( [ 一 ][ 二 ]について ) ( 1 )古来、和歌の題材として好まれた地。上代には、斉明天皇以来、諸天皇によってしばしば行幸があり、「万葉集」にも、吉野に関する歌が多数あるが、大半は、吉野離宮を讚えるもの、吉野川の清さや激しさを賛美するもので、聖地としての意識が色濃く存在していた。
( 2 )中古になると、吉野はより異郷の地となり、歌でも観念的に扱われるようになる。「万葉集」に頻出した吉野川は「古今和歌集」では、多少取り上げられるものの、実景としてではなく、その流れが恋情の譬えとされることが多くなる。
( 3 )吉野といえば桜、という連想は、中世に至って定着した。特に西行の吉野山の桜に対する愛着は有名。近世では、歴史的に不遇な人々が逃れてきた悲哀の地としての意識も高まったが、やはり桜の名所としての存在が大きく、現代にまで継承されている。
一般には奈良県南部の旧吉野郡一帯をさすが、狭義には吉野山のみをいうこともある。吉野の地名は『日本書紀』神武(じんむ)天皇即位前紀戊午(つちのえうま)年8月条に「吉野の地」と記されるほか、『続日本後紀(しょくにほんこうき)』嘉祥(かしょう)元年(848)11月条に「大和(やまと)国吉野郡」とあり、『延喜式(えんぎしき)』『和名抄(わみょうしょう)』にも吉野郡の名がみえる。『万葉集』には吉野のほか芳野(よしの)、余思努(よしぬ)などとも書かれている。なお、『万葉集』に詠まれる吉野は吉野宮(吉野町宮滝)付近のことをさしている。
旧吉野郡の面積は約2300平方キロメートルで県総面積の約60%を占めるが、人口は6万1696(2000)で、県総人口の約4%にすぎず、しかも年々減少を続けている。2005年(平成17)には吉野郡のうち、西吉野村と大塔(おおとう)村が五條(ごじょう)市に編入されている。旧吉野郡の大部分は東西に走る紀伊山地の中央部(奈良県では吉野山地と称する)を占め、東は三重県、南と西は和歌山県に接する。北は大台ヶ原(おおだいがはら)山に源を発する吉野川(紀ノ川上流)が急流をなして西流し、北岸の竜門山地を隔てて奈良盆地に臨む。一方、南部は熊野川の支流で、嵌入(かんにゅう)蛇行しながら南流する北山川、十津(とつ)川によって東から南北方向の台高(だいこう)、大峰(おおみね)、伯母子(おばこ)の3山脈に分けられる。中央の大峰山脈は北端の吉野山から大天井(おおてんじょう)ヶ岳、山上(さんじょう)ヶ岳、大普賢(おおふげん)岳、行者還(ぎょうじゃがえり)岳、八剣山(はっけんざん)など標高1500メートルを超える高峰が連なり近畿の屋根と称される。
吉野山から山上ヶ岳に至る諸峰は金峰山(きんぶせん)とよばれ、古来修験道(しゅげんどう)の道場として知られた。吉野山上には根本道場の金峯山(きんぷせん)寺蔵王(ざおう)堂があり、山上ヶ岳には大峯山寺(おおみねさんじ)とよばれる金峯山寺山上蔵王堂がある。奈良・平安時代には歴代の天皇や藤原氏ら貴族が金峯山寺へ参詣(さんけい)している。1332年(元弘2)護良(もりよし)親王は金峯山寺の大衆(僧徒)の協力を得て吉野山で挙兵し、1336年(延元1・建武3)には後醍醐(ごだいご)天皇が吉野に逃れて行宮(あんぐう)を構え、ここに吉野朝(南朝)が成立した。行宮は賀名生(あのう)(五條市西吉野町)や吉野山などに置かれた。吉野各地に南朝にかかわる史跡が残る。十津川沿いの郷民も南朝に属したが、江戸末期に十津川郷士が討幕運動に加わり、五條代官所を襲撃したことはよく知られている。なお、霊場「吉野・大峯」は、2004年(平成16)「紀伊山地の霊場と参詣道」としてユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録された。
吉野は北部の口(くち)吉野と南部の奥吉野に大別される。口吉野の河谷低地帯は奈良盆地と奥吉野との漸移(ぜんい)地帯で、古くから農業が行われ、河岸段丘上には水田、丘陵地には果樹園が展開している。また、吉野川沿いの大淀(おおよど)町、下市(しもいち)町、吉野町上市などは古くから地方経済の中心地として発達してきた。近年は住宅開発も進んでいる。吉野川上流地域はスギの美林で有名な吉野林業の中心地で、山間の緩傾地に村落があり、住民は代々林業に従事してきた。1956年(昭和31)から吉野熊野特定地域総合開発計画が実施され、十津川、北山川には電源開発により巨大なダムが建設された。それに伴って林道開発、道路網整備が進み、奥吉野の生活環境は一変し、陸の孤島のイメージは払拭(ふっしょく)されたが、その後、人口流出による過疎化が進行している。
大峰山脈と、台高山脈の主峰大台ヶ原山は雄大な山岳美、渓谷美、森林美をもって吉野熊野国立公園の主要部を構成し、伯母子山脈西縁の和歌山県境地域は高野竜神(こうやりゅうじん)国定公園に含まれている。
[菊地一郎]
『林宏著『吉野の民俗誌』(1980・文化出版局)』▽『前登志夫著『新版吉野紀行』(1983・角川書店)』
奈良県中央部、吉野郡北部にある町。1928年(昭和3)町制施行。1956年(昭和31)上市(かみいち)町と中竜門(なかりゅうもん)、竜門、中荘(なかしょう)、国樔(くず)の4村と合併。近畿日本鉄道吉野線、国道169号、370号が通じる。吉野川中流域を占め河岸段丘が発達する。農林業が行われるほか、製材、銘木、木工、新建材など木材工業が盛んで、関連の割箸(わりばし)、木材工芸品、樽丸製作でも知られる。町中に木材市場があり、木材の集散地でもある。吉野川北岸に細長い街村をなす上市地区は、市場(いちば)町として発達した商業中心地で町役場がある。南岸の吉野山は桜と南朝哀史で知られ、金峯山(きんぷせん)寺、吉水神社など古社寺も多く、全域が国の史跡・名勝に指定され、吉野熊野国立公園の北端部に含まれる。さらに2004年(平成16)には霊場「吉野・大峯(おおみね)」が「紀伊山地の霊場と参詣(さんけい)道」の一部として世界遺産(文化遺産)に登録された。吉野川上流の河原屋(かわらや)、飯貝(いいがい)地区には浄瑠璃(じょうるり)の『妹背山婦女庭訓(いもせやまおんなていきん)』ゆかりの妹(いも)山と背(せ)山があり、全山原始林に覆われた妹山樹叢(じゅそう)は国指定天然記念物。さらに上流の景勝地宮滝(みやたき)地区には、縄文、弥生(やよい)、飛鳥(あすか)、奈良時代の複合遺跡である宮滝遺跡(国史跡)があり、出土品は吉野歴史資料館に展示されている。国栖地区には国栖奏(そう)の古舞が伝わり、上質の国栖紙(くずがみ)を特産する。吉野川支流の津風呂川(つぶろがわ)には津風呂ダムと人造湖があり、一帯は県立吉野川津風呂自然公園となっている。面積95.65平方キロメートル、人口6229(2020)。
[菊地一郎]
『『吉野町史』(1972・吉野町)』▽『『増補吉野町史』(2004・吉野町)』
徳島県北東部、板野郡にあった旧町名(吉野町(ちょう))。現在は阿波市(あわし)の南東部を占める地域。吉野川の中流北岸に位置する。旧吉野町は、1957年(昭和32)一条(いちじょう)町と柿島(かきしま)村の一部が合併して成立。2005年(平成17)土成(どなり)、市場、阿波の3町と合併して市制施行、阿波市となった。国道318号が通じ、阿波中央橋(1954年架設)で対岸の吉野川市と結ばれるが、架橋以前は渡船、潜水(沈下)橋によっていた。2004年、新たに吉野川市と結ぶ西条大橋が完成した。宮川内谷(みやごうちだに)川と九頭宇谷(くずうだに)川の形成した扇状地と吉野川の自然堤防からなり、集落は自然堤防上に立地する。柿原は徳島藩政期に原士(はらし)(郷士)たちの開拓地。アイ栽培による藍(あい)作や養蚕が盛んであったが、現在はイチゴ、レタスの栽培が多い。中心の西条は室町時代に守護細川氏の臣岡本氏の居城があった地で、江戸初期には阿波九城の一つに数えられた。
[高木秀樹]
『『吉野町史』全2巻(1977、1978・吉野町)』
大和国南部の地名。狭義には吉野川流域の吉野山など表吉野をさすが,広義には十津川・北山川流域など奥吉野も含まれる。吉野川沿いの宮滝遺跡は,縄文・弥生以来の複合遺跡であるように,原始以来文化の発展がみられた。《日本書紀》には神武紀から吉野が登場し,吉野国神(くにつかみ),吉野国栖(樔)(くず)などの伝承が著名。宮滝遺跡にあったと推定される吉野宮(よしののみや)は同応神紀に初見し,壬申の乱において大海人(おおあま)皇子(天武天皇)は吉野に逃れてから挙兵,吉野宮にはとくに持統朝にしばしば行幸が行われた。また奈良時代には一時期吉野監がおかれ,さらに奈良・平安時代には朝廷の節会(せちえ)にさいし吉野国栖が御贄を献じ歌笛を奏したことなど,奈良時代中期まで〈吉野の国〉は大和に対し独自の地域をなしていた。吉野行幸には多くの万葉歌人が同行して秀歌をとどめ,〈みよしの〉はじめ歌枕も多い。吉野の桜は歌に詠まれ,自然観照の変化とともに桜はしだいに有名となってゆく。一方,山上ヶ岳の南方小篠から北西吉野川にいたる一連の峰を金峰山(きんぷせん),小篠から南熊野までを大峰山(おおみねさん)(現在は山上ヶ岳をいう)といって,奈良時代以来修験の霊場となった。金峰山には金剛蔵王権現がまつられ,平安時代中期には寺院の形態を整えて蔵王堂以下多くの坊舎が建ち,金峯山寺と総称,院政期にかけて貴紳の御嶽詣が盛行した。中世には金峯山寺は興福寺の末寺となったが,天台宗聖護院系(本山派,または寺僧派),真言宗醍醐寺系(当山派,または満堂派)の坊舎も多かった。ちなみに桜は蔵王権現の神木とされる。
吉野の地があらためて歴史の脚光をあびるのは,元弘の乱(1333)にさいし,護良親王が金峯山寺の大衆をたよって挙兵し,ついで後醍醐天皇の行宮(あんぐう)がおかれ南朝(吉野朝)の拠地となったことによってである。天皇は金峯山寺塔頭実城寺を行宮として金輪王(きんりんのう)寺と改めたが,ここで死に,塔尾陵が営まれた。高師直の焼討ちの後,行宮は各地を移動した。南北朝合一(1392)後も,吉野各地は後南朝の拠点となった。真宗は鎌倉時代から吉野に普及しはじめたといわれ,室町時代後期には願行寺,本善寺が創建され,天文一揆をおこして興福寺などを襲撃した。
江戸時代,金輪王寺は幕命によって日光に移され,金峯山寺は日光の支配下におかれて寺勢を失った。しかし豊臣秀吉の花見が行われるなど,桜がさらに著名となって庶民の観桜もさかんとなり,講を結んでの大峰参詣もひろく普及した。1889年に後醍醐天皇を祭神とする吉野神宮が創建された。
執筆者:熱田 公
江戸時代,京都の六条,島原の遊里を代表した太夫の名。江戸吉原の高尾太夫と並び称される。もっとも《吉野伝》によると吉野を名乗る太夫は,江戸時代初期に限っても,10人以上いたという。なかでも有名なのは,六条柳町の林与兵衛家の2代目吉野太夫徳子(1606-43)である。彼女は,京都の方広寺大仏の近くで生まれたという。生家は俵藤太の末裔と伝えるが,もとより信を置けない。一説に,父は西国の武士で浪人して上京,扇子紙を折って生計をたてていたが早世したため,彼女は娼家に養われることになったともいわれる。いずれにせよ,8歳で林家に預けられ,14歳で出世して太夫となり吉野を称した。1631年(寛永8)上京(かみぎよう)の豪商佐野(灰屋)紹益に請け出されて廓を去るまで,13年にわたって太夫の位にあった。その間,〈六条の七人衆〉の筆頭にあげられ,〈天の下にならびなきあそび〉と評された。生来利発で,茶や香をはじめ古典的な諸芸に通じ,当時の六条遊里に濃厚であった貴族的雰囲気を体現した一流の教養人として,貴顕とも親しく交わり,名声を高めた。ことに近衛信尋との交流は巷間に伝えられるところで,その身請けをめぐって紹益と信尋が張り合ったという逸話もある。なお,吉野をめとった紹益は親の勘気をうけ下京に閑居したが,のち本阿弥光悦の仲介で本家に戻り,吉野は紹益の正妻として没し,佐野家の菩提寺立本(りゆうほん)寺(今出川寺町)に葬られた。また鷹峰常照寺の山門は吉野の寄進したものとされ(吉野門と通称する),同寺にも供養塔があるほか,境内に吉野をしのんで吉野桜が植えられている。
執筆者:守屋 毅
奈良県中央部,吉野郡の町。人口8642(2010)。吉野川中流域にあり,川沿いに中央構造線が走り,北岸は内帯,南岸は外帯で,地体構造上も重要な地である。左岸の吉野は南朝の史跡や桜で知られる吉野山(史・名)を主とする観光地。右岸の上市は市場町として発展した観光・交通の拠点で,とくに吉野杉をはじめとする木材の集散地として製材業が発達した。上市より上流にある国栖(くず)は,古くから吉野和紙(奈良紙)の生産で有名。また傾斜地に特有の吉野造(表は1階建てであるが,裏は2階建て)の民家様式も知られる。記紀や《万葉集》をはじめ,多くの歴史上の事跡や文学の舞台となった地であり,宮滝遺跡(史),吉野宮,吉野山の金峯山(きんぷせん)寺や吉野水分(みくまり)神社,後醍醐天皇塔尾(とうのお)陵など史跡や古社寺が集中する。北東から吉野川に注ぐ津風呂(つぶろ)川にはダムがあり,津風呂湖一帯は県立自然公園に属する。原始林の妹山樹叢(天)もある。水資源,森林資源の開発は著しい。近鉄吉野線が通じる。
→吉野山
執筆者:高橋 誠一
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(宇田敏彦)
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出典 日外アソシエーツ「事典・日本の観光資源」事典・日本の観光資源について 情報
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【古代】
畿内に属する大国(《延喜式》)。添上(そふのかみ),添下,平群(へぐり),広瀬,葛上(かつらぎのかみ),葛下,忍海(おしうみ∥おしみ),宇智(うち),吉野,宇陀(うだ),城上(しきのかみ),城下,高市(たけち),十市(とおち),山辺(やまのべ)の15郡に分かれていた。大和国を地形的にみると,奈良盆地(国中),大和高原(東山中),宇陀,吉野の4地域に分かれる。…
※「吉野」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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