杉村濬(読み)スギムラ フカシ

20世紀日本人名事典 「杉村濬」の解説

杉村 濬
スギムラ フカシ

明治期の外交官 駐ブラジル公使。



生年
弘化5年2月16日(1848年)

没年
明治39(1906)年5月21日

出生地
陸奥盛岡(岩手県盛岡市)

別名
幼名=順八

経歴
南部藩士の家に生まれ、のち江戸に出て、島田重礼に入門し塾頭となる。明治7年征台の役に参加、8年退官し、「横浜毎日新聞」の論説記者となった。13年外務省御用掛、のち外務省書記生として朝鮮・京城に赴任、15年壬午の変ではあやうく難をのがれた。19年京城公使館書記官。28年閔妃暗殺事件に関連して逮捕されたが、翌年免訴、ついで台湾総督府事務官に就任。33年外務省通商局長として海外移民計画立案、37年南米移民事業促進のためブラジル公使となった。著書に「在韓苦心録」がある。

出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報

朝日日本歴史人物事典 「杉村濬」の解説

杉村濬

没年:明治39.5.21(1906)
生年:嘉永1.2.16(1848.3.20)
明治時代の外交官。外交官杉村陽太郎の父。南部(盛岡)藩士の家に生まれ,江戸の島田重礼の門に入り塾頭となる。台湾出兵(1874)に参加後『横浜毎日新聞』の記者となるが,明治13(1880)年外務省御用掛に出仕。外務書記生として朝鮮に赴任し釜山浦書記官,京城公使館勤務を経て19年に公使館書記官となる。この間,壬午事変(1882)では危うく難を逃れた。日清開戦時(1894)には開化派を支援し,甲午改革の実現に深く関与した。閔妃暗殺事件(1895)に連座し非職となり,一時台湾総督府事務官となるが,32年外務省通商局長に復職する。海外移民計画を立案し,37年に南米移民事業促進のためにすすんでブラジル公使となり,移民事業に努力したが任地病死した。日本の対朝外交に積極的に現地で関与し,陸奥外交とは一線を画した。<著作>『明治廿七・廿八年在韓苦心録』

(森山茂徳)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「杉村濬」の解説

杉村濬 すぎむら-ふかし

1848-1906 明治時代の外交官。
弘化(こうか)5年2月16日生まれ。明治13年外務省にはいる。京城公使館書記官となり,28年閔妃(ミンビ)暗殺事件にかかわる。32年通商局長となり海外移民を計画,37年ブラジル公使。39年5月21日任地で病死。59歳。陸奥(むつ)盛岡出身。著作に「在韓苦心録」。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

今日のキーワード

カイロス

宇宙事業会社スペースワンが開発した小型ロケット。固体燃料の3段式で、宇宙航空研究開発機構(JAXA)が開発を進めるイプシロンSよりもさらに小さい。スペースワンは契約から打ち上げまでの期間で世界最短を...

カイロスの用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android