日本歴史地名大系 「本部村」の解説 本部村もとべむら 佐賀県:武雄市本部村[現在地名]武雄市若木町(わかきまち)本部標高五一八メートルの眉(まゆ)山西南麓に位置し、西は現伊万里市に接する。慶長絵図に「本部」とある。正応五年(一二九二)一〇月七日の関東所領安堵下知状案(小鹿島文書)の「長嶋庄下村内百二十町并皮古山半分」は川古(かわご)村で、残り半分は本部村であったと思われる。この地域は平安時代後期は長島(ながしま)庄に属し蓮華王(れんげおう)院領。鎌倉時代は橘薩摩氏の領有となり、室町時代には塚崎(つかざき)庄に加えられて塚崎後藤氏の領地となった。江戸時代には佐賀藩の蓮池(はすのいけ)支藩領と武雄領とが入り組んだ三部所(さんぶしよ)であり、明治まで続いた。 本部村むとうぶむら 沖縄県:沖縄島南部南風原町本部村[現在地名]南風原町本部(もとぶ)南風原(ふえーばる)間切の南半分をさすシチャムラを構成する一村。東隣の喜屋武(ちやん)村と一括して喜屋武本部(ちやんむとうぶ)とも称される。兼城(かにぐしく)村の南にあり、高津嘉山(たかちかざん)などの丘陵に囲まれた窪地の南向き斜面に集落が形成されている。ムトゥブ村とよばれる。武寧王の子本部王子が移住した村という。絵図郷村帳に村名がみえ、琉球国高究帳によると間切中田畑面積三位の村で、高頭一六〇石余、うち田一一五石余・畠四五石余。「琉球国由来記」に本部之嶽・本部里主之殿・下本部之殿・上之殿・上ノアタリ之殿の五拝所が本部ノロ管轄とみえる。一八八〇年(明治一三年)ののろくもい役俸によると本部ノロの作得表高米六斗余・雑石三斗余、現収高米一石。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by