改訂新版 世界大百科事典 「タイビルマ戦役」の意味・わかりやすい解説
タイ・ビルマ戦役 (タイビルマせんえき)
16世紀中葉から19世紀初頭までの約3世紀にわたり,タイ・ビルマ(現ミャンマー)両国の間で間欠的に行われた大小の戦争の総称。タイの史家ダムロンは44回を数えている。その時期はビルマのタウングー朝およびコンバウン朝の勢力伸張期にあたり,これとタイのアユタヤ諸王朝が,テナッセリム山脈をはさんで東西に対峙する形勢にあった。戦争はビルマの遠征軍をタイが迎撃する形で起こされる事例が多いが,ナレースエン王のようにタイからビルマに攻めこんだ場合もある。ビルマ王の目的の一つは,白象や金銀などの財宝,職人や奴隷などの労働力の獲得にあったと考えられるが,タイ北部のチエンマイ,南部のマレー半島部における領土争奪も,戦争の重要な原因をなしたと思われる。最も著名な戦争にバインナウン王のアユタヤ攻略(1569),ナレースエン大王のビルマ遠征(1594,99),アラウンパヤー王およびシンビューシン王によるアユタヤ再攻略(1760,67)がある。
アユタヤの第1次陥落(1569)とそれに続く15年間のビルマ人によるタイ支配の間には,ビルマの法律や暦法がタイへもたらされた。ビルマ暦は〈小暦〉と呼ばれ,19世紀末にいたるまで長く用いられた。しかし戦争によるタイ・ビルマ両国の接触は短期かつ断続的なため,一般に相互の文化的影響は少ない。シンビューシンの軍勢による王都アユタヤの徹底的な破壊は,417年続いたアユタヤ朝を滅亡させ,タイの政治的中心をトンブリー,バンコクへと移動させる契機をなし,タイ国史に大きな影響を与えた。トンブリー朝,ラタナコーシン朝に入ってからも,ビルマ王によるタイ征服の試みは続けられたが,1826年ビルマがイギリスとの戦いに敗れ,イギリスによる植民地化が始まって,タイに対する武力行使はやんだ。
タイ・ビルマ戦役の結果,チエンマイは200年にわたりビルマに服属したが,1767年タークシン王がビルマ遠征軍を駆逐してタイの独立を回復すると,再びタイに服属し,やがてこれに併合された。テナッセリム,メルギー(ベイ),タボイ(ダウェー),マルタバン(モウタマ)などのマレー半島西岸の諸港市はインド洋貿易の重要な基地であり,その利権をめぐる両国の抗争は,ペグーを中心とするモン族の政治勢力とその海上交易の消長とも深くかかわっていると思われ,タイ・ビルマ戦役の考察には下ビルマにおけるモン族の存在を見のがすことはできない。
執筆者:石井 米雄
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報