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日露戦争 にちろせんそう

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

日露戦争
にちろせんそう

1904~05年,朝鮮および満州 (中国東北地方) の支配権をめぐる対立から発展した日本・ロシア間の軍事衝突。 1898年ロシアは中国 (清朝) に圧力をかけ,戦略的に重要な南満州の遼東半島南端にある旅順港の租借権を獲得した。

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朝日新聞掲載「キーワード」の解説

日露戦争

1904〜05年、ロシアと日本が韓国と中国東北部(旧満州)の支配をめぐり争い、日本が勝った。日本側の死者は約8万4千人と、日清戦争時(約1万3千人)の6.5倍に上った。ロシア側は約5万人。日清戦争後、ロシアは朝鮮での影響力を強めるとともに、極東で不凍港手に入れるため、1898年に清から旅順・大連を租借、鉄道の敷設を進めた。モスクワ大学のアイラペトフ助教授によると、ロシアの対外政策の基本は大洋に進出するという海洋戦略で、皇帝ニコライ2世はこの考えを熱心に支持していたという。1900年、ロシアは義和団との戦いのため清に出兵、鎮圧後も満州に居座った。日本はロシアと交渉をしつつ戦争準備を進めた。交渉は決裂し、1904年2月、日本軍は旅順のロシア艦隊を攻撃、韓国・仁川にも上陸し戦争が始まった。日本軍は、12月には多くの犠牲者を出しながらも、旅順港を見下ろす203高地を占領し、翌年1月、旅順の要塞(ようさい)を陥落させた。日本の連合艦隊が5月、日本海海戦バルチック艦隊に壊滅的な打撃を与えると、アメリカのセオドア・ルーズベルト大統領が講和をあっせん。ロシア国内は革命運動が広がり混乱、日本も戦費調達が限界に達していたので講和に応じた。

(2007-08-27 朝日新聞 朝刊 東特集A)

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デジタル大辞泉の解説

にちろ‐せんそう〔‐センサウ〕【日露戦争】

明治37年(1904)から翌年にかけて、満州(中国東北部)・朝鮮の支配権をめぐって日本とロシアとの間で行われた戦争。日本は旅順攻撃・奉天の会戦日本海海戦などで勝利を収めたが、戦争遂行能力が限界に達し、ロシアも革命勃発などによって戦争終結を望み、米国大統領T=ルーズベルトの斡旋によりポーツマス講和条約を締結。→ポーツマス条約

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百科事典マイペディアの解説

日露戦争【にちろせんそう】

朝鮮(大韓帝国)・満州の支配をめぐる日本とロシアとの戦争。ロシアは,1900年の義和団事件を機に満州に15万の兵を送り,事件後も撤兵せず満州の独占支配と朝鮮進出の具体化に着手し,日本の利害と衝突するに至った。
→関連項目明石元二郎足尾鉱毒事件池辺三山石川三四郎石光真清大阪砲兵工廠大塚楠緒子小野塚喜平次桂太郎内閣金井延関東州黒岩涙香クロパトキン郡司成忠軍部黄海海戦小杉放庵近衛兵ステッセリ建川美次東清鉄道東洋拓殖[株]ニコライ[2世]日米通商航海条約日韓議定書日本反戦運動ピウスーツキ非戦論広瀬武夫ブラゴベシチェンスク戊申詔書山県有朋李朝(朝鮮)ロシア革命ロジェストベンスキー

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防府市歴史用語集の解説

日露戦争

 1904年(明治37年)日本とロシアの間で起きた戦争で、主に中国大陸が戦場となりました。日本は有利に戦いをすすめましたが、犠牲も多く、人も物資も戦争を続けていくのには限界があったため、翌年、アメリカのルーズベルト大統領のはたらきかけにより、両国の間に条約が結ばれて戦争は終わりました。

出典|ほうふWeb歴史館
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世界大百科事典 第2版の解説

にちろせんそう【日露戦争】

1904‐05年(明治37‐38)に日本とロシア両国が朝鮮(大韓帝国),満州(現,中国東北部)に対する支配をめぐって戦った戦争。両国の背後には,英米,仏独など諸列強の帝国主義的利害の対立があったため,戦費の調達や講和などに各国の利害や思惑がからみ,他方,新興国日本の大国ロシアへの挑戦として世界の注目を集めた。明治三十七・八年の役ともいう。
[前史]
 日清戦争が日本の勝利に終わり,日本が講和条約で遼東半島を獲得すると,ロシアは同盟国フランスとロシアの関心がアジアに向けられていることを期待するドイツとともに三国干渉を行って日本に遼東半島を還付させた。

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大辞林 第三版の解説

にちろせんそう【日露戦争】

1904年(明治37)2月から翌年にかけて、満州・朝鮮の支配をめぐって戦われた日本とロシアの戦争。ロシアの南下政策に対して日本は英・米の支持の下に強硬政策をとり開戦。日本軍は旅順攻略・奉天会戦・日本海海戦で勝利を収めたが、軍事的・財政的に限界に達し、ロシアでは革命運動の激化などで早期戦争終結を望み、両国はアメリカ大統領ルーズベルトの勧告をいれて、1905年九月ポーツマスで講和条約を締結した。 → ポーツマス条約

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

日露戦争
にちろせんそう

1904年(明治37)2月より翌1905年9月まで、日本とロシアが朝鮮と南満州(中国東北)の支配をめぐって戦った戦争。日本は12万の戦死、廃疾者を出し戦費15億円を費やした。[藤村道生]

国際的背景

三国干渉後、列強の中国分割が進行するなかで、アメリカは中国の門戸開放と領土保全および機会均等を宣言した。これに対しロシアは、シベリア鉄道を軸に東方政策を推進、東清(とうしん)鉄道敷設、旅順(りょじゅん)・大連(だいれん)租借を通じて南満州を支配するとともに、朝鮮にも進出して軍事教官や財政顧問を置き、南岸の馬山(まさん)浦まで租借を策した。日本は山県(やまがた)‐ロバノフ協定、西‐ローゼン協定で朝鮮における優越権の維持を図ったが、ロシアは義和団(ぎわだん)鎮圧の名目で出兵した兵力を撤兵せず事実上全満州を占領するに至った。イギリスは、ロシアの南下を阻止して中国市場を防衛するために日英同盟を提案。小村寿太郎(じゅたろう)外相は、満韓交換で日露関係調整を唱える伊藤博文(ひろぶみ)らの日露協商論を抑えて、1902年1月日英同盟を結び露仏同盟に対抗した。こうして満州と朝鮮を挟んで二帝国主義ブロックが対峙(たいじ)する形勢が生じた。[藤村道生]

開戦の動因

ロシアは露清(ろしん)協定による第二次撤兵の期限の1903年4月8日になっても、撤兵を実行せず、逆に増兵し、鴨緑江(おうりょくこう)南岸に進出して森林伐採を始めた。日本は、朝鮮の安全を脅かすものとして態度を硬化させた。おりしも日清戦後の10年計画による対露軍備拡張案が完成したので、軍も、開戦が必要ならば現在をおいてないと強調した。国民は軍拡による相次ぐ増税にあえいでいたが、不満は国民同盟会などによって強硬外交論に誘導され、『萬朝報(よろずちょうほう)』に拠(よ)る内村鑑三(かんぞう)や幸徳秋水(こうとくしゅうすい)の非戦論は孤立していった。
 桂(かつら)太郎内閣は1903年6月、元老を交えて御前会議を開き対露交渉案をまとめ、開戦世論と米英の支持を背景に、8月ロシアに対し奉天(ほうてん)の開放とロシア軍の満州撤兵を要求、交渉を開始した。日露両国はそれぞれ、相手国が朝鮮と満州を自国の勢力圏と認めること、相手国がこれに干渉しないことを約束させ、さらに相手国の勢力圏における支配を制限しようとした。日本は日英同盟の存在がロシアに譲歩させると期待したが、ロシア皇帝の側近は日本の満州に関する要求を強硬に拒否する一方、日本が韓国領土を軍事的に使用する権利をも否認した。交渉が難航するなかで日本では、陸・海・外三省の中堅幹部が互いに連絡して早期開戦を策動し、また東京帝大教授戸水寛人(とみずひろんど)ら七博士は強硬論を唱え、全国を遊説して開戦世論を盛り上げた。『萬朝報』も開戦論支持に転じたため内村らは退社、幸徳や堺利彦(さかいとしひこ)は『平民新聞』を創刊して非戦論の孤塁を守った。当初戦争に消極的だった実業界も、戦争切迫の情報で市況が沈滞したため、10月には開戦説に移った。政府は12月末の閣議で開戦準備促進を決め、旅順艦隊出動の報を受けた1904年2月4日の御前会議は対露国交断絶と軍事行動開始を決定し、10日日露両国はそれぞれ宣戦を布告した。[藤村道生]

戦争の経過

国力が乏しく長期戦に耐えることのできない日本の戦略は、ヨーロッパの増援を受けないうちに満州のロシア軍を撃滅し、戦況が優勢のうちに英米に依頼して講和することであった。戦費と軍需品も英米に依存していたから、援助を引き出し外債募集に成功するためにも早期に戦果をあげる必要があった。短期決戦と奇襲、英米との協調を軸に対露作戦計画が立案され、宣戦布告に先だつ仁川(じんせん)沖海戦と陸軍の韓国上陸、連合艦隊(司令長官東郷平八郎(とうごうへいはちろう))の旅順港夜襲が強行され、金子堅太郎が講和の斡旋(あっせん)依頼に、また日銀総裁高橋是清(これきよ)が外債募集のためにそれぞれ米、英に派遣された。
 第一軍(司令官黒木為(ためもと))は韓国を制圧、その圧力下に2月日韓議定書を結び、ついで8月に第一次日韓協約を締結して事実上の保護国とした。海軍は、黄海(こうかい)の制海権を確保し陸軍を遼東(りょうとう)半島に輸送するため旅順港の封鎖を図り、その一環として広瀬武夫らの決死隊が同港閉塞(へいそく)作戦を強行した。第二軍(司令官奥保鞏(おくやすかた))は5月遼東半島に上陸、南山激戦ののち第一軍、第四軍(司令官野津道貫(のづみちつら))とともに遼陽(りょうよう)決戦を目ざした。旅順要塞(ようさい)攻囲のため第三軍(司令官乃木希典(のぎまれすけ))を編成、以上各軍の統一指揮にあたる満州軍総司令部(総司令官大山巌(いわお))を置き、児玉源太郎(こだまげんたろう)を総参謀長とした。8月、ロシアの旅順艦隊はウラジオストクを目ざして脱走を図ったが、連合艦隊主力はこれを敗走させ(黄海海戦)、第二艦隊(長官上村彦之丞(かみむらひこのじょう))は陽動作戦中のウラジオ艦隊を撃破した(蔚山(うるさん)沖海戦)。第三軍は旅順に対し総攻撃したが兵力の3分の1を失って挫折(ざせつ)。北進軍(第一、二、四軍)ものちに海軍の広瀬中佐とともに軍神として喧伝(けんでん)された橘周太(たちばなしゅうた)中佐以下2万4000の死傷者を出し、遼陽は占領したが戦略目標のロシア野戦軍の殲滅(せんめつ)に失敗し、日本の望んだ早期終戦の可能性は去った。
 ロシアは当初、革命運動に備えて有力な兵団を首都周辺に配置していたが、敗戦は革命的機運を助長するとみて、現役兵の増援とバルチック艦隊の遠征を決定した。10月、ロシア軍の反撃で沙河(さか)会戦が発生、日本軍は苦戦のすえ撃退した。バルチック艦隊の出発で緊急課題となった旅順攻略のため、大本営は予備戦力の全部を投入、児玉総参謀長が直接指揮して二〇三高地(爾霊(にれい)山)を奪取、大きな犠牲を払って翌1905年1月開城に成功した(これまでの半年の戦争で約6万人の戦死者が出ている)。3月、奉天会戦で日本は辛勝したが、ロシア軍の包囲殲滅に失敗し、戦力の限界から講和は急務となった。5月、東郷艦隊は遠征のバルチック艦隊を撃滅し、海軍力を失ったロシアも講和を決意した。[藤村道生]

反戦運動

日本は戦費の半分以上を米英資本で賄い、ロシアもフランス資本で戦った。砲弾も同様で、日露戦争は財政と生産力からは英仏の代理戦争であり、それだけ両国の民衆は犠牲を強いられた。幸徳、堺らは1904年3月、「与露国社会党書」を『平民新聞』に発表して「愛国主義」と軍国主義に反対、日露人民は兄弟であると主張した。また片山潜(せん)は第二インターナショナルのアムステルダム大会に出席、ロシア社会民主党のプレハーノフと交歓した。与謝野晶子(よさのあきこ)は「君死に給ふこと勿(なか)れ」と題する反戦詩を発表、表面の戦争熱と裏腹に戦死者の増加、生活の窮乏は民衆のうちに厭戦(えんせん)気分を広げていった。ロシアでは1905年1月の血の日曜日事件により革命運動が激化、6月には黒海艦隊の戦艦ポチョムキンが反乱、革命は全土に拡大した。革命の火を消すために講和は絶対的要請となった。[藤村道生]

講和

日本の依頼を受けたアメリカ大統領セオドア・ルーズベルトは、6月両国に講和を勧告。8月ポーツマスで講和会議が開かれた。日本の小村寿太郎(じゅたろう)全権は戦費賠償金を要求したが、ウィッテ全権は再戦すればロシア必勝の形勢にある満州戦線の実状を背景に拒否した。結局日本は、朝鮮における優越権、遼東半島租借権、東清鉄道南満支線、南樺太(からふと)、沿海州漁業権を得ることとなった。それは日本政府が絶対的必要条件としたものをすべて満足させ、さらに南樺太という相対的必要条件の一部さえ満たしていた。しかし償金がなく戦後の生活も困難であるとみた国民の一部は、ポーツマス条約調印日の9月5日、講和反対の国民大会を開き、日比谷焼打(ひびややきうち)事件に戦争中の不満を吐き出した。[藤村道生]

戦争の影響

戦勝で韓国の保護権を獲得した日本は、第二次日英同盟、桂‐タフト協定で韓国支配の承認を受け、逐次韓国の主権を奪い1910年に併合した。満州でも1906年南満州鉄道株式会社を創立、翌年の日露協約で南満州を勢力範囲に収めた。しかし、アメリカの鉄道資本家ハリマンの提案した満鉄の日米共同管理を拒否したことにより、日本は、門戸開放政策をとるアメリカのアジア政策と衝突することとなった。日本の戦勝はアジア民族運動勃興(ぼっこう)の契機となったが、朝鮮併合は日本への期待を失わせた。一方アジアへの進出を阻まれたロシアがバルカン政策を強化した結果、英仏露協商により対独包囲陣が成立した。こうして第一次世界大戦の戦略配置ができあがったのである。[藤村道生]
『信夫清三郎・中山治一編『日露戦争史の研究』(1959・河出書房新社) ▽古屋哲夫著『日露戦争』(中公新書)』

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世界大百科事典内の日露戦争の言及

【海軍】より

…海軍力では全体ではロシアが優勢だったが,日本側が新鋭艦を多く擁し,訓練・戦法にも優れ,連合艦隊は日本海海戦でロシア艦隊に大勝利を収めた。日露戦争後,日本海軍はアメリカを仮想敵国として大規模な軍備拡張に向かった。各国による建艦競争が始まると,軍艦の国産化を達成した日本は八八艦隊の実現をめざした。…

【朝鮮駐劄軍】より

…日露戦争開戦直後に編成され,日韓併合を経て日本による植民地支配の時期を通じて朝鮮に駐屯した日本の陸軍。日朝修好条規締結(1876)後,日本の陸軍部隊が朝鮮に常駐したのは,1882年壬午軍乱後結ばれた済物浦条約にもとづき,ソウルに駐屯した守備隊をはじめとする。…

【日韓併合】より

…1896年2月には,朝鮮国王をロシア公使館に監禁するクーデタが起こり,朝鮮政府はロシアとの提携をはかるようになった。こうして,日本政府が朝鮮支配を追求するかぎり,日露戦争は避けられないものとなった。 1904年日露開戦にふみきると,日本政府はさっそく朝鮮植民地化の基礎固めに着手した。…

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