日本大百科全書(ニッポニカ) 「本木庄太夫」の意味・わかりやすい解説
本木庄太夫
もときしょうだゆう
(1628―1697)
江戸前期のオランダ通詞。名は栄久(えいきゅう)。庄太夫は通称。良意(りょうい)と号す。平戸(ひらど)生まれ。1659年(万治2)長崎に移って通詞に採用され、1664年(寛文4)小通詞に、1668年大通詞となる。1673年(延宝1)イギリス船リターン号長崎来航時に通弁にあたる。1682年(天和2)オランダ商館長の江戸参府に随行、拝礼の際、オランダ舞を披露、葵章(きしょう)の弓を賞賜された。1695年(元禄8)通詞目付となる。通詞職のかたわら、商館員から医学知識を受け、ドイツ人レムメリンJohann Remmelin(1583―1632)の解剖書のオランダ語訳本を重訳。没後の1772年(明和9)鈴木宗云(そううん)によって『和蘭全躯(おらんだぜんく)内外分合図』と題して刊行された。解剖図と説明書の2冊で、『解体新書』出版の2年前にあたるが、影響はなかった。
[片桐一男]