍に味方して自刃し除封となる。1600年(慶長5)6万石で入封した有馬豊氏は,父則頼の所領摂津三田(さんだ)2万石を併せ,過酷な総検地で石高を12万石とした。本格的な城郭はこの時代に整備完成したものといわれる。…

※「有馬豊氏」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社日立ソリューションズ・クリエイト世界大百科事典 第2版について | 情報

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