村上格一(読み)ムラカミ カクイチ

20世紀日本人名事典 「村上格一」の解説

村上 格一
ムラカミ カクイチ

明治〜昭和期の海軍大将 海相



生年
文久2年11月1日(1862年)

没年
昭和2(1927)年11月15日

出生地
肥前国佐賀(佐賀県)

学歴〔年〕
海兵(第11期)〔明治17年〕卒

経歴
明治19年少尉、日清戦争に吉野水雷長で従軍。30年フランスに留学。常備艦隊参謀を経て、36年千代田艦長、37年日露戦争の仁川海戦でロシア艦を撃沈。38年吾妻艦長で日本海海戦に奮戦。海軍教育本部第1部長、海軍省副官を経て、41年少将。同年再び教育本部第1部長兼第2部長、42年兼艦政本部第1部長となり、大正元年中将に昇進。以後呉海軍工廠長、艦政本部長、第3艦隊司令長官、教育本部長を歴任し、7年大将。8年呉鎮守府長官、11年軍事参議官を経て、13年清浦奎吾内閣の海相となった。同年病気で辞職、12月予備役に編入

出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報

新訂 政治家人名事典 明治~昭和 「村上格一」の解説

村上 格一
ムラカミ カクイチ


肩書
海相

生年月日
文久2年11月(1862年)

出生地
肥前国佐賀(佐賀県)

学歴
海兵〔明治17年〕卒

経歴
明治19年少尉、日清戦争に「吉野」水雷長で従軍。30年フランスに留学。常備艦隊参謀を経て、36年「千代田」艦長、37年日露戦争の仁川海戦で露艦を撃沈。38年「吾妻」艦長で日本海海戦に奮戦。海軍教育本部第1部長、海軍省副官を経て、41年少将。再び海軍教育本部長、ついで艦政本部第1部長となり、大正元年中将に昇進。以後呉海軍工廠長、艦政本部長、技術本部長、第3艦隊司令長官を歴任し、7年大将。8年呉鎮守府司令長官、11年軍事参議官を経て、13年清浦奎吾内閣の海相となった。同年病気で辞職、12月予備役に編入。

没年月日
昭和2年11月15日

出典 日外アソシエーツ「新訂 政治家人名事典 明治~昭和」(2003年刊)新訂 政治家人名事典 明治~昭和について 情報

朝日日本歴史人物事典 「村上格一」の解説

村上格一

没年:昭和2.11.15(1927)
生年:文久2.11.1(1862.12.21)
明治大正期の海軍軍人。佐賀藩士村上有竹と寿賀の長男。明治17(1884)年海軍兵学校卒業。翌年,水雷術練習艦「迅鯨」に乗り組む。日清戦争(1894~95)には「吉野」水雷長として出征。30年フランスに留学。ヨーロッパ各国の軍港を視察し,伝書鳩の飼育訓練なども調査。日露戦争(1904~05)には「千代田」艦長として出征,ロシア艦に挟まれながらの仁川港脱出は有名である。戦後教育本部第1部長,艦政本部第1部長,呉海軍工廠長を務め,戦後の軍備充実のために兵器の改良,開発,工廠設備増強などに努力した。大正3(1914)年シーメンス事件が発覚し,司法当局の捜査を受け,待命となったが,1カ月後艦政本部長として復職,以後造船造兵技術の向上に努めた。6年教育本部長となり,7年大将に進む。呉鎮守府司令長官,軍事参議官を経て13年清浦奎吾内閣の海軍大臣となった。海軍拡張の基礎を固めた人物。佐賀育英会の創設にも尽力。<参考文献>波多野貞夫『海軍大将村上格一伝』

(岸本昌也)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「村上格一」の解説

村上格一 むらかみ-かくいち

1862-1927 明治-大正時代の軍人。
文久2年11月1日生まれ。日露戦争で千代田艦長をつとめ,仁川沖海戦に功をたてる。艦政本部長,教育本部長,呉鎮守府司令長官をへて大正13年清浦内閣の海相となった。海軍大将。昭和2年11月15日死去。66歳。肥前佐賀出身。海軍兵学校卒。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

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