李栗谷 (りりつこく)
(R)I Yul-gok
生没年:1536-84
〈東方の聖人〉と称される朝鮮,李朝の代表的文臣,儒者。本名は李珥(りじ)。児名は見竜。字は叔献。号は栗谷のほか石潭,愚斎。徳水の人。李元秀を父,画家の申思任堂(しんしにんどう)を母として江陵で誕生。16歳で母を失い,虚無感から三年喪ののち金剛山に入り仏教を研究したが,意に満たず儒学に復帰した。生員試,文科等に連続して状元(首席)で及第,〈九場状元〉と呼ばれ,以後要職を歴任,10万の軍隊養成,大同法,社倉,郷約実施への努力,党争の調停など先見性をもった政治家として活躍した。彼の学問は根本原理の洞察を重んじ,それを民生などの実際面に生かそうとするもので,理気論では理気二元論をとり,〈理通気局説〉をとなえて理の優位をみとめたが,李退渓とは異なり理の動静(運動性)は否定した。彼は23歳のとき李退渓を訪問し,終生敬意を表したが,のちに彼の学統を継ぐ畿湖学派が形成され,党争とも関連して李退渓を仰ぐ嶺南学派と鋭く対立するようになった(〈儒教〉[朝鮮]の項を参照)。門人に礼学の大家金長生や,鄭曄,趙憲らを輩出し,著書には《聖学輯要》《東湖問答》《撃蒙要訣》等を収めた《栗谷全書》がある。諡号(しごう)は文成。
執筆者:山内 弘一
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李栗谷【りりつこく】
朝鮮王朝の代表的な儒学者。本名は李珥(りじ)。李元秀を父,画家として有名な申思任堂を母に,江陵に生まれる。科挙試験に首席で合格し,要職を歴任,政治家としても活躍した。学者としては根本原理への洞察とそれを民生に生かそうとする両面を備えていた。朱子学の理気論では二元論の立場をとりつつ理の優位を認めたが,先達で,終始敬意を払った儒学者・李退渓の理の運動性を認める説は否定した。江戸時代の日本の儒学思想にも大きな影響を与えた。
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李栗谷
りりっこく
Yi Yul-gok
[生]中宗31(1536)
[没]宣祖17(1584)
朝鮮,李朝中期の学者,政治家。京畿道徳水の人。本名は珥 (じ) ,字は叔献,諡は文成,本貫は徳永。栗谷は号で,現在は一般にこの号で呼ばれる。初め禅を学んだが,あきたらず朱子学研究に専念。 23歳のとき李退渓 (りたいけい) に師事。明宗 19 (1564) 年生員試および文科に及第。戸曹佐郎,兵曹判書,右賛成など政府の要職を歴任。彼は朝鮮儒学史上,李退渓と双璧をなす人物で,李退渓の主理説に対し主気説を唱えた。学者であるばかりでなく,実践的な政治家として経済,政治,軍事など大胆な改革を主張し,その実施に努力した。主著『栗谷全書』『聖学輯要』『中庸吐釈』。
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世界大百科事典(旧版)内の李栗谷の言及
【郷約】より
…朝鮮の郷約は中国の郷約を導入したが,朝鮮の伝統的な相互扶助的民間組織である[契]を基盤として作られている点に特色がある。李栗谷,柳馨遠,安鼎福などの郷約が有名であり,特に李栗谷は朝鮮郷約の土台を築いた。本来は地方社会の自発的教化組織であるが,地方官が郷約を推進しており,統治的側面が強い。…
【申思任堂】より
…平山の進士申命和の娘で,監察李元秀の妻。息子の[李栗谷]は高名な儒学者。幼時から経典に通じ,書画をよくし,裁縫,刺繡を巧みにするなど多芸多才で知られた。…
【普雨】より
…金剛山で経典研究と参禅に専心したが,1548年,摂政文定王后(明宗の母)の信任を受け,奉恩寺の住持として,奉恩寺に禅宗,奉先寺に教宗をおき,僧科を設置し,出家許可証である度牒の制を行うなど禅教両宗を復活させ,李朝仏教の中興時代を現出させた。しかし,李栗谷ら儒生の強硬な反対にあい,王后の没後,僧職を削られて済州島へ流配され,ここで杖殺された。著書に《虚応堂集》等がある。…
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