本与板城(読み)ほんよいたじょう

日本の城がわかる事典 「本与板城」の解説

ほんよいたじょう【本与板城】

新潟県長岡市にあった山城(やまじろ)。与板城(長岡市)の前身に当たる城であることから本与板城とよばれる。山城とはいえ、比高60mほどの丘陵端につくられた城で、中央に本郭、その西側の二ノ郭、三ノ郭ほか、南側にも郭を配した城で、それぞれの郭には土塁が築かれ、堀切で区切られていた。もともとは1334年(建武1)に新田義顕一族の籠沢(小森沢)入道が築城した城とも伝えられているが、築城年代などの詳細はわかっていない。その後、越後守護上杉氏の重臣・飯沼氏が居城としていたが、越後永正の乱の渦中の1514年(永正11)に、城主の飯沼定頼は守護代の長尾為景上杉謙信の父)に攻められて滅亡した。その後、1546年(天文15)ごろに、上杉謙信の右腕といわれた直江実綱(その後、大和守景綱を名乗る)が居城とした。実綱の死後、上野国(群馬県)の総社長尾氏から養子に入った信綱が直江氏を継いだが、1578年(天正6)の御館の乱後、上杉景勝家臣の樋口与六が直江氏を継いで直江兼続を名乗った。兼続は1598年(慶長3)の上杉景勝の会津移封に際して米沢30万石を与えられ米沢城(山形県米沢市)に入城している。この間、直江氏は本与板城の南方約2kmに与板城を築き、居城を移している。天正年間(1573~93年)に直江景綱が与板城を築いたともいわれるが、その築城と移転の時期は諸説あり、現在のところ確定していない。また、与板城完成後も本与板城は破却されず、城として活用されたともいわれるため、本与板城がいつごろまで存続していたのかについても不明である。しかし、景勝の会津移封、兼続の米沢移封に伴って与板城とともに廃城になったか、それ以前に廃城になったかのいずれかである。現在、城跡には土塁、堀、虎口、井戸、畝状阻塞などの遺構が残っている。JR信越本線・越後線・上越新幹線長岡駅からバスで与板警察署前下車、徒歩約30分(本与板城登山口まで)。

出典 講談社日本の城がわかる事典について 情報

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