朝日日本歴史人物事典 「本野一郎」の解説
本野一郎
生年:文久2.2.22(1862.3.22)
明治大正期の外交官。佐賀藩出身の蘭学者本野盛亨の長子として生まれる。明治6(1873)年フランスに渡航し,9年7月までパリで修業。9年9月帰国し東京外国語学校に入学。17年11月フランスのリヨン法科大に入学し優秀な成績をおさめた。22年7月法律博士試験に及第し,同年10月帰国。翌23年外務省の翻訳官に就任した。26年法学博士の学位取得,29年公使館1等書記官としてロシア在勤。31年10月ベルギー公使,34年12月フランス公使となる。その間得意のフランス語を活用してそれら諸国との交渉に努力した。日露戦争前後の外交上の功により男爵を授けられた。39年1月ロシア公使(間もなく大使に昇格)となり,大正5(1916)年に至るまでその任を動かず,4回にわたる日露協約を締結して日露関係の改善に尽力し,特に第4回日露協約締結の功により子爵となる。寺内内閣が成立すると外務大臣に就任し,6年7月臨時外交調査会委員となる。同年11月のロシア革命とその後の事態に対処し,シベリア出兵が問題になると積極的に出兵を主張したが,閣議で反対にあい,持病の悪化もあって7年4月辞職。日本軍がシベリア出兵を宣言(8月2日)した直後の9月17日没した。本野は語学に秀でた外交官であったが,外務大臣としての任期は短く十分にその力を発揮できなかった。
(吉村道男)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報