日本歴史地名大系 「東善養寺村」の解説 東善養寺村ひがしぜんようじむら 群馬県:前橋市東善養寺村[現在地名]前橋市東善町(ひがしぜんまち)那波(なは)郡に属し、東は広瀬(ひろせ)川(韮川)で勢多(せた)郡駒形(こまがた)新田に対し、北は山王(さんのう)村、西は中内(なかうち)村、南は今(いま)村(現伊勢崎市)。北西から南東に細長い村である。「郡村誌」によれば、もと善要治村と称し、西善養寺村と一村であったという。元徳三年(一三三一)一一月二三日の関東下知状案(長楽寺文書)によれば、「上野国那波郡善養寺内田肆町参段半、在家弐宇坪付在別紙事」は高山弥四郎重朝のものであったが、由良孫三郎景長の妻紀氏のものとなり、翌四年三月一九日の由良景長妻紀氏寄進状案(同文書)で世良田長楽(せらだちようらく)寺(現新田郡尾島町)に寄進されている。この地は年月日未詳の長楽寺寺領目録案(同文書)では、その所当は「十三貫文作人六郎二郎入と分」「十五貫文作人弥藤三」とに分けられている。天正一一年(一五八三)二月一九日の北条高広書状(江口文書)によれば、北条氏政父子が利根川を越えて、「善養寺表」に在陣している。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by