東堺町(読み)ひがしさかいちよう

日本歴史地名大系 「東堺町」の解説

東堺町
ひがしさかいちよう

下板橋しもいたばし西詰、ほり川の西で、下板橋通の西の突当りに位置する。初め堺町と称していたが、同町名があって紛らわしいので明治維新頃改称したと伝える。東堺町から濠川が西へ直角に曲がる所に浜側はまがわ町があったが、明治七年(一八七四)に東堺町の西隣の呉服ごふく町に合併され、呉服町を昭和四年(一九二九)東堺町に合併したので、現在の東堺町は先述の三町から形成されている。従って、昭和四年以前と以後とでは全く異質の町と考えられる。

「豊公伏見城ノ図」、伏見城下総絵図では、堺町・浜側町・呉服町などの地域はほとんど町家地区で、武家屋敷は見当たらない。山城国伏見街衢並近郊図には堺町の中央部に松平大隅守の屋敷地が大きく描かれ、呉服町と一部浜側町にかかると考えられる辺りに小川藤左衛門の屋敷地が書込まれており、江戸時代に入って二つの武家屋敷が営まれたわけである。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

中国のゴビ砂漠などの砂がジェット気流に乗って日本へ飛来したとみられる黄色の砂。西日本に多く,九州西岸では年間 10日ぐらい,東岸では2日ぐらい降る。大陸砂漠の砂嵐の盛んな春に多いが,まれに冬にも起る。...

黄砂の用語解説を読む