三島郡(読み)さんとうぐん

日本歴史地名大系 「三島郡」の解説

三島郡
さんとうぐん

面積:二五〇・五九平方キロ
出雲崎いずもざき町・和島わしま村・寺泊てらどまり町・越路こしじ町・三島みしま町・与板よいた

県の中央部に位置し、北流する信濃川を東辺として、その西側日本海岸までの地域。東から西へ八石はちこく山系の小木城おぎじよう山脈、海岸寄りの西山丘陵がそれぞれ起伏しながらも高度を低くして北方へ延び、地形は南から北東へ斜めに長い。小木城山脈東麓にはくろ川が北流し、小木城山に発する小木城川が合流してやがて信濃川に合する。小木城山脈と西山丘陵の間には島崎しまざき川が北流し新信濃しんしなの川に合流する。明治一二年(一八七九)の郡区編制では北は西蒲原にしかんばら郡、東は南蒲原郡・古志こし郡、南は北魚沼郡刈羽郡に郡境を接していた。現在は南の越路町が長岡市に分断され、南辺を柏崎市・刈羽郡小国おぐに町・小千谷おぢや市に接する。越路町を除く当郡は、南辺を刈羽郡西山にしやま町・長岡市、東辺を長岡市・南蒲原郡中之島なかのしま村、北辺を西蒲原郡分水ぶんすい町・弥彦やひこ村・岩室いわむろ村に接する。道は柏崎から海岸線を北上し出雲崎(現出雲崎町)・寺泊(現寺泊町)などの古くからの港津を結んで弥彦山へ通じる通称北国街道(現国道三五二号)、柏崎から島崎川沿いを北上して地蔵堂じぞうどう(現分水町)へ結ばれるはま街道(現国道一一六号)、出雲崎と脇野町わきのまち(現三島町)経由で長岡へ結ばれる剣峰けんがみね峠越の道(塩の道とも称した)がある。

当郡は古代には古志郡の西半をなし、弘仁式以後貞観式までの間に古志郡から分立した「和名抄」所載の三島みしま(現柏崎市一帯)とは異なる。「和名抄」の三島郡は中世に刈羽郡と私称されて郡名は消滅。当郡の訓「さんとう」は、延文二年(一三五七)四月二六日の芳賀駿河守遵行状写(本郷文書)に「越後国山東郡吉河庄」とみえるが、同史料は江戸時代の写本であるので、永徳二年(一三八二)六月二五日の上杉道合(憲方)書状(毛利安田氏文書)に「越後国山東郡小加礼井保」とあるのが初見。この山東さんとうの呼称は三島郡からみた地域呼称であったろう。また信濃川以東の古志郡を東古志郡とよんだのに対し、西古志郡とも称され、応永一八年(一四一一)八月一九日の居多神社社領注文(居多神社文書)には「西古志内」として於木おぎ(現出雲崎町小木)乙面おとも(現出雲崎町乙茂)の地がみえる。また永正九年(一五一二)頃の正月二六日の上杉定実書状(上杉家文書)には「西古志山東郡」の表記がある。郡名は寛永二年(一六二五)の牧野忠成宛領知朱印状(蒼柴神社蔵)にはまだ「山東郡」と記すが、正保国絵図には「三島郡」とみえ、寛文四年(一六六四)与板藩牧野氏朱印状(寛文朱印留)には「三島郡」とあり、以後「三島郡」が一般的となる。


三島郡
みしまぐん

面積:一六・八二平方キロ
島本しまもと

明治二九年(一八九六)島上しまかみ郡と島下しましも郡が合併して成立。郡名は、古代当地方をさした地名の復活で、早くから文献に出る。「日本書紀」神代紀に「三島溝姫」、同神武天皇即位前紀に「三島溝耳神」、同安閑天皇元年条に「行幸於三島」「三島県主飯粒」「三島竹村たかふ屯倉」などがみえ、また、当時郡制がしかれていたとは考えられないが、同書雄略天皇九年二月条、同欽明天皇二三年一一月条に「三島郡」がみえる。この三島の地は、現高槻たかつき市の南西部辺りに中心地が比定される三島県に含まれ、大化改新後、三島評となり、その後、分割され島上・島下の古称とされる「三島上郡」「三島下郡」となったといわれる。以後、古代・中世・近世を通じて島上・島下両郡として存続したが、明治二九年の合併を機に古名に復した。なお「伊予国風土記」逸文に「津の国の御島」とみえるが、この「御島」が正規の表記とする説もある。三島郡成立時は、淀川の北岸に広がる現島本町をはじめ、高槻市・茨木いばらき市・摂津市・吹田すいた市の大部分、箕面みのお市の一部をも含む地域であったが、その後分離を重ね、現在では島本町のみとなった。

〔原始・古代〕

考古学的発掘調査が進んでおらず詳しいことはわかっていないが、先土器時代と推定される山崎やまざき遺跡、弥生式土器を出土する桜井さくらい遺跡、弥生時代から近世に至る各種の遺物を出土する広瀬南ひろせみなみ遺跡、また、六世紀後半と推定される桜井の越谷こしたに古墳群・源吾山げんごやま古墳群などが確認されている。淀川流域の平地部には条里制の遺構が顕著で、発掘や文献から、山崎の辺りが島上郡の一条一里に包摂される地であることが確認されている。同地域は交通の要衝で、「続日本紀」和銅四年(七一一)正月二日条にみえる大原おおはら駅を現在の桜井地区に比定する説もある。また「行基年譜」によると、神亀二年(七二五)僧行基が、山崎から対岸に向けて山崎橋を架している。都が大和から山城へと遷されると、当地はますます重要性を増した。設置時期はつまびらかでないが、山陽道における最初の駅として隣接する山城国山崎(現京都府乙訓郡大山崎町)に山崎駅が置かれ、また淀川を用いた水上交通の港津として山崎津が整えられた。都を守護する要地でもあり、山城国と摂津国の境に関も置かれている。天平勝宝八年(七五六)勅施入によって成立した奈良東大寺領水無瀬みなせ庄は、こうした交通の要衝を背景とし、倉庫としての機能を目的とした庄園であったと推定されている。


三島郡
みしまぐん

「和名抄」東急本国郡部は「美之末」と訓を付す。南西は頸城くびき郡、東は魚沼いおぬ郡、北東は古志こし郡に接する。よね山以北の現柏崎市を中心とする日本海に面した地域。弘仁(八一〇―八二四)から貞観(八五九―八七七)の間に古志郡より分立。天暦四年(九五〇)一一月二〇日の東大寺封戸庄園并寺用雑物目録(東南院文書)には越後国の封戸二〇〇戸で施入する調絹二四〇疋のうち五〇疋を「三嶋五十戸」で、調庸料調布三四七端二丈八尺のうち七七端(調二七端・庸五〇端)を「三嶋郡」で納めるとある。「法華験記」には「三島郡乙寺」の持経者が発心した猿のために法華経を書写し、四〇余年後越後国司として下向した紀躬高はこの猿の生れ変りであったという猿供養の説話を載せる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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