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上杉謙信 うえすぎけんしん

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

上杉謙信
うえすぎけんしん

[生]享禄3(1530).1.21. 高田
[没]天正6(1578).3.13. 高田
戦国大名の雄。越後守護代長尾為景の次男。母は越後栖吉城主長尾顕吉の娘。幼名は虎千代,元服して長尾平三景虎。のち政虎,輝虎と改め,入道して謙信,不識庵と号した。兄晴景は天文5 (1536) 年家督を継いだが次第に対立。

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デジタル大辞泉の解説

うえすぎ‐けんしん〔うへすぎ‐〕【上杉謙信】

[1530~1578]戦国時代の武将。越後守護代長尾為景(ながおためかげ)の子。初め景虎(かげとら)・政虎、のち輝虎。永禄4年(1561)上杉憲政(のりまさ)から譲られて関東管領となり、上杉氏を名のった。謙信は法名。北条氏康(ほうじょううじやす)と争っての小田原攻め、武田信玄との川中島の戦いなどを経て織田信長と対立したが、業半ばで病死。

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百科事典マイペディアの解説

上杉謙信【うえすぎけんしん】

戦国大名。越後守護代長尾為景(ためかげ)の子。幼名虎千代。名は景虎,のち輝虎。1570年入道して謙信。1548年家督を継ぎ越後を統一。関東管領上杉憲政,信濃(しなの)の村上義清らに援を求められ,北条氏康武田信玄と戦う。
→関連項目上杉氏上杉景勝上杉神社御館の乱加賀一向一揆鹿島[町]春日山城近衛前久高田馬蹄石平井城厩橋

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

上杉謙信 うえすぎ-けんしん

1530-1578 戦国-織豊時代の武将。
享禄(きょうろく)3年1月21日生まれ。長尾為景の子。天文(てんぶん)17年兄長尾晴景の跡をつぎ越後(えちご)(新潟県)守護代,春日山城主。守護上杉定実の死後同国を支配。のち越中・加賀・能登(のと)までを勢力範囲とする。信濃(しなの),関東で武田信玄や北条氏康とあらそう。信玄との川中島の戦いは有名。永禄(えいろく)4年上杉憲政より上杉の姓と関東管領職をゆずられる。関東への出陣直前の天正(てんしょう)6年3月13日急死した。49歳。幼名は虎千代。名は景虎,政虎,輝虎。
【格言など】死なんと戦えば生き,生きんと戦えば必ず死するものなり

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朝日日本歴史人物事典の解説

上杉謙信

没年:天正6.3.13(1578.4.19)
生年:享禄3.1.21(1530.2.18)
戦国時代の武将。幼名虎千代,元服し長尾平三景虎,上杉氏を継ぎ政虎と称し,室町幕府将軍足利義輝の諱の1字を受け輝虎と改名。弾正少弼となり,出家し謙信と号す。越後(新潟県)守護代長尾為景の末子。母は栖吉長尾顕吉の娘。林泉寺の天室光育の教えを受けて成長,14歳のとき兄晴景に起用され栃尾城に拠り,中越地方平定で名声を上げるが,兄や上田長尾政景に警戒されて対立。天文17(1548)年守護上杉定実の仲介で,兄の跡を継承し春日山へ入城,定実の死と政景屈伏後,国主の地位を固めた。 北条氏康に追われた上杉憲政,武田信玄に敗れた信濃の村上義清らを庇護,2度の上洛で天皇,将軍から出陣の大義名分を得る。信濃川中島へは天文22年以降5回出兵,永禄4(1561)年信玄と大激戦を展開した。関東へは永禄3年以降十数回出陣し氏康らを圧迫,憲政から関東管領と上杉の名跡を譲られ,離反した関東諸将を屈服させるのに力を注ぐが,上杉氏守護国上野以外に積極的な政策を展開せず,氏康や信玄の着実な支配の前に徐々に後退を余儀なくされた。越中へは永禄3年に侵入を開始,ここでも神保・椎名氏や一向一揆を誘う信玄と戦うが,元亀3(1572)年織田信長との同盟を機に越中を平定,天正5(1577)年には織田軍を破り能登をも平定し,この両国で次代に通じる新しい支配政策を開始する。翌年,関東からの出陣要請に応え動員令を発した直後,脳溢血で倒れ,戦いに東奔西走した生涯を閉じる。 酒豪としての豪快さ,堂々たる体格と鋭い眼光で人を圧す威風を持つ反面,能筆家で和歌を好む繊細な文化人でもあった。合戦での勇猛さと天性の軍事的才能で家臣団を魅了し信頼を一身に集めたが,外征に偏重し内政・外交面での施策に精彩を欠く。権威や伝統を重視する古風な精神と,毘沙門天を熱烈に信仰する実直,潔癖な性格の持ち主で,生涯独身を通し実子なく,養子に長尾政景の子景勝と北条氏政の弟景虎がいた。<参考文献>井上鋭夫『上杉謙信』『謙信と信玄』

(市村高男)

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デジタル大辞泉プラスの解説

上杉謙信

吉川英治の長編歴史小説。1942年刊行。

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世界大百科事典 第2版の解説

うえすぎけんしん【上杉謙信】

1530‐78(享禄3‐天正6)
越後国の戦国大名,関東管領。父は守護代長尾為景。幼名虎千代,元服後は平三景虎。1543年(天文12)父為景の死後,古志郡栃尾城に移り,48年末兄晴景に代わって越後守護代,事実上の国主の座につく。当初,一族長尾政景と抗争したがこれと和し,越後統治の障害を除いた。52年弾正少弼に任じられ,翌年春上洛,このころ入道して宗心と称した。武田信玄に追われた北信濃の村上,高梨氏らから救援要請をうけると,信濃川中島に出兵した。

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大辞林 第三版の解説

うえすぎけんしん【上杉謙信】

1530~1578) 戦国時代の武将。越後守護代長尾為景の子。初名は景虎、のち政虎・輝虎と改名。謙信は法号。越後春日山城にあって北陸地方一帯を領有。小田原北条氏・甲斐武田氏と対抗し、特に、武田信玄との川中島の戦いは有名。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

上杉謙信
うえすぎけんしん
(1530―1578)

戦国時代の越後(えちご)(新潟県)の武将、戦国大名の雄。近世上杉家米沢藩(よねざわはん)の祖。本姓は平姓長尾(ながお)氏、父は越後国の守護上杉氏の守護代で頸城(くびき)春日山城(かすがやまじょう)(上越市)の城主長尾為景(ためかげ)、母はその一族で古志(こし)栖吉城(すよしじょう)(長岡市)の城主長尾顕吉(あきよし)の娘である。享禄(きょうろく)3年正月21日生まれ。初名を生まれた寅(とら)年にちなんで虎千代(とらちよ)、ついで平三景虎(へいぞうかげとら)といい、のち政虎、輝虎と名を変え、また道号は初め宗心、1570年(元亀1)から不識庵(ふしきあん)謙信という。
 1507年(永正4)父為景は守護上杉房能(ふさよし)を殺し、上杉一族の上条定実(じょうじょうさだざね)を傀儡(かいらい)守護にたてて、実質的な越後国主となったことから、典型的な下剋上(げこくじょう)の人として知られる。1536年(天文5)その死後は嫡子(ちゃくし)晴景が後を継ぐが、国内は各地に分立対抗する長尾一族の勢力ごとに分裂し戦乱が続いた。弟の景虎は春日山城下の臨済宗(りんざいしゅう)林泉寺(上越市)の天室光育(てんしつこういく)に預けられるが、のち母方の古志長尾家を頼って栃尾城(とちおじょう)(長岡(ながおか)市栃尾地区)に移り、中越地方のなかばを掌握して、中越魚沼(うおぬま)地方の上田坂戸城(さかどじょう)(南魚沼市)にいる義兄の長尾政景や、上越地方を押さえる実兄晴景の勢力を圧倒する。1548年末には兄の養子となる形で春日山城に入り、1551年には政景をも陰謀で倒して、上・中越地方の統一を実現し、政景の子喜平次(きへいじ)(上杉景勝(かげかつ))を養子にすると、その勢威で下越揚北衆(あがきたしゅう)といわれた豪族領主たちをも率いて、以後、多方面にわたる外征に転ずる。まず1552年、小田原の北条氏康(ほうじょううじやす)に追われた関東管領(かんれい)上杉憲政(のりまさ)を助けて関東に兵を出し、上洛(じょうらく)して後奈良天皇(ごならてんのう)から従五位下(じゅごいげ)、弾正少弼(だんじょうしょうひつ)に任ぜられたのち、越山といわれた関東出兵は、1569年(永禄12)まで17年間にわたって続けられ、また、甲斐(かい)(山梨県)の武田信玄(たけだしんげん)に追われた小笠原長時(おがさわらながとき)、村上義清(むらかみよしきよ)らを助けた北信濃(きたしなの)出兵は、川中島(かわなかじま)(長野市)の戦いといわれ、1564年まで繰り返された。とくに1561年9月の川中島八幡原(はちまんばら)での謙信・信玄両雄激突は戦史に有名であるが、戦後処理で信玄はこの地方を知行地(ちぎょうち)として家臣に分配する宛行状(あてがいじょう)を出しているのに、謙信はただ戦功をねぎらう感状を出しているにすぎないという事実からみると、勝利は信玄のものであったと推定される。
 1559年上洛し将軍足利義輝(あしかがよしてる)に会い、1560年からは北陸にも進出し、一向一揆(いっこういっき)との戦いが始まる。1561年北条氏を小田原の本城まで追い詰めるが破れず、帰途に鎌倉の鶴岡八幡宮(つるがおかはちまんぐう)で上杉憲政から関東管領職と上杉の名跡を受け継ぐ儀式を挙行して上杉政虎と称し、足利藤氏を鎌倉公方(くぼう)に擁し厩橋城(うまやばしじょう)(群馬県前橋市)を北関東制圧の拠点とした。1569年には北条氏康に請われて上野(こうずけ)一国(群馬県)の割譲と氏康の子三郎氏秀の入嗣(にゅうし)(上杉景虎)を条件に講和し、武田信玄を共同の敵とするが、1573年(天正1)信玄の死後は、北陸から朝倉義景(よしかげ)や一向一揆を滅ぼして国境に迫った織田信長軍との対決が大きな課題となる。天正(てんしょう)6年3月13日中気(脳溢血(のういっけつ))により春日山城中で没した。49歳であった。軍事的行動半径の広さや神仏信仰、名分の重視などによって知られる。法名は不識院殿真光謙信、高野山(こうやさん)清浄心院に葬る。
 終生妻をめとらず、死の直後から2人の養子、春日山城に拠(よ)った景勝、府内御館(おたて)に拠った景虎の間で越後を二分した抗争3年にわたる御館の乱が続き、かつての豪族連合的な謙信の支配の形は一変し、争乱に勝った景勝の下で、その実家上田長尾家の勢力と新参の北信衆を中心とした独裁が実現する。[藤木久志]
『布施秀治著『上杉謙信伝』(1917・謙信文庫) ▽井上鋭夫著『上杉謙信』(1966・人物往来社) ▽『新潟県史 資料編3~5』(1981~83・新潟県)』

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世界大百科事典内の上杉謙信の言及

【上杉氏】より

…中近世の武家。勧修寺(かじゆうじ)流藤原氏の出自で,鎌倉時代に重房が丹波国何鹿郡上杉荘を領して以後上杉氏を称した。重房は1252年(建長4)宗尊親王の東下に従い,鎌倉に住した。足利氏との婚姻関係が生じ,とくに重房の孫清子が足利貞氏に嫁して尊氏・直義を生んだことから,一族は高(こう)氏と並ぶ重臣として遇された。南北朝内乱の初期には,上杉憲顕が足利直義の信任を得て幕府の関東支配の基礎をきずいた。観応の擾乱(じようらん)後の1363年(正平18∥貞治2)に憲顕がふたたび関東管領に就任して以降,上杉氏の一族が代々関東管領を世襲した。…

【越後国】より

…豪族層も,それぞれが家中の造反や,隣接どうしの反目・抗争などがあって,守護代家支配にかわる新たな政治勢力を生みだせないでいた。こうしたなかで,守護代家では為景の没後,晴景と弟景虎(上杉謙信)との間で勢力交替が起こり,48年(天文17)から謙信政権が誕生する。謙信は一族で最大の勢力をもっていた長尾政景を屈服させていちおう国内をかため,圧迫されて援を求めてきた北信濃諸氏をたすけて武田信玄と戦い,小田原の後北条氏に追われた関東管領上杉憲政を助けて関東に出兵した。…

【越中国】より

…天文年間(1532‐55)には神保長職が登場して富山城に拠って神保氏を再興し,新川郡の椎名氏と対立することになった。長尾為景の没後その子輝虎(上杉謙信)も越中を制圧しようとし,62年(永禄5)には神保長職を破るが,68年椎名康胤が武田信玄,本願寺と結んで輝虎から離反すると,逆に長職は輝虎と結んだ。翌年輝虎は松倉城の椎名康胤を攻め,魚津城に河田長親をおいて越中侵攻の拠点とした。…

【春日山城】より

…新潟県上越市の春日山(旧,高田市域)にあり,上杉謙信の居城として名高い。城の始まりは明らかでないが,元中年間(1384‐92),越後守護代長尾高景が鉢ヶ峯(春日山)城にいて府内館の守護上杉房方をたすけた(《長尾系図》)ことなどから,14世紀半ば過ぎには府内館に属する要害として,存在したことがわかる。…

【川中島の戦】より

…戦国期に甲斐の武田信玄と越後の上杉謙信とが,北信濃の領有をめぐって,信濃国水内郡川中島で1553年(天文22)から64年(永禄7)の長期にわたって,数度対戦した合戦の総称。まず武田信玄が信濃の旧族である小笠原氏や村上氏,高梨氏らを信濃に攻め,敗れた村上義清らが越後の長尾景虎(上杉謙信)に救援を求めたことから両者の戦いが始まった。…

【関東管領】より

…天文年間の河越城の戦での敗北にともなって実質的勢力を失い,その末期には関東管領上杉憲政が越後長尾氏のもとに逃れた。憲政の意を受けた長尾景虎(上杉謙信)は,南下して後北条氏と対決し,1561年(永禄4)鎌倉鶴岡八幡宮で憲政から上杉氏の名跡と関東管領の地位を譲りうけ,後日幕府からその承認をえた。景虎は,関東進出の論理を関東管領に求めたのであった。…

【上野国】より


[戦国の動乱]
 享徳の乱やそれに続く山内上杉氏と扇谷上杉氏の内紛を前史として,東国は徐々に戦国動乱の様相を帯び,南からは小田原の後北条氏の勢力が北上してくる。このような状況の中で,戦国動乱の本格化は,1560年(永禄3)の長尾景虎(上杉謙信)の関東出陣である。上杉憲政の跡を継いだ謙信は,三国峠を越えて関東に侵入すると,上野を押さえて拠点とし,以後関東は,後北条,武田,上杉の三つどもえの争覇の時代となる。…

【信濃国】より

…なお小県郡の一土豪であった真田氏は,武田氏被官となり武田氏の領土拡大に伴い,小戦国大名として成長した。 武田氏の信濃制圧は越後の上杉氏にとっても脅威となり,53年以降上杉謙信の信濃国出陣が開始され,武田信玄との数度にわたる川中島の戦がおこった。61年(永禄4)の甲越両軍の総力戦は互角とされるが,合戦後謙信の信濃における根拠は飯山城(飯山市)周辺のみとなり,北信の大部分も武田氏の支配となった。…

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