日本大百科全書(ニッポニカ) 「李珥」の意味・わかりやすい解説
李珥
りじ
(1536―1584)
朝鮮、李朝(りちょう)中期の代表的な朱子学者。政治家。京畿(けいき)道徳水の人(出生地は江原(こうげん)道江陵)。字(あざな)は叔献(しゅくけん)、号は栗谷(りっこく)。聰明(そうめい)な母、申師任堂(1504―1551)に教育を受け、13歳で進士初試に合格。16歳のとき母を失った悲しみは大きく、一時仏教に傾倒したが、20歳のとき儒学に復帰し、聖人を志す自警文をつくる。以後の活躍は目覚ましく、23歳のとき李退渓(たいけい)(李滉(こう)。58歳)を瞠目(どうもく)させ、同じ年科挙別試の答案「天道策」で一躍名をあげ、遠く中国にまで聞こえたという。彼は宣祖(せんそ)(在位1567~1608)の信任厚く、重職を歴任するが、直言をはばからない大司諫(たいしかん)として多数の上疏文(じょうそぶん)(上奏文)を残した。1592年壬辰倭乱(じんしんわらん)(豊臣秀吉(とよとみひでよし)の朝鮮侵略=文禄(ぶんろく)の役)の8年前に国防のため10万の兵養成を建議したことは有名。訓童書『撃蒙要訣(げきもうようけつ)』、帝王学として編まれた『聖学輯要(しゅうよう)』もこの間の作。彼は哲学者としても優れ、李退渓の理気互発(ごはつ)説を批判した気発理乗説や、仏教をくぐり抜けた理通気局説は、朝鮮朱子学(性理学)の独自な到達点を示し、李退渓とともに双璧(そうへき)と仰がれた。
[小川晴久 2016年10月19日]