第1次大戦長期化を背景に帝政ロシアで1917年、2度にわたって革命が発生。旧暦の2月(現在の3月)に起きた「二月革命」は現在のサンクトペテルブルクで食糧難に苦しむ労働者が起こしたデモが発端。全土に拡大して臨時政府が樹立され、皇帝ニコライ2世が退位した。その後、戦争を続けた臨時政府への不満が高まり、旧暦10月(現11月)に始まった「十月革命」で臨時政府が倒れ、レーニンが指導するソビエトが政権を握り、世界初の社会主義国が誕生した。(モスクワ共同)
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ロシアに起こった20世紀最大の人民革命。革命によって成立した政権が、史上初めて社会主義国家の建設を目ざし、そのことによって世界の反資本主義・反帝国主義運動に大きな力を与え、世界史に巨大な影響を及ぼした。
革命は、広義には1905年革命と、1917年の二月革命および十月革命とからなり、前者を第一革命、後者の二つをあわせて第二革命ともよぶ。このうち十月革命は、ソビエト政権を樹立し、その後のソビエト連邦の誕生につながったため、狭義のロシア革命ともいう。
なお、ここでいう二月革命、十月革命は、当時のロシアで公式に用いられていたロシア暦に従ったもので、西暦ではそれぞれ3月と11月にあたるため、三月革命、十一月革命ともいわれる。20世紀ではロシア暦に13日を加えると西暦になるが、ロシア暦は1918年1月末で廃止され、西暦にかえられた(なお以下の記述も、1901~1918年1月末まではロシア暦に従ったが、適宜( )内に西暦を示した)。
[藤本和貴夫]
ロシアにおいて、1890年代、無制限専制君主制の下に進められた鉄道建設と重工業の育成は、急速な工業化と高い経済成長をもたらした。それを可能にしたのは、フランスを筆頭とする膨大な外資の導入と、人口の8割以上を占める農民から徴収した穀物の「飢餓輸出」であった。しかし、20世紀初頭の恐慌はロシアの経済成長の矛盾を表面化させた。1900年末から1901年にはキエフ(現、キーウ)、サンクト・ペテルブルグなどの学生運動が活発となり、街頭での市民、労働者との共闘を生み出した。また農奴解放令の発布(1861)以来平静であった農村でも、40年ぶりに一揆(いっき)が頻発した。同じころ、ロシア化政策に反対するフィンランドやポーランドなどの諸民族の反抗も激しくなった。
大衆運動の活発化と並行して、政党の組織化が進んだ。1898年に結成されたロシア社会民主労働党は、1903年に国外で第2回大会を開き、ボリシェビキとメンシェビキの2分派を生み出しつつ、組織的な革命運動に乗り出した。一方、変革の担い手をプロレタリアート、勤労農民、革命的・社会主義的知識人に求めるSR(エスエル)党も、革命的なナロードニキのサークルを基礎に、1901年末に結成され、専制に対抗する手段として「戦闘団」を組織、1904年7月、大衆の弾圧で名高い内相プレーベВячеслав Константинович Плеве/Vyacheslav Konstantinovich Pleve(1846―1904)の暗殺を頂点とする多くのテロ活動を行った。また自由主義者たちも、1903年にはゼムストボ(地方自治会)の反政府的地主層がゼムストボ立憲主義者同盟を、1904年には自由主義的な知識人と地主が非合法結社の解放同盟を結成し、立憲政治を求める活動を開始した。
[藤本和貴夫]
1891年のシベリア鉄道起工によって極東への本格的な進出を開始したロシアは、満州(現、中国東北)を目ざす日本と衝突、1904年1月(西暦2月。以下同じ)、日露戦争に突入した。しかしロシアは遼陽(りょうよう)、沙河(さか)の陸戦で敗れ、1904年12月(1905年1月)には旅順要塞(ようさい)が陥落した。1905年革命の発端となる「血の日曜日」事件は、この敗戦による政府の権威の失墜のなかで起こったのである。これは、1905年1月9(22)日、ツァーリ(皇帝)ニコライ2世に対する請願行動のために冬宮を目ざした労働者とその家族に、軍隊が一斉射撃を浴びせ、多くの死傷者を出した事件である。司祭ガポンに率いられたこの行進は、首都ペテルブルグの工場のゼネストのなかで行われたものであり、「血の日曜日」はストライキ運動への弾圧であった。以後、「血の日曜日」に対する抗議ストライキは全国に波及し、とくにポーランドとバルト海沿岸地方では激烈なストライキと街頭デモのなかで多数の死傷者を出した。
[藤本和貴夫]
ロシア軍は1905年2(3)月、陸戦最大の決戦となった奉天の会戦で敗れ、5月にバルチック艦隊が日本海海戦で全滅した。これは政府批判をさらに激化させた。5月には、ストライキの波がふたたび高まり、また4~6月には、農村でも農民が地主に対して、地主地での労働に対する報酬の引上げと借地料の引下げを要求、村ぐるみの闘争に立ち上がった。6月に起こった黒海艦隊の戦艦ポチョムキン号の反乱は、反乱が軍隊をも巻き込んだことで社会に大きな衝撃を与えた。このようななかで、中央工業地帯の繊維工業都市イバノボ・ボズネセンスクで、5月12日から72日間にわたり、軍隊の弾圧にもかかわらず全市ゼネストが打たれた。ここでストライキ参加企業の労働者の代表によって構成された「代表者ソビエト」が、全市ストライキ委員会として生まれた。「ソビエト」とは会議、評議会を意味するロシア語であるが、以後この語は人民権力の機関をも意味することばとなる。
8月6日、政府は選挙人資格を制限し、法案の審議権だけをもつ国会の設置を発表、一定の譲歩を示した。それと同時に、革命情勢に対応するため、日本との戦争の終結を急ぎ、ウィッテを代表として派遣し、7月28日(8月10日)、ポーツマス会談を開始、8月23日(9月5日)、ポーツマス条約に調印した。
[藤本和貴夫]
しかし革命の波は、10月7日に始まるモスクワ―カザン鉄道の労働者ストライキを契機に、全国主要都市のストライキへと拡大、革命は最高潮に達した。8時間労働日や民主的諸権利、普通選挙による憲法制定会議の招集などがその要求とされた。ここで政府はウィッテの主張をいれてふたたび譲歩し、10月17日、「十月宣言」を発布して、人身の不可侵、良心・言論・集会・結社の自由、立法権のある国会(ドゥーマ)の開設、制限付きの住民の選挙参加を認めた。また大臣会議議長(首相)の職が新設されてウィッテが任命された。
これを機に、十月宣言を受け入れて反政府運動から手を引く自由主義者と、それを拒否する革命派との分解が始まった。カデット党(立憲民主党)は、十月全国ゼネスト中に創立大会を開き、国会を通じて政治的自由のための合法闘争と立憲君主制を目ざす方針をたてた。また、より与党的な立場から十月宣言を支持する「十月党」(オクチャブリスト)も結成された。
十月全国ゼネストは、10月21日に終結したが、ストライキの過程で同月13日に成立したペテルブルグ・ソビエトは、ストライキ終結後も活動を続行した。そのイニシアティブの下に、右翼からの防衛のための労働者の武装、検閲出版条例の空文化、8時間労働日の実力実施などが行われた。農村では、9月から年末にかけ、ヨーロッパ・ロシア中央部を中心に、土地を要求する一揆が激化した。10月から11月にかけて、クロンシュタット、セバストポリ、ウラジオストクなどで水兵を中心とした反乱が起こった。
反撃の機会をねらっていた政府は、12月3日、ペテルブルグ・ソビエトの議長トロツキーを含むソビエトの代議員を逮捕、ソビエトは壊滅した。これに対し、モスクワ・ソビエトは12月7日にゼネストに突入、9日にはこれを武装蜂起(ほうき)へと転化したが制圧され、革命は鎮圧された。ゼネストを背景とした武装蜂起はバルト海沿岸地方、カフカス、ジョージア(グルジア)にも繰り広げられた。またシベリア、黒海沿岸などの辺境地域では、地方権力の全面的な空洞化と、それにかわって共和国を称する人民権力の一時的な萌芽(ほうが)がみられた。
[藤本和貴夫]
政府は国会開設に向け、十月宣言の譲歩を限定することに力を注いだ。1906年4月22日、ツァーリは妥協的なウィッテを罷免、23日に国家基本法(憲法)を公布した。そこでは、ツァーリは、国家評議会(上院にあたる)と国会(ドゥーマ、下院にあたる)によって制限される「最高専制権力」をもつものとされた。地主、ついでブルジョアジーに圧倒的に有利な選挙制度の下で、4月27日に開会された第一国会では、「中間的住民層」の獲得に成功したカデットが36%を占め第一党、無党派急進農民のトルドビキが20%で第二党となり、与党の立場をとるオクチャブリストは十数名にとどまった。社会主義諸党はボイコットした。政府は、土地改革などを要求して対立した国会を2か月半で解散した。
1907年2月の第二国会では、社会主義者が選挙参加へ戦術を転換したためより急進的になり、40%以上を社会主義者が占めることになった。第二国会の解散後、政府は選挙制度を改悪し、11月の第三国会では、ようやくオクチャブリストが第一党、国権派などの右翼が第二党となり、国会を親政府派で占めることに成功した。
[藤本和貴夫]
第一国会解散後に首相となったストルイピンは、国内の大衆運動を徹底的に弾圧し、それとともに自営農民の創設による農業の近代化を目ざした。これは、豊かな自営農を、帝政の新たな支柱にしようとするものであった。しかし、1915年末までに自営農になったのは1割にすぎず、しかも彼らは共同体に残る農民と新たな対立を呼び起こした。1912年4月労働運動がふたたび活気づき、1914年7月にはペテルブルグでバリケード戦が行われるまでになった。そして1914年7月19日(8月1日)、ロシアは第一次世界大戦に突入した。
[藤本和貴夫]
開戦は、国内支配層の団結と挙国一致の雰囲気をつくりだし、労働運動を沈黙させた。そしてSR(エスエル)やメンシェビキら多くの社会主義者のなかにも祖国防衛戦争を支持する潮流を生み出した。しかし、ロシアは、開戦50日にして兵員輸送難と砲弾補給難に陥った。さらに1915年春から夏にかけてのガリツィア、ポーランドでの大敗は社会の動揺を大きくした。モスクワでは、全工業の動員を旗印に、中央と地方における「戦時工業委員会」が設置され、のちに労働者代表も加わり、帝政の改造による「戦える政府」を目ざした。労働運動も1916年に入ると高揚し、また前線兵士の戦争意欲の喪失も問題となってきた。1916年夏から年末にかけて、中央アジア住民を中心とする兵役動員に対する民族反乱も起こった。そして政権の頂点にたつツァーリのニコライ2世は、ラスプーチンと皇后のグループの恣意(しい)のままに動かされていた。1916年12月、専制内部からラスプーチンの暗殺が決行されたが、すでに手遅れであった。
[藤本和貴夫]
1917年に入ると、首都ペトログラード(ペテルブルグを1914年に改称)では1月9日の「血の日曜日」記念日に大規模なストライキが打たれた。首都の社会主義系諸団体は、2月23日(3月8日)の国際婦人デーを屋内集会として記念する予定であった。しかし当日、工場地区ブイボルグの婦人繊維労働者たちは自らのイニシアティブでストライキに入り、周辺の工場に同調を求めた。食糧不足は深刻になっており、パンを求めて行列が続いた。夕方までに労働者街はゼネストの様相をみせた。翌日、ストライキは市の多くの区に広がり、市の中心部に行進した大衆は、「パンをよこせ」に加えて「戦争反対」「専制打倒」のスローガンを掲げ始めた。25日、ストライキは全市に拡大、デモ隊と警官・軍隊との武力衝突が本格化した。27日の朝には近衛(このえ)ボルイニ連隊が民衆への発砲を強いられる出動を拒否したが、それは急速に他の部隊に波及した。反乱に立ち上がった兵士たちは労働者とともに政治犯を解放した。28日には政府軍が消滅し、革命7日目の3月1(14)日までに政府閣僚が逮捕された。
[藤本和貴夫]
帝政崩壊の過程で、新しく権力を担う労働者・兵士ソビエトと国会臨時委員会が成立した。2月27日の夜、ペトログラード・ソビエト結成大会が開かれ、社会主義者の右派・中間派を主流とする執行委員会が選出された。ソビエトには労働者とともに兵士も代表を選出した。そして3月1日のペトログラード労兵ソビエト「命令第1号」によって、兵士はソビエトに従うことが表明された。ペトログラード労兵ソビエトは、その後続々と結成される各地のソビエトの全国的中心となった。
他方、2月27日の昼に設立された国会の臨時委員会は、多くの自由主義者の要求により、同日深夜、政権掌握を決意、翌朝より諸官庁の接収に乗り出したが、官吏もこれを支持した。ソビエトは自ら政府をつくる意志はなく、革命の成果を擁護する限りは国会臨時委員会を支持するとした。こうして、国会臨時委員会主導の臨時政府が3月2(15)日に成立した。同じ日、ツァーリのニコライ2世は退位し、弟のミハイル大公に譲位したが、ミハイル大公が即位を拒否したためツァーリは存在しなくなった。約300年間続いたロマノフ朝はここに崩壊した。
[藤本和貴夫]
リボフ公を首相とする臨時政府は、ソビエト副議長となったケレンスキー法相を除けば全員自由主義者によって編成された。政府は、ソビエトの要求する政治犯の大赦、言論・出版・結社・集会の自由、身分・宗教・民族による制限の撤廃、憲法制定会議の招集準備など、国内の民主化を認めたが、戦争問題ではソビエトと協定を結ばず、連合国との協力による第一次世界大戦の勝利を目ざした。他方、ペトログラード労兵ソビエトは、「革命的祖国防衛主義」を掲げ、「無併合・無償金・民族自決による講和」の追求を確認していた。ミリュコーフ外相(カデット)が4月18日(5月1日)付けで連合国に宛(あ)てた好戦的な覚書の暴露によって、大衆のミリュコーフ打倒デモが引き起こされたが、臨時政府は、危機の乗り切りのため、ソビエトからの入閣を強力に求めることになった。ソビエト内主流派のSR(エスエル)、メンシェビキもこれを受け入れた。
[藤本和貴夫]
5月5(18)日には、リボフ首相の下に社会主義者6名と自由主義者9名とからなる第一次連立政府(第二次臨時政府)が成立した。しかしこれは同時に、ソビエト内に、自由主義者との連立に反対してソビエト権力の樹立を目ざす、ボリシェビキ、SR左派、メンシェビキ国際派などの潮流を明確に登場させた。これより先の4月3日、亡命地スイスからドイツ軍占領地帯を「封印列車」で帰国したレーニンは、帰国直後に「四月テーゼ」を発表、戦争が依然として帝国主義戦争であり、戦争を続ける臨時政府と対決し、ソビエトが全権力を握るべきだと主張した。これがボリシェビキの方針となり、大衆の支持を拡大していったのである。
他方、第一次連立政府も連合国との協調体制を柱としていたが、6月18日に開始された東部戦線における夏期攻勢は失敗に終わり、兵士の不満は高まった。二月革命以後、労働者によって組織された工場委員会などによる資本家に対する労働者統制が開始されていた。また農民運動も、共同体を基盤に、地主地はいうまでもなく、ストルイピン改革で生まれた自営農民に対する攻撃を強めた。またロシア帝国内で6割近くを占める非ロシア民族の自立化運動も強まった。7月初め、政府は、人口でロシア人に次ぐウクライナ人の自治要求をある程度認めるに至った。
[藤本和貴夫]
この時期、すでに臨時政府打倒とソビエト政権樹立が可能だと考えて急進化した首都の一部兵士・労働者は、7月3日と4日、臨時政府打倒を目ざすデモを決行した。しかし政府は軍隊の動員に成功してこれを鎮圧、デモ参加部隊は前線へ送られて、カーメネフ、トロツキーらは逮捕、レーニン、ジノビエフらは地下に潜行した(七月闘争)。7月24日には、ケレンスキーを首相とした第二次連立政府が成立したが、彼によって最高総司令官に任命されたコルニーロフ将軍はケレンスキーの打倒を目ざして反乱を起こした。8月27日、前線軍の司令官たちに支持されたコルニーロフは、自己の部隊に首都進軍命令を出した。コルニーロフ軍の兵士は、ソビエトが派遣したオルグ(組織者)たちの説得でソビエトへの忠誠を表明するに至り、9月1日、コルニーロフは逮捕された。
[藤本和貴夫]
反コルニーロフ闘争の勝利は、各地のソビエト内のソビエト権力派を強化した。1917年8月31日、ペトログラード労兵ソビエト総会が「革命的プロレタリアートと農民の代表からなる政権」を決議し、9月25日に至って、第一革命時の議長であるトロツキーを議長に選出した。同月28日、モスクワ労兵ソビエト合同会議も「全権力をソビエトへ」を可決した。このような動きは各地に波及し、全国的なソビエト権力の樹立が日程に上った。ボリシェビキは、10月10日と16日、地下潜行中のレーニンを交えた中央委員会で「武装蜂起(ほうき)」を決定し、その時期についてはソビエトの動向を重視することにした。
首都のソビエトは、10月16日、首都の防衛を目的とする軍事革命委員会を設立した。SR(エスエル)、メンシェビキが委員会をボイコットしたため、これがボリシェビキ、SR左派ら、革命派のみによって構成される十月革命の合法的な指導機関となった。臨時政府は、24日未明、士官学校生を主力とする部隊を動かして反攻に出たが成功しなかった。第2回全ロシア・ソビエト大会が開かれた25日の昼過ぎには、臨時政府の立てこもる冬宮周辺以外はほとんどソビエトの管理下に入った。ソビエト権力の樹立が自覚的に追求されていたため、二月革命のような大規模な街頭デモやストライキは行われなかった。
[藤本和貴夫]
10月25日(11月7日)午後10時40分にソビエトの本部スモーリヌイ会館で開会された第2回全ロシア・ソビエト大会は、軍事革命委員会による権力獲得という既成事実を突きつけられた。第1回大会(同年6月3~24日)と異なり、ボリシェビキが多数派であった。この日、夕方になって冬宮包囲を完成した首都の赤衛隊(労働者の武装部隊)、首都守備軍とバルチック艦隊の水兵とからなる部隊は、冬宮守備隊に対して最後通牒(つうちょう)とアジテーター(活動家、煽動(せんどう)者)を送った。夜の9時になって攻撃開始を告げる空砲がペテロパブロフスク要塞(ようさい)、続いてネバ川に浮かぶ巡洋艦アブロラ(オーロラ)号から打たれた。冬宮が包囲軍により占領され、この朝首都を脱出したケレンスキー首相を除く閣僚が逮捕されたのは26日午前2時10分であった。いったん休憩ののち、午前3時10分に再開されたソビエト大会は、レーニンによって書かれた最初のアピール「労働者・兵士・農民諸君へ」を採択した。それは、大会による権力の掌握を宣言するとともに、民主的な即時講和の全交戦国に対する提案、農民の要求である地主地などの没収とそれの農民委員会への引き渡しの保障、軍隊の完全な民主化による兵士の権利の保障、労働者統制の樹立、憲法制定会議の適時招集の保障、都市へのパンと農村への生活必需品の供給、民族自決権の保障を約束するものであった。そして最初の2項目は大会2日目に「平和についての布告」と「土地についての布告」として採択された。続く政府の構成問題は難航したが、結局、第二党となったSR(エスエル)左派に入閣を拒否されたボリシェビキは、レーニンを議長、トロツキーを外務人民委員、スターリンを民族人民委員とするボリシェビキ単独の「人民委員会議」を「臨時労農政府」として発足させた。大会は27日朝閉会した。
他方、首都を逃れたケレンスキーは、クラスノーフПëтр Николаевич Краснов/Pyotr Nikolaevich Krasnov(1869―1947)将軍の軍を率いて首都を目ざしたが、10月30日、プルコボの戦闘で敗れた。ロシア第二の都市モスクワの市街戦は11月3日のソビエト政権樹立宣言で終わった。ほぼ同じころ、ドイツ軍占領地帯を除く首都を中心とする北西部、中央工業地帯主要都市、白ロシアとこれら各地に駐屯する北部方面軍、西部方面軍、大本営においてソビエト権力が樹立された。「労働者統制令」が11月16日に布告され、12月14日には銀行が国有化された。同月16日には「軍隊の民主化」が布告され、軍隊から官位・階級・称号が廃止され、指揮官の選挙制が定められた。12月9日、ボリシェビキ14名、SR左派7名によって構成される新たな労農政府が形成された。1918年1月5日、憲法制定会議が開かれたが、レーニン政府は、ソビエト中央執行委員会が採択した「勤労被搾取人民の権利の宣言」の採択を迫り、これを否認した会議を解散した。この宣言はその後、1月の全ロシア農民ソビエトの合流をみた第3回全ロシア・ソビエト大会によって採択された。宣言には、ロシアは「労兵農ソビエト共和国と宣言され」「自由な諸民族の自由な同盟に基づいた各民族ソビエト共和国の連邦」として創設されると書かれており、レーニンは大会で「社会主義」を目ざすことをはっきりと宣言した。なお、1月24日にはそれまでのロシア暦から西暦への改暦が告示された。
[藤本和貴夫]
革命最初の危機は講和問題をめぐって起こった。ソビエト政府は全交戦国に、無併合・無償金の即時講和を提案したが、連合国側の無視とドイツによる侵略的要求に直面した。しかも旧来のロシア軍は解体を始めていた。ソビエト政府は、トロツキーの「戦争もせず、講和も調印しない」という方針を定めた。しかし、ドイツ軍の侵入の圧力の下、1918年3月3日(西暦。以下同じ)、ソビエト政府はドイツとブレスト・リトフスク条約を結び、戦争から離脱した。ソビエト・ロシアは広大な領土を失った。また講和に反対するSR(エスエル)左派の全閣僚が辞任したため、統一戦線政府が消滅したことも大きな痛手であった。
このような情勢下に、正規軍方式による赤軍の建設が急がれ、旧将校の登用と、これを監視するとともに軍においてソビエトを代表する政治委員としてのコミッサールの任命が開始された。最高国民経済会議は、中央からの労働者の統制に乗り出した。農業政策では、3月にロシア共産党と名を変えたボリシェビキ党は、5月13日に「食糧独裁令」を、6月11日には「貧農委員会」の組織化を布告、武装食糧徴発隊を農村に投入したが、しばしば農民との衝突となった。共産党の農業政策に反発したSR左派は、最初のロシア社会主義共和国憲法を制定した第5回全ロシア・ソビエト大会中の7月6日、反乱を起こして翌日に鎮圧され、ソビエト内の第二党は姿を消した。
[藤本和貴夫]
ロシア中央部でソビエト権力が確立されるにしたがい、反革命の拠点となったのは旧ロシア帝国周辺の諸民族地域である。1918年1月以来、ドン、クバン、ウクライナなどでソビエト軍と反革命軍との戦闘が続いたが、全面的内戦の合図となったのは、5月にウラル、シベリアで起こったチェコ軍団の反乱である。第一次世界大戦中ロシア国内で編成され、革命後はヨーロッパ戦線へ移動のためシベリア鉄道沿線に展開していた軍団の反乱は、ソビエト政権に深刻な脅威を与えた。シベリア各地に反ソビエト政権が生まれた。連合国はこれを契機に全面的な干渉戦争を開始、8月にはチェコ軍救援を口実に、日本軍、アメリカ軍を主体とする大部隊がシベリアに侵入した。
9月2日、トロツキーを長とする共和国革命軍事評議会が、11月30日にはレーニンを長とする労農国防会議が設置された。ソビエト軍は、8~9月、カザンをめぐる戦闘で初めてチェコ軍を撃破し、ボルガ地域を回復した。1918年6月28日、主要工業部門の国有化が宣言されたが、それは続いて中小企業にまで及んだ。1919年1月には食糧割当徴発の実施が決められ、農民は自家消費以外の全食糧を国家に引き渡すことが義務づけられた。これらの経済政策は、のちに戦時共産主義とよばれる。
[藤本和貴夫]
1918年11月に第一次世界大戦が終結すると、ソビエト政権はブレスト・リトフスク条約の廃棄を宣言、1919年2月には赤軍がキエフに入り、ウクライナの全域を支配下に置いた。他方、対独戦争から解放された連合国軍は、南部ロシアに上陸したが、動員された連合国軍兵士の戦争拒否などのためロシア中央部に進撃できなかった。シベリアでは、1918年9月に、SR(エスエル)とブルジョアジーの連合政権である全ロシア臨時政府が生まれたが、内部抗争ののち、11月、コルチャークのクーデターによって崩壊し、ブルジョア・地主反革命軍独裁政権が成立した。1918年秋以降、革命によって土地を手に入れ、全体として平準化して「中農」化した農民たちは、反革命の制覇が土地の喪失につながることを自覚した。1919年3月の第8回共産党大会も、中農との同盟を確認し、両者の関係は改善された。またこの大会は、コミンテルン(国際共産主義インターナショナル)の創設を決議し、帝国主義戦争に加担した第二インターナショナルにかわる第三インターナショナルとして、同月モスクワで創設された。それはプロレタリア国際主義に基づき、世界革命運動の指導を目ざすものであった。
赤軍は1919年6月になってようやく東部戦線で反革命勢力のコルチャーク軍を撃退した。1920年2~3月には、南部方面の戦闘で同じく反革命のデニキン軍主力も粉砕された。東部戦線では、1920年3月7日、赤軍がイルクーツクに入ったが、それ以東には進まず、バイカル湖以東には、日本との緩衝国として極東共和国が建設された。
[藤本和貴夫]
戦争から平和への移行期の1920年4月、ポーランド軍が攻撃を開始、一時はキエフを占領された赤軍も、6月には反攻に転じ、8月には国境を越えてワルシャワ近郊に迫った。しかしビスワ川の戦闘での敗北によって赤軍は退却を余儀なくされた(ポーランド・ソビエト戦争)。
内戦の終結は、ふたたび穀物割当徴発をめぐるソビエト政権と農民との対立を表面化させた。内戦と連合国の経済封鎖により、都市の状態も農村同様悪化していた。そしてこれらの矛盾は、1921年3月、クロンシュタット軍港の赤軍水兵および市民の反乱となった。反乱は制圧されたが、反乱の最中開かれていた第10回共産党大会は、この矛盾を解消するため、割当徴発制を廃止して現物税を導入し、農民に余剰穀物の販売を許すというネップ(新経済政策)への転換を決議した。いちおうこの時点をもって、ロシア革命の終結点とすることができる。
[藤本和貴夫]
第一次世界大戦下、連合国の各政府は、二月革命による臨時政府の成立を歓迎した。東部戦線で戦闘力をもつ政府の出現を望んでいた連合国にとって、連合国との協定の遵守と戦争の遂行を掲げる強力な政府の出現は望ましいものだったからである。これとは逆に、十月革命によって成立したソビエト政権は、「平和についての布告」によって、各国人民、とくにイギリス、フランス、ドイツの労働者に帝国主義戦争反対を呼びかけ、秘密条約の暴露に踏み切って、既存の国際秩序を否定し、まったく新たな国際関係を呼びかけた。したがって、連合国側では、対独戦への影響が不明な段階では態度を決しかねたが、ブレスト・リトフスク条約の成立後は公然とした武力干渉による新政権の打倒に向かった。
他方、ソビエト政権にとって、ロシア革命の持続・拡大を保障するものは、被抑圧階級、被抑圧民族との同盟であった。そのための国際組織が、1919年に創設された第三インターナショナルである。それは、帝国主義戦争によってもたらされた混乱を打開する新しい道を求める人々の希望となった。ヨーロッパでは、社会主義政党内の左派による共産党の組織が進み、新たなイデオロギーや文化を成立させた。また、第三インターナショナルは、被抑圧民族の解放へ向けてのさまざまな模索を行ったが、20世紀のもう一つの人民大革命である中国革命に大きな影響を与えた。また、第三世界の発展にとっては避けて通れない多くの問題を提起した。
[藤本和貴夫]
十月革命に対する日本政府の対応は、1918年(大正7)8月から1922年10月に至るシベリア干渉戦争(シベリア出兵)であった。ロシアが革命によって弱体化したのを機に、朝鮮、満州(中国東北)に続き、バイカル湖以東のロシア極東部を日本の勢力圏に組み込もうとするものであった。その過程は、極東進出をねらうアメリカとのさまざまな対立を生みながら進行したが、最終的には成功しなかった。他方、大逆事件以来「冬の時代」にあった少数の社会主義者は、十月革命に期待を寄せた。シベリア出兵反対運動や労農ロシア承認運動が大衆運動として展開されるのは1921~1922年で、小牧近江(おうみ)らの『種蒔(ま)く人』の呼びかけたロシア飢餓救済運動(1921)などに始まる。1922年の東京のメーデーでは「労農ロシアの承認」が決議された。1925年1月、ソ連と日本との間に日ソ基本条約が調印され、国交が樹立された。しかし、日本の支配階級は、ボリシェビズムが日本、とくに日本の植民地とされた朝鮮に浸透することを恐れた。治安維持法はその対策の一つであった。
[藤本和貴夫]
ロシア革命の研究は革命直後から始まり、1920年代にはソ連と欧米で大量の史料が刊行され、回想録が書かれた。ソ連では、1920年代初めからロシア革命の研究を専門とする月刊の『プロレタリア革命』誌や『赤い年代記』誌などが刊行され、豊富な史料・回想・研究が数多く公開された。
これらの雑誌は1930年代初めにスターリンによって廃刊に追い込まれたが、国外に追放されたトロツキーがベルリンで出版した『ロシア革命史』(1931~1933年刊)は、このような1920年代に発表された史料・回想や研究書を総括した上で革命の指導者自身が書いたロシア革命史として、現在でも高く評価されるものである。
その後、スターリン時代に停滞した革命史研究は、1956年のソ連共産党第20回大会でのフルシチョフによるスターリン批判後に研究の見直しが始まり、革命50周年に当たる1967年を中心に膨大な1905年革命や1917年革命の史料集が刊行された。これらの史料集ではボリシェビキと労働者が中心で、時の権力の政策やボリシェビキと異なる政治的諸潮流はほぼ無視されたものであったが、多くの貴重な史料を研究者は利用できることになった。
1920年代から1930年代初めの研究がペテルブルグやモスクワといった中央での動きやボリシェビキ・労働者に集中していたのに対し、スターリン批判以後の研究は各地域や諸民族の動向にも注目するようになったことが特徴である。また1970~1980年代にはボリシェビキ以外の社会民主主義政党であるメンシェビキや自由主義政党のカデット(立憲民主党)なども、批判的にではあるが、研究の対象とされるようになった。
ソ連での主要な研究の方向が、革命の主体、革命の勝利の必然性の解明にあったとすれば、初期の欧米での研究に大きな影響を与えたのは、革命による亡命者たちであった。したがってここでは、革命の原因論と責任論が大きな比重を占めた。革命で倒された臨時政府の首相であったケレンスキーが編集した史料集『ロシア臨時政府』(全3巻)などは、それらをめぐる論争の産物である。
他方、このような立場と一線を画したイギリスのE・H・カーは、『ボリシェヴィキ革命 1917~1923』(全3巻)などで革命とそれが生み出した政治・経済・社会秩序の体系的な分析を行い、欧米や日本の研究者に大きな影響を与えた。
ソ連でペレストロイカ(改革)が開始されるとソ連国内での歴史研究に対するそれまでの制限が急速に弱まった。禁書であったブハーリンやトロツキーらの著作が相次いで刊行され、ブルジョア史学と批判されていたE・H・カーなど欧米の歴史家の研究が相次いで翻訳されるようになった。
さらに、1991年12月のソ連崩壊は、それまで歴史研究に加えられていた多くの制限を取り除いた。共産党関係を中心に秘密とされてきた多くのアルヒーフ(公文書館史料)への接近がかなり自由になり、外国人研究者もロシアの研究者と同様にアルヒーフで研究できるようになった。これは中央の諸機関のものだけでなく、それぞれの地方のアルヒーフにも及んだ。
これと並行して、これまで公開されることのなかった、アルヒーフに保存されている膨大な諸政党や諸事件の史料が、マイクロフィルムや書籍として公刊されるようになった。そのためこれまで実態が明確にならなかった革命と内戦期の農民、諸民族や諸地域とソビエト権力との関係についての研究も、これらの史料を使ってようやく進みつつある。
[藤本和貴夫]
日本でのロシア革命研究が本格的に始められたのは第二次世界大戦後、とくにスターリン批判後である。1968年に出版された共同研究(江口朴郎(ぼくろう)編『ロシア革命の研究』)によって初めて1905年革命と1917年革命が本格的な研究の対象とされた。
1970年代に入ると、1917年革命の過程の研究が進むなかで首都やレーニンに集中された革命像の克服、革命が生み出した矛盾に注目する必要が認識されるようになった。そして諸地域における革命の構造を解明する「革命の地域研究」や諸民族地域の革命の構造が問題とされるようになった。ロシア革命は1917年の首都におけるソビエト権力の樹立で終わるものではなく、基本的には1922年まで続いた諸民族地域を巻き込んだ内戦・干渉戦争を含む過程である。
そしてロシア帝国の「辺境」にあたるザカフカス、中央アジア、極東などの諸民族地域は、ロシア帝国にとっての植民地として存在していたものであり、ロシア革命は植民地解放の問題としてもとらえなければならないとの理解が広まった。はたしてこれらの地域は、ロシア革命によって植民地からの独立を果たしたといえるのかが問題とされるようになったのである。その結果、ウクライナ、ザカフカス、中央アジア、シベリア・極東などの革命の地域研究が進められた。
また、1970~1980年代にスターリン時代の研究が進むにしたがい、革命によって樹立されたソビエト政権と諸地域・諸民族との関係が、スターリン主義の成立を含めてその後のソビエト体制の歴史にきわめて重要な意味をもつことも同時に明らかにされるようになった。1991年のソ連崩壊による各共和国の独立は、まさに革命による植民地の解放がなされなかったことを主張したものであったということができる。
連邦崩壊後、日本でもロシアで新しく公開されたアルヒーフを使った研究がようやく現れるようになっている。また各国が独立したことにより、ウクライナ語やジョージア語文献を利用したウクライナ史、ジョージア史などの研究成果も生まれつつある。これらの研究によってロシア革命が新たな光をあてられることになることが期待される。
[藤本和貴夫]
『江口朴郎編『ロシア革命の研究』(1968・中央公論社)』▽『和田春樹・和田あき子著『血の日曜日』(中公新書)』▽『保田孝一著『ロシア革命とミール共同体』(1971・御茶の水書房)』▽『長尾久著『ロシヤ十月革命の研究』(1973・社会思想社)』▽『菊地昌典編『ロシア革命論』(1977・田畑書店)』▽『西島有厚著『ロシア革命前史の研究――血の日曜日とガポン組合』(1977・青木書店)』▽『和田春樹著『農民革命の世界――エセーニンとマフノ』(1978・東京大学出版会)』▽『辻義昌著『ロシア革命と労使関係 1914~1917』(1981・御茶の水書房)』▽『山内昌之著『スルタン・カリエフの夢――イスラム世界とロシア革命』(1986・東京大学出版会)』▽『藤本和貴夫著『ソヴェト国家形成期の研究(1917~1921)』(1987・ミネルヴァ書房)』▽『E・H・カー著、原田三郎・宇高基輔他訳『ボリシェヴィキ革命 1~3』(1967~1971・みすず書房)』▽『中井和夫著『ソヴェト民族政策史』(1988・御茶の水書房)』▽『長谷川毅著『ロシア革命下ペトログラードの市民生活』(中公新書)』▽『原暉之著『シベリア出兵』(1989・筑摩書房)』▽『菊地昌典編『社会主義と現代世界 1 社会主義革命』(1989・山川出版社)』▽『高橋清治著『民族の問題とペレストロイカ』(1990・平凡社)』▽『木村英亮著『スターリン民族政策の研究』(1993・有信堂)』▽『石井規衛著『文明としてのソ連』(1995・山川出版社)』▽『梶川伸一著『飢餓の革命――ロシア十月革命と農民』(1997・名古屋大学出版会)』▽『梶川伸一著『ボリシェヴィキ権力とロシア農民――戦時共産主義下の農村』(1998・ミネルヴァ書房)』▽『トロツキー著、藤井一行訳『ロシア革命史』全5冊(岩波文庫)』▽『J・リード著、小笠原豊樹・原暉之訳『世界をゆるがした十日間』(1977・筑摩書房)』▽『カレール・ダンコース著、高橋武智訳『崩壊した帝国――ソ連における諸民族の反乱』(1981・新評論)』
20世紀世界史において最も巨大な意義をもった社会変革。マルクス主義者をユーラシア大陸に広がる大国の権力の座につけ,社会主義の名のもとに新しい社会体制をつくり出す一方,反資本主義,反帝国主義の革命運動を全世界に拡大する火元を生み,世界史に革新的な作用を及ぼした。
革命は大きく分けて,1905年の革命(第1次革命)と17年の革命から成り,後者はさらに〈二月革命〉と〈十月革命〉に区分される。この〈十月革命〉は,ロシア革命の全過程の中で最も重要な局面を構成し,マルクス主義にもとづく社会主義社会の実現を目ざす政権を,人類史上初めて誕生させたことで知られる。そのため〈ロシア革命〉という名称が〈十月革命〉と同義に用いられる場合もある。
20世紀初めのロシアは,フィンランドに自治を認めつつ支配し,ポーランド,カフカスを完全に併合し,東はシベリアより極東までを版図に収めた広大な帝国であった。大ロシア民族が,この帝国の住民を構成する多数の民族を支配していた。国家権力は,身分制的秩序を残しながら,一応独立した司法制度,全身分的地方自治制,国民皆兵制軍隊をもつ,改良された無制限専制君主制であった。経済的には,国家の手で養成された鉄道と重機械工業,外国資本で発展した鉄鋼,石炭,石油業が,自立的に成長した綿工業と併存する後進資本主義的な工業の体系と,地主的土地所有が共同体農民の馬,農具持参の労働で支えられる雇役制的農業構造とが,出稼労働者の低賃金によって結びついていた。このような構造をもつロシアは,1890年代には急テンポの経済成長をとげ,体制的に一応の安定をえていたが,20世紀に入ると,恐慌で経済成長が止まり,構造のひずみからさまざまな運動が噴出しはじめた。まず学園の自由から進んで,政治的自由を要求する学生運動が1899年の全国一斉同盟休校から始まり,1901年3月には首都の路上で警官隊と衝突,死者4名を出した。この間,運動弾圧に徴兵措置を用いた文相は狙撃され,殺されている。
ほぼ同じころ,フィンランドでとられた自治権否定,ロシア化政策に抗議するフィンランド人の請願運動は,1901年9月全人口の2割が署名した請願書を皇帝に提出した。1902年3月には,南ロシアのポルタワ,ハリコフ両県で,農民の激しい地主領襲撃事件が広がった。それは農村の久しい沈黙を破るものであった。1903年になると,1890年代の成長の基盤であった南ロシアの鉱山・工場地帯全域に長期かつ深刻なゼネストがおこった。
このような学生運動,民族運動,農民運動,労働運動が噴出して,体制が動揺する中で,皇帝ニコライ2世は90年代の成長政策の推進者蔵相ウィッテを退け,内相プレーベを重用して抑圧政策をとる一方,山師的人物の献策をいれて,極東での冒険政策をすすめ,1904年1月日露戦争に入り込んだ。この戦争は,国民にまったく不人気であり,かつロシアの軍事力,国力の欠陥を露呈した。同年7月,内相プレーベが首都の路上で暗殺され,代わった内相スビャトポルク・ミルスキーPyotr D.Svyatopolk-Mirskiiは譲歩路線に転換し,〈自由主義者の春〉が現出した。
政治党派としては,20世紀の初めよりマルクス主義者の党であるロシア社会民主労働党(以下〈社会民主党〉と略す)とナロードニキ系のエス・エル党が生まれ,活動していたが,全局を制したのは自由主義者たちであった。反政府的な地主層は,ゼムストボ(地方自治体)代表者の大会を開催して圧力を加え,解放同盟Soyuzosvobozhdenie(カデットの前身)に入っている自由主義的知識人は政治的デモンストレーションを目的とする解放宴会をくりかえし,立憲政治を要求したのである。
1904年末,旅順が陥落すると,ロシア政府の権威は決定的に動揺した。この時を待っていた司祭ガポンは,彼が組織してきた首都労働者の合法的親睦共済団体〈ペテルブルグ市ロシア人工場労働者の集い〉(会員約1万)を動かし,皇帝に改革要求の請願書を提出することに踏み切った。これはプチーロフ工場のストライキの中で進められ,請願行進の形をとることになった。
1905年1月9日(新暦1月22日),政治的自由と国民代表制,8時間労働と団結権を求め,〈私たちの祈りに答えてくれなければ,あなたの宮殿の前で死ぬほかない〉と結んだ請願書をもった十数万の労働者とその家族は,首都の数ヵ所から求心的に冬宮めざして行進を開始した。軍隊がこれに発砲し,政府発表では130人,革命家の見積りでは数百人の死者と数千人の負傷者を出した。憤激は首都中に広がり,学生・市民の同情ストがおこり,他の都市の労働者も抗議ストに入った(血の日曜日事件)。政府は問題を労働者の待遇改善問題と狭くとらえて対応しようとしたが,労働立法に消極的な資本家すら立憲的改革を要求するに至った。2月4日には皇帝の伯父でモスクワ総督のセルゲイ大公がエス・エル党員によって暗殺された。政府もやむなく2月18日には,国民代表を法案の審議に参加させることを約束し,その案の作成を内相ブルイギンAleksandr G.Bulygin(1851-1919)に求める勅書が出された。これは世論をいっそう活気づけることになり,自由主義者は専門職業人連盟を結成し,運動の組織化に乗りだした。
日本海海戦でバルチック艦隊が全滅すると,政府批判はいっそう高まり,6月9~11日にはポーランド第2の都市ウッチで労働者がバリケードをつくって警官隊と衝突,300人以上の死者を出した。一方,6月14日黒海艦隊の戦艦ポチョムキンで水兵の反乱がおこり,オデッサ市民と交歓し,政府を慄然とさせた。8月6日,きわめて限定された内容の諮問議会(ブルイギン国会)の設置が発表されたが,それではとても国民の満足はえられなかった。おりしもアメリカ大統領の斡旋で,8月10日よりポーツマス講和会議が始まった。全権に起用されたウィッテは,南サハリンの割譲という,ロシアにとっては最小の譲歩で日本との講和を締結することに成功した。8月末,政府が大学,高等教育機関に自治を認めたことは,労働者,市民,政党が大学の構内で政治集会を自由に開くことを可能にした。大学が革命の震源地と化した感があった。
やがて革命の波は10月に最高潮に達する。10月7日,モスクワ~カザン鉄道の労働者がストライキに入ったのに発した全国鉄道ゼネストは,一般労働者,市民のゼネストを導いた。その中で,ウィッテはニコライ2世に譲歩を迫り,ついに10月17日(新暦10月30日),市民的自由と立法議会の開設を約束する〈十月詔書〉が出された。2日後,事実上の首相職である大臣会議議長職を新設する勅令が出され,ウィッテが初代の首相に任じられた。ここに〈自由の日々〉が到来した。だが,〈自由〉を統一スローガンに全国民的な連合をもって進んできた革命は,ここから分解を始めた。
まず労働者は8時間労働の要求を実力で実施する闘争の道に立ち,〈十月詔書〉に満足した資本家と衝突した。農民は,共同体の取り決めで地主に対し,地代引下げ,労働報酬引上げの交渉を行ってきたものだが,10月以降,中央農業地帯とボルガ沿岸地方で激しい地主領地打ちこわしの挙に出た。地主たちは一時は領地放棄を考えたが,やがて実力自衛策をとり,全体として右翼化する。
12月2日,ペテルブルグ・ソビエト,農民同盟,社会民主党両派(ボリシェビキとメンシェビキ),エス・エル党,ポーランド社会党の6者が,国庫への納税拒否を呼びかける〈財政宣言〉を発すると,態勢を立て直し弾圧の機をうかがっていた政府は,翌日,ペテルブルグ・ソビエトの代議員全員を逮捕した。12月7日モスクワで始まった大抗議ストに対し,当局は武装自衛隊に攻撃をしかけ,バリケードをつくって抵抗する労働者をペテルブルグとポーランドからの増援軍によって粉砕した。このとき約700人の労働者・市民が殺された。これは通常〈モスクワ蜂起〉といわれるが,武装した労働者が革命の既得権,解放された空間を防衛しようとしたものである。こうして,危機を脱した皇帝と保守派は約束した大改革を切り下げ,12月11日にまず〈ブルイギン国会〉選挙法を若干手直しした程度の国会選挙法を定め,さらに06年2月20日には皇帝権力に法律裁可の権限を残した国会,国家評議会の二院立法制を発表した。ついに国会開会直前の同年4月23日(新暦5月6日),引き続き皇帝に〈最高専制権力〉が属するとする新国家基本法が公布された。革命の結果は無制限専制から国会,国家評議会の二院によって制限される専制への移行という,きわめて不徹底なものに終わったのである。
4月27日国会は開会したが,自由主義者の党カデット党と無党派急進農民のトルドビキ派が議員の過半数を握り,土地改革を要求して政府と対立した。政府は7月8日国会を解散した。181人の議員たちは,ビボルグに集まって反政府闘争を呼びかけるアピールを発したが,バルチック艦隊の水兵が反乱をおこしただけであった。国会解散とともに首相を兼務するに至った内相ストルイピンが以後精力的に活動し,共同体の解体をねらった改革を推進して,1907年6月3日第2国会解散と同時に,地主勢力を優遇する新国会選挙法を公布し,国会を政府に協力的なものに強引につくりかえた(〈6月3日のクーデタ〉)。政治は以後完全に常態化する。第1次革命を最も長くみる人々も,ここに革命の終りをみる。
ストルイピンの執権のもとで,経済はふたたび好況を迎え,銀行の力が強くなり,ブルジョア文化が発展したが,第1次革命を生みだした矛盾は,成長の中でかえってより深刻化していった。政治的には皮肉なことに,国会と国家評議会は左と右から専制権力を利用するストルイピンの改革路線を妨害し,彼は目的を達しえず,政治的には無力化した中で,11年9月暗殺されてしまった。彼の死後は皇帝を抑えこめる強力な政治家は現れず,皇帝の恣意が徐々に増大する傾向にあった。ストルイピン改革の柱であった土地改革も農村構造を改革しえず,かえって共同体に立てこもる農民とそこから出た富農との新たな対立を生んだ。労働立法は遅れ,労働者は再び戦闘性を表し,12年プラハ協議会で独自党を結成したレーニン派のボリシェビキをみずからの指導者に選んだ。
注目すべきは,第1次革命の頂点で専制を助ける側にまわった資本家の中から,地主貴族を押しのけて国家の主人公になろうという政治志向が現れたことである。進歩党をつくったモスクワの綿工業資本家コノバーロフAleksandr I.Konovalov(1875-1948)らの右翼自由主義者である。こうして労働者の急進化とブルジョアジーの急進化によって,1914年初夏のロシアには,ふたたび革命的危機が接近していた。ストルイピンは再編のための条件として〈内外における20~30年間の平静〉をあげたのだが,帝国主義諸国家間の対立,バルカンの小国間の対立は,ロシアをまきこみ,ついに14年7月第1次大戦が始まることになった。
交戦列強が経済力,国力のすべてを動員して戦争を遂行するこの総力戦の中で,ロシア国家は解体を始める。大戦はロシア革命の条件を一変させたのである。具体的には,開戦直後にみられた挙国一致的状況は急速に去っていき,14年末には輸送と補給の困難が,すでにまったく危険な域に達していた。15年4月ガリツィアにおけるロシア軍の第一線はドイツ軍の攻撃を支えきれずに後退し,ついでポーランド戦線が総くずれとなって,大退却が始まった。この状況の中で,全工業の動員を主張して軍需生産への参入をめざすモスクワ資本の動きは,戦時工業委員会をつくり出し,国の信任をうる人々よりなる内閣を求める国会多数派〈進歩ブロック〉が形成された。皇帝は皇后とラスプーチンの助言で,敗北の責任者,ロシア軍最高司令官ニコライ大公を解任し,みずからがその後任となった。大臣たちはこれに強く反発し,皇帝と激突した。以後,皇帝は皇后,ラスプーチンに支配され,混乱した政治指導を行っていく。こうして国家解体が本格化した。この事態の中で,皇族も軍部も,国会議員たちも資本家たちも,打開の手が打てずに危機はますます深化していくばかりであった。結局,なされた唯一の行動は,16年12月16日のラスプーチン暗殺であった。しかし,万事手おくれであった。皇后はラスプーチンの愛人であるという流言は,皇帝の国父としての権威を決定的に傷つけていた。
革命はふたたび首都の労働者の行動によって始まった。大戦中にペトログラードと改称された帝国の北西隅にある首都では,食糧難,燃料難が最も激しく現れた。しかも全国一の工業都市で軍隊の集結地として,38万の労働者と47万の兵士がいた。資本家の中の急進派と結んだ戦時工業委員会労働者グループは,1917年2月14日の国会再開日に,かつて〈血の日曜日〉に冬宮へ請願行進したように国会へ請願行進をしようと呼びかけた。ボリシェビキなどの反対で,当日の行動は失敗に終わったが,首都中心部でのデモのよびかけは労働者の間でも複雑な反応を呼びおこしていた。
2月23日(新暦3月8日),国際婦人デーにさいして,無名の活動家グループの働きかけで,ビボルグ区の婦人労働者はストライキに入り,〈パンをよこせ〉と叫んでデモ行進を開始した。これに男子労働者も応じ,デモ隊はネバ川にかかる橋を突破して,市の中心部,ネフスキー大通りへ向かおうとした。ストライキは2日目から他の区に広がり,25日には全市ゼネストになった。これを鎮圧するために出動したコサック兵が警察署長を斬殺するという事件がおこり,兵士の命令不服従を予感させたが,26日には兵士たちはデモ隊に向けて発砲し,多くの死者を出した。しかし,この日の鎮圧行動から嘔吐を催す思いで帰った近衛ボルイニ連隊の兵は下士官に率いられて,翌27日(3月12日)朝反乱をおこし,これは近くの2連隊にも波及した。反乱した兵士は労働者と一緒になって,二つの監獄から政治犯を解放させた。釈放された政治犯の一部は,国会の建物に集まり,ペトログラード労働者・兵士代表ソビエト創設のイニシアティブをとった。政府側の軍管区司令官は,この反乱鎮圧のため部隊を出動させたが,この部隊は途中で消えてしまった。
国会はこの日の朝,皇帝の休会命令を受けとって解散することに決めたのだが,事態の急変を知り,本会議場の外で非公式会議を開き,国会臨時委員会を選出した。コノバーロフと提携するケレンスキーは,国会を革命にコミットさせようと努力した。夜になって,国会の建物の中に労働者代表と社会主義政党の代表が集まって,ソビエトの結成会議を開くと,国会臨時委員会は深夜の2時,権力掌握を決断した。翌日各省庁の接収が行われたが,国会の代表者が交通省に入り,鉄道の運行をコントロールしはじめたのは決定的に重要であった。というのはモギリョフの大本営にいた皇帝が,イワーノフ将軍に命じて首都革命の鎮圧軍を出動させていたからである。一方,大本営の軍首脳は国会議長ロジャンコと接触し,皇帝に次々に譲歩を進言していた。
首都では3月1日に兵士が最終的にソビエトに忠誠を誓うことを決議し,これが〈命令第1号〉という文書にまとめられた。労働者と兵士がソビエトに忠誠を示し,官吏と将校が国会臨時委員会に忠誠を誓うというあり方が,いわゆる〈二重権力〉状態である。この基礎の上に,ソビエトの承認のもと,3月2日国会臨時委員会は,首相リボフGeorgii E.L'vov(1861-1925),外相ミリュコーフ,商工相コノバーロフなどの臨時政府を発足させた。この白軍首脳はロジャンコの要請を受け入れ,皇帝に皇太子への譲位を求めた。ニコライ2世はいったんはこれを受け入れたものの,皇太子の病気を考えて,自分の弟ミハイルに譲位するとした。ミハイルはこれを拒否したので,ここに帝政は崩壊することになった。帝政を打倒したのは,一つは〈労働者・兵士の革命〉であり,いま一つは〈ブルジョアジーの革命〉であった。
首都での革命の知らせは全国に衝撃を与え,この二つの革命は全国に拡大したが,それと同時に,この革命の受益者として,農民と被圧迫民族とが,つくりだされた自由の空間の中で革命に立ち上がることになった。農民は共同体単位で行動をおこし,郷(ボーロスチ。郡と村の間の行政単位)のレベルに委員会をつくった。被圧迫民族は,たとえばウクライナでは,3月4日に民族統一戦線としてのウクライナ中央ラーダ(ラーダ)を成立させている。このあとから加わった〈農民革命〉と〈民族革命〉の展開が〈労兵革命〉と〈ブルジョアジーの革命〉の関係に影響してくるのである。
臨時政府は政治犯の大赦,言論・出版・集会・結社の自由,身分の廃止,宗教的・民族的差別の撤廃を実現し,ロシアを〈自由〉な共和国とした。問題は〈平和〉にあった。ブルジョアジーにとって革命は,よりよく戦争するためのものであった。一方,ペトログラード・ソビエトは3月18日,無併合・無償金の講和を実現することをめざすアピールを発した。これは外相ミリュコーフの方針と衝突した。4月20日,首都の兵士のイニシアティブでミリュコーフ打倒,侵略反対のデモがおこり,ミリュコーフは閣外へ去った。ボリシェビキは帰国したレーニンの〈四月テーゼ〉を受け入れ,ソビエト権力の樹立をめざす活動を開始する。他方,ソビエト主流派のメンシェビキとエス・エル党は,この動揺ののち臨時政府に入閣し,連立政府を発足させた。
新政府の外相テレシチェンコ(チェレシチェンコとも呼ぶ)Mikhail I.Tereshchenko(1886-1956)は戦争目的を修正する連合国会議を提唱し,郵政相ツェレテーリはソビエトの主張する線で平和のための国際社会主義者会議を開くことを推進した。陸海軍相ケレンスキーはロシアの国際的地位を上げるために,前線での攻勢を準備しようとした。平和のために戦争するというこの政策は,深い矛盾をはらんでいた。民衆はボリシェビキを突き上げ,6月8日,〈全権力をソビエトへ〉というスローガンのもと,デモを行うことを決定させた。ソビエト主流派はこれを強く非難し,デモを中止させたが,6月18日〈無併合・無償金・民族自決の全面講和〉を要求するデモを主催せざるをえなかった。この6月デモは30万から40万人が参加した大デモとなった。
革命の課題は〈自由〉と〈平和〉にとどまらなかった。二月革命によって8時間労働日を獲得した労働者は,工場委員会をつくって権利要求をさらに高めていたが,資本家側は経営権を守るため,この要求を抑え込もうとした。1917年5月末~6月初めペトログラードの工場委員会協議会は,ボリシェビキの指導下に〈労働者統制(労働者による生産の統制)〉の必要を決議した。
農民は〈土地〉を求めていた。5月末に開かれた第1回全ロシア農民大会がエス・エル党の指導下に憲法制定会議で〈土地社会化〉を実現することを決議すると,郷委員会に結集する農民はただちにこれを実現してよいと判断されたものと受けとった。エス・エル党の指導者V.M.チェルノフが農相のポストにあったが,連立の条件にしばられて,農民のこの意欲にこたえる施策を打ち出せなかった。彼がわずかに決定した土地売買・質入れの禁止も,地主である首相以下の強い反発を招いた。被圧迫民族も〈自治〉を求めた。ウクライナ中央ラーダが5月半ばに自治を要求すると,臨時政府はこれを拒否した。6月10日,ラーダはウクライナの自治を宣言した。ソビエトはウクライナ地方の自治を認めるという考えを出し,政府とラーダは協定を結んだが,カデット党から出ている4大臣は抗議して辞任した。
この政府危機に対して,首都の兵士はまたもやイニシアティブをとり,連立の中止,ソビエト権力の実現を求めて,7月3日の武装デモを決行した。ボリシェビキは時期尚早としてデモを中止させようとしたが,果たせず,デモを承認するにいたった。翌日もつづいたデモに,ソビエト主流はボリシェビキの陰謀をみて,弾圧に乗り出した。レーニンは地下に潜行した。しかしボリシェビキは非合法化されず,ソビエト内部の地位を保ちつづけた。デモは抑えたものの,首相リボフは職を投げ出し,前線ではケレンスキーの始めた攻勢がドイツの反攻を招き,危険な状態となった。ようやく4人のカデット党員が個人の資格で入閣することをえて,ケレンスキーを首班とする第2次連立政府が7月24日に成立した。
この政府は〈平和〉を実現する展望をもちえず,前線と国内秩序の維持だけを目的とした。ということになれば,軍人が主役になるのが当然である。新任の最高軍司令官コルニーロフは前線で死刑を復活したのにつづいて,後方でも軍内抗命者(命令に服従しない者)に対してこれを復活することを目ざし,軍事独裁の樹立も辞さない腹であった。8月25日コルニーロフはケレンスキーの譲歩を問題にせず,将軍クルイモフAleksandr M.Krymov(1871-1917)に首都進撃を命じた。政府内のカデット4大臣はコルニーロフ支持を表明し,辞任した。ケレンスキーに残るのは,ソビエトの支持だけであった。
ソビエトは一丸となってコルニーロフ軍を迎え撃つ態勢をとったが,その中核となって働いたのはボリシェビキであった。コルニーロフ軍の進撃ははばまれ,8月31日クルイモフは自殺し,翌日コルニーロフは逮捕された。コルニーロフ反乱の経験は,ソビエト権力を求める声を一般化した。ボリシェビキは連立策をとってきたソビエト右派を除いた左派だけの政権を望んだ。8月31日,首都のソビエトが〈革命的プロレタリアートと農民の代表からなる政権〉を要求する決議を採択したのは,ボリシェビキの力を示したものである。ケレンスキーは新しい権力基盤を求めて,9月に民主主義派会議を開き,いわゆる予備議会を発足させ,コノバーロフを副首相に迎えて,第3次連立政府を発足させた。しかし,地方では農民革命が高揚し,地主邸の焼打ちが広がっており,人々の要求にこたええない政府の命数は尽きていた。
この9月,潜行中のレーニンは臨時政府打倒の武装蜂起の決行を同志に提案したが,党中央委員会はただちには賛成しなかった。とくにジノビエフとカーメネフという古参の大幹部は強く反対し,党外でその態度を表明した。権力掌握への準備は首都ソビエトの議長となったトロツキーの考えで進められ,10月12日反革命からのソビエトの防衛という目的で軍事革命委員会が設置された。この委員会が委員を派遣し,首都の軍事組織を指揮下に収めようとして,軍管区司令部と衝突した。23日夜,臨時政府はこの挑戦を粉砕することを決意し,翌朝よりボリシェビキ側を攻撃した。しかし,24日中に首都内の重要拠点は,ことごとく革命派の兵士と労働者赤衛隊の手に制圧されてしまい,臨時政府は冬宮に孤立した。10月25日(新暦11月7日)午前10時,軍事委員会は臨時政府が打倒されたことを宣言した。冬宮は翌26日,わずかな戦闘の末陥落し,ケレンスキーを除く臨時政府の閣僚全員は逮捕された。
この行動は25日夜11時に開かれた第2回全ロシア労兵ソビエト大会に既成事実として突きつけられた。ソビエト右派は抗議して退場し,残ったボリシェビキと左派エス・エル党,その他若干の党派は,ソビエト権力の行動綱領をもりこんだアピール,〈平和についての布告〉〈土地についての布告〉をレーニンの提案によって可決した。民主的講和と即時休戦,地主の土地の没収,軍隊の民主化,生産に対する労働者統制,憲法制定会議の召集,パンの確保,民族自決権の保障が新しい権力の目標とされたが,注目すべきことは,〈社会主義〉という言葉は含まれていなかったことである。目標については一致があったが,左派エス・エル党に入閣を断られたボリシェビキが,レーニン首班,トロツキー外務人民委員の単独政府を提案すると,他党はすべて反対した。このため単純多数で臨時労農政府,人民委員会議が選出された。
首都を脱出したケレンスキーは,将軍クラスノフPyotr N.Krasnov(1869-1947)の部隊とともに攻め上ってきたが,10月30日,郊外のプルコボで打ち破られた。この日モスクワでも5日間つづいた大戦闘が終わり,臨時政府派が敗北した。11月1~4日には,北部方面軍と西部方面軍司令部があるプスコフとミンスクでソビエト権力が樹立された。こうして十月革命は勝利した。これはボリシェビキと左派エス・エル党を支持する首都およびモスクワの労働者と兵士,北部方面軍・西部方面軍の兵士の組織された力によるものであった。この労兵革命は,農民革命と民族革命に助けられ,ブルジョアジーの革命を打ちたおしたのである。キエフではウクライナ中央ラーダとソビエトは協力して臨時政府側の軍管区司令部を打倒した。11月7日,ラーダもウクライナ人民共和国を宣言した。だが,この革命の過程がはらむ矛盾は,ただちに顕在化した。労兵革命の一方の柱であった革命的兵士集団は,休戦が実現し,階級制の廃止と将校選挙制を中心に軍隊の民主化が実現するとともに,急速に解体していった。
民族革命との対立も早くきた。ウクライナ中央ラーダとロシア人労働者を中心とする地元ソビエトとの対立から,12月にはモスクワ政府は最後通牒をつきつけ,遠征軍を送り込んだ。1918年1月26日ソビエト軍はキエフを占領し,ウクライナ全域は,ひとまずソビエト権力の支配下に入った。農民との関係では,12月に労兵ソビエトと農民ソビエトとの合同がなり,左派エス・エル党が入閣するという進展があったが,農村では農民たちが自力で地主を追い出し,土地を共同体の原理で分配していった。11月に行われた憲法制定会議選挙では,ボリシェビキは善戦したものの,得票率24%の第2党にとどまった。レーニン政府は,この結果は革命の昨日を意味するとして従うことを拒否し,1918年1月5日に開催された憲法制定会議にソビエトの採択した〈勤労被搾取人民の権利の宣言〉の採択を迫り,これが拒まれると,1日で会議を解散させた。1月10日第3回ソビエト大会でレーニンは,ロシアが〈社会主義ソビエト共和国〉であると宣言した。十月革命は社会主義革命としての性格を,このとき明示したのである。
〈平和〉の実現は,新政権の最大の課題であった。民主的講和と即時休戦の訴えは交戦列強に拒否され,わずかに東部戦線をなくしたいドイツが応じて,12月9日よりブレスト・リトフスクで講和交渉が始まった。ドイツ側は〈無併合・無償金〉の講和原則を認めなかった。交渉を引きのばし,調印はしないという全権代表トロツキーの努力に対し,ドイツは攻勢に出て,ペトログラード方向へ進撃した。結局,ロシア革命の確実な成功のためには〈息つぎ〉が必要であるとして,即時講和を主張したレーニンの方針が採用され,3月3日,講和条約が調印された。党内でも革命戦争論(ドイツ軍に攻め込ませ,そのことによってドイツ国内に革命を誘発させるという主張)に立つブハーリンらはいっさいの役職から去った。しかし,より重要なのは左派エス・エル党の閣僚が全員辞任し,野に下ったことである。
経済管理の面でも,労働者統制により徐々に工場管理へ進もうと考えられていたが,資本家のサボタージュや逃亡があって,工場を次々に接収せざるをえず,ついに6月28日,すべての大工業の国有化を宣言するに至った。都市と農村の商品流通が止まる中で,土地を自分たちで獲得した農民は,都市に穀物を提供する義務を感じなかった。ドイツ軍の侵入で穀倉ウクライナを占領された革命政権は,残された中央部農村において,富農が隠している穀物を取り上げるとの方針のもとに,武装した労働者を送り込んだ。6月11日には貧農委員会の設置も布告された。下野した左派エス・エル党はこれに強く反発し,7月4日ドイツ大使を殺し,武力反乱をおこした。レーニン政府はこれを鎮圧し,ソビエトの第2党であるこの党を非合法化した。十月革命派のこの武力衝突が,つづく内戦の序幕となった。
このときすでに,極東からボルガ川のほとりまでチェコ軍団の反乱により,各地のソビエト政権は次々に打倒されていた。この軍団は,オーストリア軍に徴兵されて捕虜となったチェコ人兵士を中心に組織されたものであった。民族主義的なこの軍団は,ウラジオストクから船に乗ってヨーロッパの戦場へ赴くことになっていたが,その移動中に武装解除を命じられたことから,1918年5月25日反乱をおこしたものであった。時を合わせたかのように,英仏軍1万5000が北のアルハンゲリスクに上陸し,反ソ政権を擁立した。そして8月2日と3日には日本とアメリカがチェコ軍団救出の名目でシベリア出兵を宣言した。日本は10月末までに7万5000の兵力をシベリアと北満(現在の中国東北の北部)に展開させた。連合国は東部戦線再建のため,武力干渉の機会をねらっていたのである。チェコ軍団の反乱によって,サマラ(現,クイビシェフ)に憲法制定会議議員たちが反ソ政権を樹立した。
ソビエト政権は,この危機にさいして赤軍を徴兵制の軍隊に切りかえ,8月30日レーニンが暗殺者に撃たれて重傷を負うと,チェーカーを中心に赤色テロで対抗した。反ボリシェビキ派の中で,チェコ軍団の後押しをうけるエス・エル派と旧軍人,帝政派,リベラルとの対立は根深かったが,9月のウファ国家会議で妥協が成り,5人の執政府のもとに全ロシア統一政府が生まれた。しかし,これは短命に終わった。11月17日陸海軍相コルチャークはクーデタをおこし,最高執政官に就任した。こうして反革命の主役は帝政派の軍人となった。コルチャークは沿海州で日本の支持を受けて勢力を張っていたセミョーノフをも一応指揮下におさめ,全シベリアの支配者としての地位を固めたうえで,19年3月,ウラルから西に向けて総攻撃を開始した。4月にはカザン,サマラに80kmの地点まで進出する。このとき北西部では,エストニアからロジャンコの軍がペトログラードを目ざして侵攻し,挟撃の形をとったのだが,赤軍はがんばりぬき,ついに6月9日チャパーエフVasilii I.Chapaev(1887-1919)の軍はウファを奪還し,コルチャーク軍を押しもどした。すでにシベリアではコルチャーク軍と日本軍に対して,農民パルチザンが立ち上がっていた。中央部の農民はソビエト政権の穀物徴発に苦しみながらも,地主制を復活させかねない帝政派の勝利をおそれ,赤軍を助けた。これが赤軍の勝因の最大のものの一つである。
コルチャーク軍の進撃がくい止められると,こんどは南からデニキン軍が攻め上ってきた。6月24日ハリコフを陥した同軍は,7月3日モスクワへの進撃を開始した。赤軍側の作戦の混乱もあって,デニキン軍の前進はつづき,10月13日オリョールが陥落した。このときもペトログラード方面にはユデニチNikolai N.Yudenich(1862-1933)軍が迫ってきた。軍事人民委員トロツキーの作戦案が,この危機の中で効果を発揮した。これとともに,デニキン軍の背後からアナーキストのマフノに率いられたウクライナの農民軍が攻撃を加えたことが赤軍を助けた。10月20日,オリョールが奪還され,デニキン軍は後退した。12月16日,キエフが解放され,デニキン軍は打ち破られた。
この熾烈な内戦を戦いぬくために,ソビエト政権は〈戦時共産主義〉と呼ばれる経済政策をとった。その第1の柱は〈穀物独裁〉であり,第2の柱は全工業の国有化であった。20年11月,5~10人の労働者を雇う小工場までも国有化された。商品経済は極度の国家統制の中に封じ込められたのであった。政治面でも,共産党の一党国家があるべき姿とされ,組織局と書記局により党機構が整備され,党と国家が一体化した。〈軍事的プロレタリア独裁〉と呼ばれる強力な国家がつくり出された。
内戦・干渉戦は国際帝国主義との闘争で,ロシア革命は世界革命の第一歩と考えられたので,革命的共産主義者を糾合して新しいインターナショナルをつくることが構想された。1919年3月2~6日,共産主義インターナショナル(コミンテルン)第1回大会が包囲下のモスクワで開かれた。ここから世界へ散った代表たちは,各国社会主義運動の左翼を結集して,20年7月23日に第2回大会を開いた。41ヵ国・67組織の代表が集まったこの大会で,コミンテルンを世界党とし,各国共産党をその支部とする規約が決定され,かつロシア革命を植民地従属国に広める〈民族植民地問題テーゼ〉が採択された。
ロシア革命の拡大の最初の実験は,ポーランド戦争によって試みられた。1920年春,ウクライナに侵入し,5月7日キエフを占領した独立ポーランドのJ.ピウスーツキの軍を追って,赤軍はポーランド領内へ進撃を開始した。7月30日には亡命者によって,ポーランド臨時革命委員会が結成された。赤軍がピウスーツキ軍を粉砕してしまえば,この委員会がポーランドの革命政府となったであろう。だが,8月15日トハチェフスキーが率いる赤軍はワルシャワ近郊で進撃を止められ,退却する。革命の軍事的輸出は失敗したのである。
このころ白衛軍の最後の代表者として登場したのが,将軍ウランゲリPyotr N.Vrangel’(1878-1928)であり,彼は1920年6月,4万の兵力を率いてクリミア半島に入った。9月になるとウランゲリ軍はさらに力をつけて,アゾフ海東岸のクバン地方に進出する。この軍隊と戦うにあたって赤軍は,デニキンに対する勝利後,〈脱走兵,裏切者〉として狩り立ててきたマフノ軍とあらためて協定を結んで共闘することになった。11月に両軍の共同反攻は効を奏し,ウランゲリ軍は壊滅した。こうして白衛軍との闘争は終わったが,赤軍とマフノ軍との協力もそれまでであった。赤軍のケルチ解放より10日後には,マフノ軍は〈ソビエト共和国と革命の敵〉と宣言されてしまった。
ソビエト政権は,同じとき,タンボフ県のアントーノフの反乱に苦しめられていた。反乱の指導者アントーノフはエス・エル党員であった。農民たちは,20年の夏から〈人馬の解放〉をスローガンに反政府ゲリラ活動を始め,郡部から共産主義者を一掃した。帝政派の将軍たちが打倒されると,ふたたび当初の農民,エス・エル派と共産党政権との対立が正面に出たのである。多年にわたり農民革命の最大の根拠地であったこのタンボフ県での反乱につづいて,21年3月,これまた常に首都革命の柱の一つであったクロンシタット要塞水兵の反乱(クロンシタットの反乱)が生じた。マフノ軍同様,この二つの反乱は厳しく鎮圧された。レーニンはそのころ,農民との和解を考えていた。すなわち彼は21年3月の第10回党大会で,穀物の割当徴発制を廃止して現物税制を導入し,余剰穀物の販売を許すという新政策を採用した。これはこの年のうちに都市と農村の間の自由な商品経済関係を認めるネップ(新経済政策)体制に発展していった。
このようにして,21年3月のクロンシタット反乱の清算がなされた時点をもって,内戦の終了,大きくはロシア革命の時代の終りをみることができる。これは,2月21日,ただひとつ残ったメンシェビキのグルジア共和国が赤軍の侵攻によって打倒され,ザカフカスが完全にソビエト政府によって制せられたことと見合っている。しかし,極東では日本軍は22年10月までウラジオストクにとどまり,さらに尼港(にこう)事件を口実とした北サハリンの占領は25年までつづけられたのである。それはともかく,1921年には革命と内戦,干渉戦に勝利したソビエト権力は,政治的には一元的な強力な国家となっていた。しかし,国土は荒廃しきっていた。その秋,ボルガの沿岸から恐るべき飢饉が発生し,控えめにみても100万の人が死んだ。だが,全身に受けた傷による多量の失血で顔面蒼白ともいえる,この若き社会主義国の誕生は,全世界に変革を呼び,世界史に衝撃を与えていくのである。
ユーラシア大陸に広がる大帝国におこった社会主義者の革命は,フランス革命に劣らぬ巨大な影響を世界史に与えた。ロシア革命の解放的・祝祭的イメージは,アメリカのジャーナリスト,ジョン・リードにより《世界をゆるがした十日間》(1918)の中で生き生きと伝えられ,世界中に広められた。運動としてのロシア革命を世界中に拡大する政治的メカニズムとなったのは,1919年に発足した共産主義インターナショナル(コミンテルン)であった。人類史上未曾有の世界戦争に苦しみ,新世界を待望していた多くの人々がボリシェビズム,共産主義に福音を見いだした。西欧各国の社会主義政党内の左派は右派と激しく対立し,共産党の結成を急いだ。ロシア革命は1918年にはドイツ革命に続いたが,ここではロシアの道は拒まれ,19年のハンガリー・ソビエト共和国で初めて拡大をみたのだが,それも短命に終わった。
しかし,欧米の各国政府はロシア革命を危険視した。ボリシェビキがドイツと停戦協定を結んだため,初めはドイツを助ける勢力だとみて(レーニンをドイツの手先とした),干渉戦争(シベリア出兵)を開始したのだが,しだいに共産主義の中に恐るべき敵を見いだしていったのである。これと対抗するためには,社会改革を進めて,労働者の体制秩序への統合をさらに加速化させる必要がある。ロシア革命は共産主義運動と指導層の改革意欲との二重の意味で,大戦後の西欧に革新的効果を及ぼしたのである。
さらに帝国主義的世界秩序において被圧迫民族の解放という理念をかかげたロシア革命は,大戦の中で動きはじめた植民地の民衆に一つのはっきりした方向性を与え,民族解放運動の高揚を促した。この面でコミンテルン第2回大会で採択された〈民族植民地問題テーゼ〉が大きな役割を果たした。具体的には,中国に及ぼした影響が最も大きく,ロシア革命は孫文に始まり毛沢東に終わる中国革命を用意することになるのである。
この面と密接に関係しているが,ロシアの革命政権が従来の国際秩序の否定者として,一種のアウトサイダー国家となったこと自体も,国際政治に新しい要素をもたらしたといえる。革命政権はロシア帝国の巨額の対外債務を引き継がないと宣言し,秘密条約を暴露してしまった。大戦後のヨーロッパに生まれたベルサイユ体制からソビエト・ロシアは排除されたが,このことはベルサイユ体制の圧迫下におかれた敗戦国,戦責国のドイツがロシアと接近する条件となった。1922年両国はラパロ条約を結び,やがて秘密裏に軍事面の協力関係に入るのである。
アジアや中東の国々もソビエト・ロシアとの間に新しい外交関係をつくることができた。中国に対する1919年7月のカラハン宣言は中国に対する権益の放棄を宣言して,世界の人々に強い印象を与えた。ソビエト・ロシアとの関係は,イギリスからの独立を宣言したアフガニスタンにとっても一つのよりどころとなった。もとよりソビエト・ロシアの政策が時として国益優先に傾いたが,ロシア革命の生んだ国家の存在は,西欧列強から自立した道を歩もうとする国々にとって,依拠しうる別の対抗力を意味したのである。
ロシア革命の影響は政治・外交の面に限られず,広く思想・文化の面にもあらわれた。西欧世界の危機を感じとっていた知性は,この革命から受けた精神的衝撃を糧として,現代思想と芸術の新しい模索を進めたのであった。
執筆者:和田 春樹
ロシアの二月革命の報が日本に伝わったのは,1917年の3月半ばであった。新聞を通じてのロシア革命の情報は,革命の拠点の一つペトログラードをその源として,ベルリン,ロンドンの外電,ニューヨーク,サンフランシスコの特電によっており,それだけに革命の経過は正確に伝わらなかったようである。〈露国に革命乱勃発す〉〈革命勃発原因〉〈露新内閣成立〉というような見出しの記事には,ロシアの下院が政権を掌握し,閣僚を投獄して仮政府を組織したこと,ペトログラードの陸軍が革命軍と合流し,労働者がストライキに突入したことは報じられていた。しかしこの革命の原因については,各地での数週間にのぼる食糧欠乏によると伝えていただけで,その真相は明らかでなかった。
にもかかわらず,二月革命はまず日本の政治家に衝撃を与えていた。なかでも立憲政友会の総裁原敬は,新聞がロシア革命を報じた翌3月18日の日記に,ロシア革命の発生と皇帝の退位にふれ,〈真に大政変〉であるとしたためるほど,いちはやく大きな関心を寄せていたのである。原敬は,革命ロシアの〈共和政体組織〉への推移を告げる記事に注意を払いながら,元老山県有朋や寺内正毅首相ら超然主義者もロシア革命で目をさまさなければならないこと,一般に国内もデモクラシーに傾く実情にあることを,三浦梧楼や山県に語っていた。国政をリードする元老,党人,軍部の間では,今後の日本のとるべき進路とのかねあいで,二月革命は大きな関心の的になっていたのである。
一方,大逆事件以来〈冬の時代〉を迎え,沈黙を強いられていた社会主義者たちにも,二月革命は強烈な印象を及ぼしていた。荒畑寒村は,二月革命に驚き,〈革命! 革命! これほど魅力的な語があるだろうか〉とのべ,帝政が一挙に覆った事実に圧倒されたことを回想しているし,山川均も生涯のうちで最も大きな影響を受け,荒畑と組織していた労働組合研究会でロシア革命の話をしたとき,涙がとまらなかったと,当時の印象を回想していた。社会主義者たちは,一般に二月革命の報に接して社会主義の理想郷が地上に実現したと欣喜雀躍したという。ところで,内務省は日本の社会主義者のロシア革命への反応にことのほか注意をはらっていたが,それによると堺利彦は,在米の片山潜宛てに,ウラジオストク,上海あたりに組織を設立する必要のあるむねの通信を送ったそうであるし,ケレンスキー政権の成立後,堺はロシアを訪れたい要望をもっていたという。
しかし,二月革命に感激し興奮した社会主義者といえども,ケレンスキー,レーニン,トロツキーなどの人名,メンシェビキ,ボリシェビキの呼称を知っている人間は少なく,革命の過程を理解するのも容易ではなかったらしい。しかもこの年の秋,レーニンの率いるボリシェビキが中心になって十月革命が行われたが,当初はレーニンに関する知識もほとんどなく,とまどっていた。在京の社会主義者たちも,二月革命が徹底的でなく十月革命は理想論としては歓迎するが,はたして継続するのかどうか,各国政府の干渉にどこまで耐えられるか心配する向きが強かった。また,労働者階級にも全体としては,さしたる影響を及ぼしていなかったようである。こうしたなかで,在京の社会主義者は秘密の会合をもち,ロシア革命の成功の祝いと臨時政府が戦争を即時中止することを要請する決議文を作成し,モスクワに送った。
一般に日本では,十月革命が恐怖の念をばらまきながら,永続きはしないという観測が大勢を占めていた。しかし,山県,寺内,原ら政局の要路にあった人々の間では,やがてロシアの十月革命が国民の多くによって支持されている事態を認識し,レーニン政府が日本で想像するような乱脈ではないこと,ボリシェビキはロシアの人心に投じて形づくられたものであること,圧制をきわめた帝政を廃し,貴族・富豪の財産を分割し,国民が4年間にわたって苦しみ続けてきた戦争を中止したことなどを認めざるをえなかった。しかしその反面,日本の政界,財界,新聞界は,十月革命が国内に波及しデモクラシーの風潮に接合することを恐れた。そのため,政府は国家に反抗する社会主義者ら〈特別要視察人〉のロシア革命への反応に注目し,全国の新聞はボリシェビキを〈過激派〉と称し,レーニンの当て字に〈冷忍〉と書いた新聞もあったほどである。そこには悪罵と嘲笑とがこめられていた。しかも日本は,1918年の夏,米騒動が全国的規模に広がろうとするころ,シベリア干渉戦争に乗りだしていったのである。にもかかわらず,ロシア革命と米騒動と,国内外の激動をぬって,デモクラシーの風潮はがぜん高まっていった。吉野作造と福田徳三を中心とする黎明会のデモクラシー啓蒙運動と,〈人類解放〉の促進,〈改造運動〉への従事をうたった新人会の発足は,その新たなスタートであった。
執筆者:金原 左門
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近代化の進まないロシア帝国は20世紀に入ると矛盾に引き裂かれ,日本との戦争のなかで1905年革命を迎えた。革命後,ロシアは二院制の議会と専制皇帝が協力する立憲専制国家に変わったが,このシステムは改革の推進のためにうまく機能せず,第一次世界大戦前夜にはブルジョワジーと労働者が同時に体制批判の動きを起こすに至った。世界戦争のなかで革命は変貌した。17年2月首都に起こった労働者兵士の革命はブルジョワ市民の革命と合流して,専制を打倒し,二月革命を実現した。首都に生まれた労働者兵士ソヴィエトの支持を得て,国会諸党派の委員会を基礎に臨時政府が成立した。実現した自由の空間のなかで,農民の革命,民族の革命が起こった。ケレンスキー首相の臨時政府は,ソヴィエトからも閣僚を迎えて,権力の基盤を固める努力をはらったが,戦争はやめられなかった。そのため労働者兵士は離反し,農民革命,民族革命にもうまく対応できなかった。ボリシェヴィキのレーニンは,世界戦争から救われるには,資本主義を打倒し,社会主義へ飛躍しなければならないと考え,ドイツの戦時統制経済のなかに救いを見出した。彼は革命権力がこの政策を実現すれば,ロシアも社会主義へ前進できるとした。トロツキーらが中心になって,労働者兵士ソヴィエトの支持を得て,臨時政府を倒し,ボリシェヴィキ政権を樹立した。これが十月革命である。新政権は,土地を農民のものと宣言し,平和を諸国民に訴えた。しかし,この呼びかけはドイツ側にしか反響を得られず,連合国は敵対的であった。軍隊の民主化が実現すると,革命的兵士集団は解体し,新政権は民族,農民とも対立した。18年7月内戦が起こり,連合国が軍事干渉してくるなかで,戦時共産主義の体制をとって戦いぬき,ついに21年内戦に勝利した。内にはボリシェヴィキ=共産党の一党独裁と工業国有化,外には世界革命組織コミンテルン――これが革命後の新体制である。ロシア革命は世界に衝撃を与えた。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報
1917年3月・11月(ロシア暦では2月・10月)にロシアで発生した2度の革命(広義では1905年の第1次革命を含む)。2月革命では「パンをよこせ」と要求する女性らのデモに端を発した民衆運動によりロマノフ王朝が打倒され,自由主義的な臨時政府が成立。10月革命でケレンスキーらの臨時政府がレーニンらの率いるボリシェビキ勢力などの武装蜂起により打倒された。その後革命は国内の反革命運動や外国からの干渉戦争により危機に陥るが,レーニンやトロツキーの指導のもとで多大の犠牲をだしながら維持され,22年にソビエト社会主義共和国連邦が成立した。史上初の社会主義革命が以後の世界史に与えた影響は大きい。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
…その特徴を国際関係と思想,文化の側面から概観してみよう。
【国際関係】
[ロシア革命と〈新外交〉]
交戦国のいずれもが短期戦と予想していた第1次大戦は意外な持久戦となったが,戦局の行詰りは1917年に起こった二つの事件,アメリカの参戦とロシア革命によって破られ,1年後に戦争の幕は下りることになった。いわばヨーロッパから燃え広がった戦争は非ヨーロッパ大国の介入によって消し止められたわけである。…
…ロシア革命の指導者,ソ連社会主義の創設者。本姓ウリヤーノフUl’yanov。…
※「ロシア革命」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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