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李退渓 りたいけいRi T'oe-gye

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

李退渓
りたいけい
Ri T'oe-gye

[生]燕山君7(1501)
[没]宣祖3(1570)
朝鮮,李朝中期の儒学者。李滉。字は景浩。号は退渓,陶翁,退陶。慶尚北道礼安の人。中宗 22 (1527) 年進士となり,同 29年文科に及第,要職を歴任後,明宗 10 (55) 年退官し,朱子学の研究に没頭した。彼は朱子を承けて,万物は理と気から成るが,理は純善無悪,気は可善可悪とし,「四端は理が発して気がこれに従ったものであり,七情は気が発して理がこれに乗ったものである」と主張し,奇大升らと有名な「四七論争」を展開した。李滉の朱子学は日本の朱子学者山崎闇斎などにも多くの影響を及ぼした。また書にもすぐれ,李朝中期の書体の貴重な資料を残している。主著『天命図説』 (1巻) ,『朱子書節要』 (20巻) ,『退渓集』。

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百科事典マイペディアの解説

李退渓【りたいけい】

朝鮮王朝の代表的な儒学者,思想家。文科に及第していったん官位についたが,官界・政界の暗闘に絶望して隠退し,洛東江上流の兎渓(とけい)に庵を築いて学問に専心した。この時兎渓を退渓と改めて自分の号とした。その後度重なる官位任命を断り切れず,丹陽,豊基の郡主,成均館の大司成を務め,朝鮮最初の書院である紹修書院を設置させた。1559年,故郷安東に帰り,60年に陶山書院を建て,以後は学問と教育に専念した。深い内省に基づき,朱子の気論を展開させ,理自体の運動性を強調する学説を提起,この問題は,以後朝鮮儒学の中心的な課題の一つとなった。同時代の李栗谷とともに朝鮮王朝時代の儒学の最高峰とされ,著作は日本でも江戸時代を通じて読まれ,林羅山や山崎闇斎をはじめ日本の儒学思想に大きな影響をもたらした。
→関連項目柳成龍

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世界大百科事典 第2版の解説

りたいけい【李退渓 (R)I T‘oe‐gye】

1501‐70
〈東方の小朱子〉と称される朝鮮,李朝の代表的文臣儒者。本名は李滉(りこう)。初名は瑞鴻。字は景浩,初字は季浩。号は退渓のほか陶翁,清涼山人。真宝の人。李埴の子で,叔父李堣や郷校で李賢輔の指導を受け,文科に及第後成均館の司成になったが,1545年(乙巳(いつし))の士禍に連坐して官職を失った。中央官界の暗闘に絶望した彼は,隠退して洛東江上流兎渓(とけい)に養真庵を築き,兎渓を退渓と改めてみずからの号とし,学問に専心した。

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世界大百科事典内の李退渓の言及

【朱子学】より


[朝鮮・日本への広がり]
 朱子学はやがて中国から東アジア世界に波及し,周辺諸国に大きな影響を与えたが,本国以上にこれを信奉したのは朝鮮であった。13世紀末の高麗時代に元から伝えられた朱子学は,次の李朝時代に入ると,国家教学に採用され,16世紀には李退渓(李滉(りこう)),李栗谷(りりつこく)(李珥(りじ))の二大儒が現れて朝鮮人の儒教として根を下ろした。この国の朱子学受容の特徴は,ひとつには李朝500年間にわたり朱子学一尊を貫徹したことで,仏教はいうにおよばず,陽明学も異端思想として厳しく拒絶された。…

※「李退渓」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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