平戸(読み)ヒラド

デジタル大辞泉 「平戸」の意味・読み・例文・類語

ひらど【平戸】

長崎県北部の市。北松浦半島の一部と平戸島生月いきつき的山あづち大島などからなる。もと松浦氏の城下町で、古くから中国大陸との交易の根拠地。鎖国まではオランダイギリスなどとの貿易港として栄えた。平成17年(2005)10月、大島村・生月町・田平町と合併。人口3.5万(2010)。

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精選版 日本国語大辞典 「平戸」の意味・読み・例文・類語

ひらど【平戸】

  1. [ 1 ] 長崎県北部の地名。平戸島全域と度島(たくしま)、高島などから成る。海岸線は屈曲多く良港に富み、古来中国、朝鮮との交通の寄港地となる。鎌倉時代以後、松浦(まつら)氏の城下町となり、天文一九年(一五五〇)のポルトガル船入港以来、江戸時代の鎖国まで貿易港として繁栄。オランダ・イギリス商館跡、キリシタン遺跡など史跡に富む。昭和五二年(一九七七平戸大橋が開通し、九州本土と結ばれた。同三〇年(一九五五)市制。
  2. [ 2 ] 〘 名詞 〙
    1. ( もと南蛮から伝えられて平戸島で製したもの ) 金線・銀線を種々に組んで編んだ細工物。平戸細工。
      1. [初出の実例]「根附が象牙に銀の鏡蓋で緒〆が平戸(ヒラト)で」(出典:西洋道中膝栗毛(1870‐76)〈仮名垣魯文〉三)
    2. ひらどやき(平戸焼)」の略。
      1. [初出の実例]「小眼絵唐津辻平戸等」(出典:茶家酔古襍(1841‐48)一)

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日本歴史地名大系 「平戸」の解説

平戸
ひらど

中世よりみえる地名。「和名抄」に記される松浦まつら庇羅ひら郷のあった庇良ひら島のうち、平戸瀬戸をやくす地勢上の重要さからか、その北西部を称する地名であったとみられるが、鎌倉期以降はこれが島名ともなったらしい。安貞二年(一二二八)三月一三日の関東裁許状案(青方文書、以下断りのない限り同文書)に引く寿永二年(一一八三)三月二二日の清原三子譲状案に「平戸」とみえ、当時の表記であるとすれば、平安末期には平戸と記されていたことになる。平氏にあやかって庇羅戸などを改め、佳字とした可能性も指摘されている。

〔平戸松浦氏〕

松浦氏の一族のうち宇野うの御厨執行の松浦直の子の披を始祖とする峰氏は、平戸を拠点としてのち平戸松浦氏として勢力を伸ばしていくが、峰氏の有力な所領となる小値賀おぢか(五島を含む広範囲の通称)の地頭職について、峰氏以前から相論があった。同島の本領主とされる清原是包が領家から勘当されて没収され、その後を直が引継いだという。直は寿永三年子息の連に同島を譲ったが(安貞二年三月一三日関東裁許状案)、連は是包の甥の尋覚と相論になり、建久七年(一一九六)尋覚の地頭職補任が認められたあとも(同年七月一二日前右大将家政所下文案)、なお紛争が続いていた。尋覚は承元二年(一二〇八)同職を嫡子の藤原通澄(通高)に譲与し、次男の家高に同島のうち浦部うらべ(中通島)を譲り(同年二月日尋覚譲状案)、家高はのち青方氏を称した。しかし建保七年(一二一九)連は甥の持を嫡子とし、小値賀島を相伝の所領として譲っている(同年六月三日松浦定西譲状案)。しかも承久元年(一二一九)持は藤原通澄から小値賀島の地頭職を譲られ、親子の契を結んでおり(同年一一月二日藤原通澄譲状案)、ここにいたって峰氏の小値賀島支配の根拠が成立する。

しかし、是包の姪で直の妻である清原三子が小値賀島の知行を主張、三子の孫山代固が論人として召文を受けながら参上しなかったらしく、承久三年峰持があらためて安堵された(同年五月二六日関東下知状案)。なおも山代固の押領が続いたため、安貞二年その知行停止を内容とする関東の裁許が出されたが、これは是包以来の経緯を詳細に記すもので、是包の勘当は高麗船を移すなど狼藉をはたらいたことに起因し、また清原三子は、別れた夫源(松浦直)が養子とした連は「平戸蘇船頭後家」の連れ子つまり宋人の子であるといっており(安貞二年三月一三日関東裁許状案)、すでに海洋を舞台とする平戸の性格がうかがえる。

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改訂新版 世界大百科事典 「平戸」の意味・わかりやすい解説

平戸[市] (ひらど)

長崎県北西端,平戸島,生月(いきつ)島,的山大島(あずちおおしま)などからなる市。2005年10月旧平戸市と生月町,田平(たびら)町および大島村が合体して成立した。人口3万4905(2010)。

平戸市北端,平戸島の北方約15kmに浮かぶ島。面積15.1km2。1島で北松浦郡の旧大島村をなし,人口1785(2000)。リアス式海岸が発達し,的山,神浦(こうのうら)などの良港をつくり,的山港は遣唐使船の寄港地として知られ,江戸時代には捕鯨,明治以降はイワシ漁などで活況を呈した。現在は一本釣りと定置網,ヒラメ,トラフグ,ハマチなどの養殖漁業が中心である。平たん地に恵まれず,わずかに玄武岩台地を刻む河谷に水田が,台地上には段畑が開かれ,肉用牛の飼養が行われる。

平戸市北西部,平戸島の北西に浮かぶ南北に細長い島。面積16.5km2。1島で北松浦郡の旧生月町をなし,人口7934(2000)。基盤は第三紀層で,その上に玄武岩の溶岩台地がのる。西海岸の玄武岩の柱状節理が露出する断崖は壮観である。東部の第三紀層と玄武岩の境界には湧水帯があり,これに沿って集落と水田が開かれている。島は江戸時代に西海捕鯨の基地として栄えたが,その後イワシ揚繰(あぐり)網の導入,アジ・サバ大型きんちゃく網を経て,現在は大型まき網船団を編成して東シナ海,北海道,三陸沖合などへ出漁し,漁業が町の経済の90%を占める。また隠れキリシタンの農業集落があり,キリスト教弾圧以来の数多くの史跡と風習が残る。西海国立公園に含まれ,観光資源は豊富で,平戸島とを隔てる700mの辰ノ瀬戸(生月瀬戸)に1991年生月大橋が架けられ,平戸大橋を経て長崎県本土と陸路で結ばれた。
執筆者:

平戸市北東部の旧町。旧北松浦郡所属。人口7967(2000)。北松浦半島の北西端に位置し,東は松浦市に接し,北は玄界灘に臨む。西には平戸大橋(1977完成)があり,対岸の平戸島と結ばれる。松浦鉄道線たびら平戸口駅周辺が中心集落で,国道204号線が通る。農業が主産業で,北部はタマネギなどの野菜栽培を中心とし,南部ではミカン栽培が盛ん。全町的に畜産が行われ,県営種畜場(現,長崎県肉用牛改良センター)がある。田平・釜田両港はイワシ,アジなどを水揚げする。南部は西海国立公園に属し,中瀬高原を含む北部海岸は北松県立自然公園に指定され,塩俵には柱状節理がみられる。里免に縄文晩期および弥生中期の里田原(さとたばる)遺跡がある。
執筆者:

平戸市中南部の旧市。平戸島全域,度(たく)島,高島,そして常住者のいない多くの島々を市域とする。1955年平戸町と中野,獅子(しし),紐差(ひもさし),中津良(なかつら),津吉,志々伎(しじき)の6村が合体,市制。人口2万3900(2000)。市の中心,平戸島北東端の旧平戸町には1607年(慶長12)亀岡城(平戸城)が築かれ,近世は松浦(まつら)氏の城下町で,天然の良港をもち,古代から中国,朝鮮などとの海上交通の要地であった。主産業は農漁業で,米作を中心にタバコ栽培,平戸牛として知られる肉牛の飼育,養豚などが行われる。水産業は一本釣りを主とする零細な沿岸漁業が多く,平戸瀬戸のアゴ(トビウオ)漁も有名で,干しアゴは川内(かわち)浦の川内かまぼことともに特産品である。

 旧平戸町に亀岡城跡,常灯(じようとう)の鼻とよばれる灯台跡の石垣などが残る平戸オランダ商館跡(史),1702年(元禄15)に築かれた石造アーチ橋の幸(さい)橋(オランダ橋。重要文化財)などがあり,また平戸港の外港であった川内浦には日本最初というサツマイモ畑跡がある。また紐差をはじめ隠れキリシタン集落も多く,カトリックの天主堂が散在する。南西部の阿値賀(あじか)島(天)は上下2島からなり,南方系島嶼(とうしよ)植物群の北限で,壮大な柱状節理の断崖もみられる。平戸瀬戸北部の黒子島は全島が照葉樹の原始林(天)におおわれる。すぐれた自然景観とキリシタン遺跡により市の一部は西海国立公園に指定されている。1977年には対岸の田平町(現,平戸市)との間の平戸瀬戸に平戸大橋が架けられ,国立公園の北の玄関口として多くの観光客が訪れる。国道383号線が島内を南北に縦断し,松浦鉄道たびら平戸口駅(旧田平町)からバスが通じる。
執筆者:

平戸は堺,博多から中国への航路にあったため,遣唐使の時代から寄港する船が多く,その名は中国に知られていた。明末には中国人海賊が来住し,平戸を根拠地として活動した。松浦氏が平戸に移ったのは持(たもつ)の代といわれるが,隆信のとき,豊臣秀吉の九州鎮定の際,所領を安堵(あんど)され,その後の繁栄の基礎を築いた。1550年(天文19)フランシスコ・ザビエルが鹿児島から東上の途中,平戸に立ち寄って布教し,同年ポルトガル船が初めて平戸に来航した。キリシタンがしだいに増加すると,仏教徒との間の対立が激しくなり,藩主は貿易の継続を切望したが,一方キリシタンに対する態度は動揺していたため,宣教師はこれを不満として,船を大村領に向かわせたこともたびたびあった。65年(永禄8)ポルトガル船を入港させようとした平戸の船に死傷者二百数十人が出た事件が起こり,その後ポルトガル船の平戸来航はやんだ。

 84年(天正12)スペイン船が平戸に漂着したのを機会に,松浦鎮信はスペインの宣教師に手紙を送り,貿易船の来航を求めたが実現しなかった。しかし豊後に漂着したオランダ人が1605年帰国の際,鎮信は船を建造して与えたため,オランダ船はこれに感謝して09年平戸に来航し,ここに商館を開いた。13年にイギリスも商館を設けたが,オランダとの競争に破れ,23年(元和9)には去った。オランダ貿易は,当初は小規模であったために上方の商人は長崎に集まり,平戸に立ち寄る人はまれであった。しかし長崎のポルトガル人の生糸輸入量が減るにつれて,平戸でのオランダ貿易の重要性が増し,39年(寛永16)ころ平戸の貿易はその最盛期を迎えた。藩主は直接貿易に参加し,商館から多額の借金をして,オランダ商館は藩財政を潤した。41年,商館が長崎出島に移転を命ぜられ,鎖国体制が完成すると,平戸の輝かしい時代は終わり,平戸藩の城下町として明治に至った。
執筆者:

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「平戸」の意味・わかりやすい解説

平戸(市)
ひらど

長崎県北西部に位置し、市域は平戸島全域と生月島(いきつきしま)、度島(たくしま)、高島、大島(的山(あづち)大島)などの島々および九州本土の田平(たびら)地区からなる。1955年(昭和30)平戸町と中野(なかの)、獅子(しし)、紐差(ひもさし)、中津良(なかつら)、津吉(つよし)、志々伎(しじき)の6村が合併して市制施行。2005年(平成17)北松浦郡大島村、生月町、田平町を合併。田平には国道204号、松浦鉄道が通じ、国道383号が縦断する平戸島とは平戸大橋で結ばれる。古くは『肥前国風土記(ひぜんのくにふどき)』に、平戸島の南端宮ノ浦(みやのうら)に景行(けいこう)天皇巡幸の記事がみえ、ついで『延喜式(えんぎしき)』には、十城別(としろわき)王を祀(まつ)る志々伎山(347メートル)山頂の志々伎神社が記載されている。遣唐使の時代は庇良島(ひらしま)ともよばれる寄港地で、804年(延暦23)には、渡唐する空海が滞在。下って1191年(建久2)栄西(えいさい)が、宋(そう)から古江(ふるえ)湾の葦(あし)ヶ浦に帰着し、「冨春庵(ふしゅんあん)」で日本最初に禅規を伝えた。木引(こびき)町の千光寺南方の「冨春園」は、栄西が日本で最初の茶種を播(ま)いた所で、付近に「坐禅(ざぜん)石」がある。鏡川(かがみがわ)町の「薄香(うすか)」漁港は、日本で初めて梅を植えたといわれる近くの「梅崎」の地より、梅の香りがかすかに漂う所を意味していると伝えられる。現在市の中心をなす平戸市街は、1381年(弘和1・永徳1)松浦氏(まつらうじ)が館山(たてやま)(松浦史料博物館の裏山)に居を構え、町づくりが進展し、江戸時代は6万3000石の城下町として栄えた。その間1550年(天文19)から1641年(寛永18)までポルトガル、オランダ、イギリスとの貿易港として海外文化に接触した。市役所に隣接するイギリス商館跡、幸橋(さいわいばし)(国重要文化財)、平戸港の第一桟橋近くの平戸和蘭商館跡(ひらどおらんだしょうかんあと)(国史跡)のオランダ塀、オランダ井戸、オランダ埠頭(ふとう)などは独特のものである。港を望む南側の丘陵地には平戸城(亀岡(かめおか)城)、北側の丘陵上には崎方(さきかた)公園があり、園内には聖フランシスコ・ザビエル碑や三浦按針(みうらあんじん)の墓がある。丘陵斜面に、往時の貿易資料やジャガタラ文をはじめ多くのキリシタン史料を保存する松浦史料博物館や平戸オランダ商館がある。

 1541年(天文10)明人(みんじん)王直(おうちょく)が領主の許可を得て貿易した。当時の王直の屋敷跡が印山寺(いんざんじ)跡である。1550年フランシスコ・ザビエルの平戸滞在によって、全島にキリスト教が広まり、翌1551年日本最初の教会が建てられたという。キリスト教禁止令後は、島の西海岸にある下中野(しもなかの)、白石(しらいし)、春日(かすが)、高越(たかごえ)、獅子、根獅子(ねじこ)、堤(つつみ)の各集落で「隠れキリシタン」として殉教と迫害の苦難を繰り返しながらその信仰を守り続けている。殉教の島中江ノ島(なかえのしま)も市域に含まれる。城下町の南方の川内浦(かわちうら)は平戸開港当時、平戸港の外港的役割を果たした潮(しお)待ち港で、外国人向けの食料としてかまぼこの製造を行ったと伝えられ、現在川内かまぼこの特産地である。明の遺臣鄭芝龍(ていしりゅう)はこの地の女子を妻とし、1624年(寛永1)この川内浦の喜相院(きそういん)にて鄭成功(ていせいこう)が誕生した。現在、海水浴場としてにぎわう千里ヶ浜(せんりがはま)には「鄭成功児誕石(じたんせき)」があり、丸山(まるやま)には「鄭成功廟(びょう)」がある。

 市の北部の田助(たすけ)漁港も潮待ち港として繁栄し、江戸時代、船宿3軒、遊女屋30余軒を数え、「ハイヤー節」が生まれた。この元歌が日本海を北上しまたは五島(ごとう)・天草灘(なだ)を南下して、全国のアイヤ節、ハイヤ節、オケサ節のルーツをなしたという。市の中央部の中心集落紐差にはロマネスク様式の外観をもつカトリック紐差教会があり、南部の中心集落津吉では茶市が開かれ、南東岸の前津吉からは相浦(あいのうら)港(佐世保(させぼ)市)への航路がある。

 市の産業は、農漁業を主とし、米、麦、サツマイモのほかミカン栽培が台頭している。古くから牧牛が盛んで平戸牛の名がある。平戸瀬戸のトビウオ(地元ではアゴという)は、季節を告げる魚といわれ初秋に漁獲する。また川内湾では真珠養殖が行われている。

 平戸港は西海国立公園(さいかいこくりつこうえん)の北の玄関にあたり、本土からフェリーが通じていたが、1977年(昭和52)平戸大橋(全長665メートル)が完成。市の産業振興に大きな役割を果たしている。

 市域に含まれる度島は低平な玄武岩台地で、度島浦、飯盛(いいもり)などの集落は南岸に位置し、漁業が主で、台地上の畑作を副業としている。

 市の観光資源としては、既述の史跡のほか、国の天然記念物の黒子島(くろこじま)原始林(ハマビワ、ホルトノキなど)や、阿値賀島(あじかじま)(天然保護区域)のビロウ樹林などがあり、国指定の重要無形民俗文化財の平戸神楽(かぐら)やジャンガラ念仏踊などもある。生月島は大型巻網(まきあみ)漁業が盛ん。平戸島とは生月大橋で結ばれる。大島で盆に行われる須古(すこ)踊は国選択無形民俗文化財。田平では1622年(元和8)宣教師カミール・コンスタンス(カミロ・コンスタンツォCamillo Costanzo、1571―1622)が火刑により殉教をとげている。焼罪(やいざ)史跡公園に殉教の碑がある。面積235.12平方キロメートル、人口2万9365(2020)。

[石井泰義]

〔世界遺産の登録〕2018年(平成30)、ユネスコ(国連教育科学文化機関)により「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」の構成資産「平戸の聖地と集落」として、春日集落と安満岳(やすまんだけ)、ならびに中江ノ島が世界遺産(文化遺産)に登録された。

[編集部 2018年9月19日]

『平戸市編『平戸市史』(1983・大和学芸図書)』


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百科事典マイペディア 「平戸」の意味・わかりやすい解説

平戸[市]【ひらど】

長崎県北部,平戸島と周辺の度(たく)島,的山(あづち)大島,生月島及び対岸の田平地区などを含む市。1955年市制。中心市街の平戸は平戸島北東端にあって平戸瀬戸を隔てて北松浦半島の田平町(現・平戸市)と対し,平戸大橋で結ばれる。北西に位置する生月(いきつき)島との間には,1991年生月大橋が完成。平戸港は天然の良港で,1550年のポルトガル船入港から鎖国に至るまでポルトガル,オランダなどとの貿易で繁栄,近世は松浦氏の城下町であった。オランダ商館跡(史跡),イギリス商館跡,キリシタン遺跡,ザビエルや三浦按針の記念碑,眼鏡橋の幸橋,松浦史料博物館などがある。海岸は屈曲に富み良漁港が多く,タイ・トビウオ漁,水産加工などが行われ,牛の飼育も盛ん。古江湾,志々伎(しじき)湾などは西海国立公園に属する。2005年10月北松浦郡生月町,田平町,大島村を編入。235.08km2。3万4905人(2010)。
→関連項目アダムズオランダ商館日記カピタン(日本史)カロンコックスじゃんがらセーリス値賀島出島

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「平戸」の解説

平戸
ひらど

長崎県北部に位置し,平戸島・度(たく)島からなる。古代から海上交通の要地で,遣唐使は庇良(ひら)島(平戸島)を寄港地として利用。中世には松浦(まつら)党の諸氏が勢力をふるい,16世紀の倭寇の拠点ともなった。1550年(天文19)ザビエルが布教を行い,近世の禁教令以後も多くの信者が潜伏キリシタンとなった。松浦氏平戸藩の城下町で,近世初期にはオランダ貿易の窓口。1955年(昭和30)6村を合併し市制施行。77年平戸大橋が開通し,対岸の田平町と陸上交通で結ばれた。

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旺文社世界史事典 三訂版 「平戸」の解説

平戸
ひらど

長崎県の北西端にある港
古来,朝鮮・中国との海上交易の基地となっており,松浦氏の下で繁栄し,1550年にザビエルの布教以後はキリシタンが増加した。また,ポルトガル・オランダ・イギリスとの交易が行われ,特に江戸時代初期にはオランダとの交易で藩財政は潤った。しかし,オランダ商館の長崎出島移転後には,かつての繁栄は失われた。

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旺文社日本史事典 三訂版 「平戸」の解説

平戸
ひらど

長崎県北西部,平戸島にある中心港市
古くからの貿易港で,遣唐使船の寄港地でもあったが,1550年ポルトガル船の入港以来,領主松浦 (まつら) 氏の保護により,対外貿易の一大中心地となった。1641年オランダ商館の長崎移転後は衰退し,単なる漁港となる。1955年市制を施行。

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世界大百科事典(旧版)内の平戸の言及

【長崎貿易】より

…(1)南蛮貿易期 開港後まもなく,一時イエズス会領になったので(1580),それまで九州各地に渡来したマカオからのポルトガル船や,マニラ発のスペイン船は長崎に集中するようになり,江戸時代に入ると唐船(江戸時代には明,ついで清朝船だけでなく,東南アジア各地からのジャンクもそうよばれた)の入港も急増し,さらに朱印船の中心的な発着港として栄えた。これに対し後発のオランダ,イギリスは,それぞれ1609年(慶長14),13年に平戸に商館を建てて日本貿易を開始した。平戸は中世以来の唐船貿易の一大根拠地でもあったが,直轄地長崎での糸割符制,キリシタン禁制を柱とする内外商人規制は,しだいに平戸へも拡大された。…

【肥前国】より

…竜造寺氏の勢力は衰退し,代わって鍋島氏,松浦氏,大村氏,有馬氏などが戦国大名として肥前国の覇を争うことになった。
[キリシタン大名]
 1550年(天文19)6月ポルトガル船が平戸に入港したのを契機として,肥前国各地(主として現在の長崎県下)にヨーロッパ船が入港し,戦国大名との間で貿易を行い,鉄砲をはじめとする新兵器を提供した。またフランシスコ・ザビエルが50年8月平戸に立ち寄りキリスト教を布教したので,松浦,大村,有馬氏領内には多くのキリスト教信者が生まれた。…

※「平戸」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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