大和国南部の地名。狭義には吉野川流域の吉野山など表吉野をさすが,広義には十津川・北山川流域など奥吉野も含まれる。吉野川沿いの宮滝遺跡は,縄文・弥生以来の複合遺跡であるように,原始以来文化の発展がみられた。《日本書紀》には神武紀から吉野が登場し,吉野国神(くにつかみ),吉野国栖(樔)(くず)などの伝承が著名。宮滝遺跡にあったと推定される吉野宮(よしののみや)は同応神紀に初見し,壬申の乱において大海人(おおあま)皇子(天武天皇)は吉野に逃れてから挙兵,吉野宮にはとくに持統朝にしばしば行幸が行われた。また奈良時代には一時期吉野監がおかれ,さらに奈良・平安時代には朝廷の節会(せちえ)にさいし吉野国栖が御贄を献じ歌笛を奏したことなど,奈良時代中期まで〈吉野の国〉は大和に対し独自の地域をなしていた。吉野行幸には多くの万葉歌人が同行して秀歌をとどめ,〈みよしの〉はじめ歌枕も多い。吉野の桜は歌に詠まれ,自然観照の変化とともに桜はしだいに有名となってゆく。一方,山上ヶ岳の南方小篠から北西吉野川にいたる一連の峰を金峰山(きんぷせん),小篠から南熊野までを大峰山(おおみねさん)(現在は山上ヶ岳をいう)といって,奈良時代以来修験の霊場となった。金峰山には金剛蔵王権現がまつられ,平安時代中期には寺院の形態を整えて蔵王堂以下多くの坊舎が建ち,金峯山寺と総称,院政期にかけて貴紳の御嶽詣が盛行した。中世には金峯山寺は興福寺の末寺となったが,天台宗聖護院系(本山派,または寺僧派),真言宗醍醐寺系(当山派,または満堂派)の坊舎も多かった。ちなみに桜は蔵王権現の神木とされる。
吉野の地があらためて歴史の脚光をあびるのは,元弘の乱(1333)にさいし,護良親王が金峯山寺の大衆をたよって挙兵し,ついで後醍醐天皇の行宮(あんぐう)がおかれ南朝(吉野朝)の拠地となったことによってである。天皇は金峯山寺塔頭実城寺を行宮として金輪王(きんりんのう)寺と改めたが,ここで死に,塔尾陵が営まれた。高師直の焼討ちの後,行宮は各地を移動した。南北朝合一(1392)後も,吉野各地は後南朝の拠点となった。真宗は鎌倉時代から吉野に普及しはじめたといわれ,室町時代後期には願行寺,本善寺が創建され,天文一揆をおこして興福寺などを襲撃した。
江戸時代,金輪王寺は幕命によって日光に移され,金峯山寺は日光の支配下におかれて寺勢を失った。しかし豊臣秀吉の花見が行われるなど,桜がさらに著名となって庶民の観桜もさかんとなり,講を結んでの大峰参詣もひろく普及した。1889年に後醍醐天皇を祭神とする吉野神宮が創建された。
執筆者:熱田 公
江戸時代,京都の六条,島原の遊里を代表した太夫の名。江戸吉原の高尾太夫と並び称される。もっとも《吉野伝》によると吉野を名乗る太夫は,江戸時代初期に限っても,10人以上いたという。なかでも有名なのは,六条柳町の林与兵衛家の2代目吉野太夫徳子(1606-43)である。彼女は,京都の方広寺大仏の近くで生まれたという。生家は俵藤太の末裔と伝えるが,もとより信を置けない。一説に,父は西国の武士で浪人して上京,扇子紙を折って生計をたてていたが早世したため,彼女は娼家に養われることになったともいわれる。いずれにせよ,8歳で林家に預けられ,14歳で出世して太夫となり吉野を称した。1631年(寛永8)上京(かみぎよう)の豪商佐野(灰屋)紹益に請け出されて廓を去るまで,13年にわたって太夫の位にあった。その間,〈六条の七人衆〉の筆頭にあげられ,〈天の下にならびなきあそび〉と評された。生来利発で,茶や香をはじめ古典的な諸芸に通じ,当時の六条遊里に濃厚であった貴族的雰囲気を体現した一流の教養人として,貴顕とも親しく交わり,名声を高めた。ことに近衛信尋との交流は巷間に伝えられるところで,その身請けをめぐって紹益と信尋が張り合ったという逸話もある。なお,吉野をめとった紹益は親の勘気をうけ下京に閑居したが,のち本阿弥光悦の仲介で本家に戻り,吉野は紹益の正妻として没し,佐野家の菩提寺立本(りゆうほん)寺(今出川寺町)に葬られた。また鷹峰常照寺の山門は吉野の寄進したものとされ(吉野門と通称する),同寺にも供養塔があるほか,境内に吉野をしのんで吉野桜が植えられている。
執筆者:守屋 毅
奈良県中央部,吉野郡の町。人口8642(2010)。吉野川中流域にあり,川沿いに中央構造線が走り,北岸は内帯,南岸は外帯で,地体構造上も重要な地である。左岸の吉野は南朝の史跡や桜で知られる吉野山(史・名)を主とする観光地。右岸の上市は市場町として発展した観光・交通の拠点で,とくに吉野杉をはじめとする木材の集散地として製材業が発達した。上市より上流にある国栖(くず)は,古くから吉野和紙(奈良紙)の生産で有名。また傾斜地に特有の吉野造(表は1階建てであるが,裏は2階建て)の民家様式も知られる。記紀や《万葉集》をはじめ,多くの歴史上の事跡や文学の舞台となった地であり,宮滝遺跡(史),吉野宮,吉野山の金峯山(きんぷせん)寺や吉野水分(みくまり)神社,後醍醐天皇塔尾(とうのお)陵など史跡や古社寺が集中する。北東から吉野川に注ぐ津風呂(つぶろ)川にはダムがあり,津風呂湖一帯は県立自然公園に属する。原始林の妹山樹叢(天)もある。水資源,森林資源の開発は著しい。近鉄吉野線が通じる。
→吉野山
執筆者:高橋 誠一
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報
出典 日外アソシエーツ「事典・日本の観光資源」事典・日本の観光資源について 情報
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【古代】
畿内に属する大国(《延喜式》)。添上(そふのかみ),添下,平群(へぐり),広瀬,葛上(かつらぎのかみ),葛下,忍海(おしうみ∥おしみ),宇智(うち),吉野,宇陀(うだ),城上(しきのかみ),城下,高市(たけち),十市(とおち),山辺(やまのべ)の15郡に分かれていた。大和国を地形的にみると,奈良盆地(国中),大和高原(東山中),宇陀,吉野の4地域に分かれる。…
※「吉野」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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