東別府村
ひがしべつぷむら
[現在地名]熊谷市東別府・別府
幡羅郡忍領に所属(風土記稿)。荒川左岸の櫛挽台地寄居面の北縁から利根川右岸の沖積扇状地にまたがり、南は新堀村・玉ノ井村。西の西別府村から東の奈良新田にまたがる広大な水田は古代条里制が施行された地域で、別府条里(幡羅郡条里)と総称され、八反田・梅ヶ坪・市ノ坪・四反田・深町・浄心寺町など条里関係の地名が残る。条里地割は明治初期の地籍図や明治一〇年代二万分一迅速測図および昭和二二年(一九四七)にGHQが撮影した航空写真でも確認されるが、昭和四〇年代の圃場整備事業によって現在は消滅している。
東別府村
ひがしべつぷむら
[現在地名]知覧町東別府・南別府
永里村・瀬世村の南に位置し、東は頴娃郷別府村(現頴娃町)、西は西別府村、南は海に面する。門之浦(角之浦)・松ヶ浦・東塩屋の三浦があり、現在の南別府の海岸部に東から西へと並ぶ。中世は知覧院に属した。現在の東別府に白石の小字があるが、元亨四年(一三二四)三月八日の平忠世和与状(旧記雑録)によると、「白石狩倉」が地頭一円知行地となっており、同地には「白石久玉」(現永里の白石神社)が鎮座していた。天正一七年(一五八九)のものとされる四月六日の島津義弘書状(旧記雑録)からは、門之浦に居住していた知覧領主佐多久慶の一族久福の家来が豊臣秀吉の禁令に反して海賊行為を働いたことが知られ、久慶はこれによって同一九年河辺郡宮村(現川辺町)に移封された(佐多氏系図など)。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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