本与板村(読み)もとよいたむら

日本歴史地名大系 「本与板村」の解説

本与板村
もとよいたむら

[現在地名]与板町本与板

三島みしま丘陵の東麓と信濃川左岸の沖積平地とからなる。南は与板町、北は馬越まごし村。集落は南から北へ兜巾堂とつきんどう・本与板・しおいりとううらと続く。西の丘陵上に築かれた本与板城の根小屋集落で、館跡は塩ノ入峠の道の西方、南に白山社、北に八幡神社を仰ぐふくろ谷と称される谷間の光西こうさい寺付近と考えられている。

元和六年(一六二〇)の長岡藩知行目録に高六四九石二斗余とみえる。文政三年(一八二〇)以降与板藩領となり明治に至る。長岡藩領当時、初めは与板組に属したが、寛永一一年(一六三四)牧野忠成が次男康成を与板に分知したとき本与板組を編成、御蔵所も当村に移った。御蔵所は白山社北側の山麓にあり、付近に役所・蔵番・代官屋敷もあった。与板藩主井伊直朗の城主格昇任に伴う築城計画は、初め拝領した石瀬いしぜ(現西蒲原郡岩室村)、次いで長岡藩領の当村が候補地となり、文化一四年(一八一七)には長岡・与板両藩で代替地の実地見分を行ったが、本与板地続きに適当な代替地がなく双方の折合いはつかなかった。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報