日本大百科全書(ニッポニカ) 「李滉」の意味・わかりやすい解説
李滉
りこう
(1501―1570)
朝鮮、李朝(りちょう)中期の朝鮮朱子学の大成者。慶尚(けいしょう)道真宝の人(出生地は安東の礼安)。字(あざな)は景浩(けいこう)、号は退渓(たいけい)。出生まもなく父を亡くし、寡婦の子(末子)として懸命に生きた。12歳で叔父李(ぐう)に『論語集註(ちゅう)』を習う。23歳でソウルに出、成均館で勉強。そのとき出会った『心経附註(しんけいふちゅう)』(中国、真西山・篁墩(こうとん)編註)が彼の学問を決める。この書は、四書五経にみえる心に関する規定と、宋(そう)代の朱子学者たちの解釈(註)を集めた中国性理学の精華であるが、この書を納得いくまで繰り返し読み、思索したことが、後日理気互発(ごはつ)説という朱子(朱熹(しゅき))と同じ到達点に独力で達するもとになった。34歳で官吏登用試験の科挙試文科に合格し官吏になったが、もともと出世には関心がなく、40代の党禍や肉親の不幸を機に、50歳から郷里で読書と研究の生活に入った。かくして朱子の学問との全面的対面、研究、吟味が始まり、その成果は『啓蒙(けいもう)伝疑』『朱子書節要』(以上56歳)、四端七情論弁(門人奇大升(きたいしょう)(1527―1572)との間で書簡で交わされた論争。60歳以後)、『聖学十図』(68歳)などに次々と結実した。彼の名声を朝廷はほうっておかず、成均館大司成、工曹判書など多くの要職に出仕させられたが、郷里陶山書堂での学問研究と後進の養成に極力心血を注ぎ、朝鮮朱子学(性理学)の全盛期をつくりあげた。彼の朱子学理解は、その精妙深思な学風と陽明学との対決という党派的・時代的事情から、心学的な性格を帯びたが、日本の朱子学は彼の朱子学を介して樹立され、幕末の思想家横井小楠(よこいしょうなん)に大きな影響を与えた。
[小川晴久 2016年10月19日]