呉服町(読み)ごふくちょう

精選版 日本国語大辞典 「呉服町」の意味・読み・例文・類語

ごふく‐ちょう‥チャウ【呉服町】

  1. 東京都中央区日本橋の旧地名。現在の日本橋一・二丁目と八重洲一丁目のあたり。江戸時代、幕府の呉服師後藤縫殿助の邸があったところからの称。
    1. [初出の実例]「我無分別さかんにまかせ、呉服(ゴフク)町の肴棚かりて」(出典:浮世草子日本永代蔵(1688)二)

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日本歴史地名大系 「呉服町」の解説

呉服町
ごふくまち

[現在地名]博多区上呉服町かみごふくまち中呉服町なかごふくまち店屋町てんやまち綱場町つなばまち

小山町下おやままちしもの北に続く南北道に沿う両側町で、呉服町上・呉服町下からなる。南は店屋町上・うお町下まちしもの通り、北は中間なかま町・中石堂なかいしどう町のある唐津街道で画される(福岡博多近隣古図)。町名は初め呉服屋が居住したことに由来するという(続風土記)。慶長一五年(一六一〇)の御祓賦日記(神宮文庫蔵)に「御ふくまち」とあり、柴田道作・木本助四郎・安武与三郎ら八名がみえる。元禄三年(一六九〇)の家数は上二一・下二〇(続風土記)。明和三年(一七六六)には上の家数二六・間数一一三間余、下の家数二二・間数一一二間余(石城志)。慶応二年(一八六六)の家数は上二四・下三〇(博多店運上帳)。天正―寛文期(一五七三―一六七三)の博多年行司に柴田宗仁・宗有(市小路町居住)がおり、宗有は当町西側に住した大賀道九(道句)の舅という(石城志)。「石城志」のいう道九は「町村書上帳」所収の覚書にみえる宗九(宗句・宗勺、俗名甚四郎信好、父惟信は大友氏家臣、寛永七年没)にあたり、宗九の子を道句(俗名九郎左衛門、寛永一八年没)とする。大賀氏は黒田家の福岡入国に従って豊前中津から移住、宗九は慶長六年の福岡城築城に際して資金を提供、また肥前長崎に往来して唐物商売(朱印船貿易)にも従事した。また慶長年中聖福しようふく寺境内に幻住げんじゆう庵を再建したという。大賀氏の系譜は、「石城志」「続風土記附録」「長政公御入国より二百年町家由緒記」や「福岡県碑誌」の墓碑銘などに記されるが、初期に関しては異同がある。


呉服町
ごふくまち

[現在地名]上越市ほん町二―三丁目

よこ町の北に続く本町ほんまち(北国街道)の両側町で、この通りの中心繁華街。町の長さおよそ二二六間(高田市史)。正徳年間(一七一一―一六)の高田町各町記録(榊原家文書)には「呉服町と申名由緒不存候」とあるが、元来呉服屋の同業者町として成立したものであろう。町の南北ほぼ中央を東方高田城大手前から西進する大手道が通り、南半を上呉服町、北半を下呉服町とよんだ。上呉服町には茶商売を営む者が多くちや町と通称した。本町通と大手道の交差点を四ッ角といった。この四ッ角は高田築城にあたって伊達政宗が仙台の芭蕉の辻をまねて作ったといわれる。四ッ角の四隅には町年寄四人に家居をあたえ、初めは順番で自宅を町会所にあて町政をとった。かれらは四ッ角役ともよばれた。延享元年(一七四四)四ッ角より約五〇メートルほど北の下呉服町に独立の町会所を設けた。以後ここは明治にはいって高田町役場、高田市役所になり、昭和四六年(一九七一)上越市の誕生で四八年新庁舎が木田きだに建設されるまでの間、行政の中心であった。


呉服町
ごふくちよう

[現在地名]静岡市呉服町一―二丁目・御幸町みゆきちよう中町なかちよう

駿府城の西、城下縦筋(縦町)第二行の両側町。北端は横筋(横町)第八行の本通ほんとおり、南端は横筋第二行の江川えがわ町と交差する。北から南へ一丁目から六丁目に区画される。東海道は江川町から北へ折れて当町六丁目に入り、五丁目を経て四丁目で西に折れ、札之辻ふだのつじ町に至る。北端東側に天神(現静岡天満宮)があり、東側の町裏に北から駿府定番預屋敷・駿府町奉行向屋敷・同町奉行所屋敷・御目付小屋が並ぶ(以上、町方絵図)。永禄年間(一五五八―七〇)に「府の本町」と称され、徳川家康駿府在城時に呉服商人が居住したのが町名の由来という(駿河記)。一丁目の友野家は今川氏以来の豪商で、年未詳三月一三日の伊奈忠次手形(友野文書)に「府中年寄衆六人」とあり、駿府町年寄を勤めた。徳川家康駿府在城時からの駿府糸割賦仲間の一員で、「町年寄并ニ糸割賦総代筋目」「長崎仲間」と称された(「長崎貨物銀拝領割渡関係帳簿類」県立中央図書館蔵)


呉服町
ごふくまち

[現在地名]中央区大名だいみよう二丁目・舞鶴まいづる二丁目

福岡城下六丁筋の町。東西に延びる通りの両側町で、西はほん町、南は大名町、東は上名島かみなじま町、北は西職人にししよくにん(福岡博多近隣古図)。本町との境の南北の横町を黒茶くろちや町、上名島町との境の南北の横町を風呂屋ふろや町という(続風土記拾遺)。町名は町立てが行われた際に呉服を売る商人が居住していたことにちなむ(続風土記)。元禄三年(一六九〇)の家数五七(同書)。寛政期(一七八九―一八〇一)の家数六九(うち酒家二・麹家一)、馬三(別本「続風土記附録」)。前掲古図では家数七四。人数三一七、間数二四五間余。


呉服町
ごふくまち

[現在地名]佐賀市呉服元町ごふくもとまち

長崎街道は構口かまえぐち牛島うしじま町・やなぎ町・蓮池はすのいけ町・呉服町と東から西へと進み、右折して元町に出る。佐賀城下の東の馬継の問屋場は当初呉服町に置かれたが、のち元町に移された。

佐賀城下には当初は本陣を置かず、高木たかき町の願正がんしよう寺、白山しらやま町の称念しようねん寺が仮本陣となっていたが、寛政一二年(一八〇〇)に呉服町の御用達、新徒士の野口恵助の私邸を改修して本陣として長崎奉行などの宿泊に供した(泰国院様御年譜地取)


呉服町
ごふくちよう

[現在地名]盛岡市なか橋通はしどおり一丁目・肴町さかなちよう

紺屋こんや町の南につづく奥州街道の両側町で、二町ほどの町人町(「盛岡砂子」など)。東は肴町、西は中津なかつ川沿いの川原かわら小路、南は六日むいか町に接する。紺屋町境の西端には中津川に架かる中の橋がある。同橋際より東へ延び、肴町に突き当る東西一町ほどの横町はあら町と称される(同書)。寛永城下図ではしん町、元文城下図ではシン町とみえるが、文化九年(一八一二)呉服丁と改称(御家被仰出)。新町ののちなか町と称されたともいわれ、市日は毎月二六日(盛岡砂子)。天明八年(一七八八)の家数二六・人数二八四(邦内郷村志)。なお、幕末の城下図(葛西氏旧蔵)には北から南へ一丁目・二丁目とある。


呉服町
ごふくまち

[現在地名]篠山市呉服町

篠山城の北東方、上二階かみにかい町の北東に位置する。南に武家地が連なる。篠山城下一一ヵ町の一つ。慶長一五年(一六一〇)一月から八上やかみの町家を移して家が建てられたというのは(「篠山旧記御城取立」渋谷家文書)、当町であろう。正保笹山城絵図(内閣文庫蔵)に呉服町とある。正徳年間(一七一一―一六)の高付帳(多紀郷土史考)によれば、南側は一六六間一尺余、北側は一一六間二尺余の両側町で、家数四九のうち役家三二(宿老二)、五人組は九組。西手のひろ小路に通じる門が置かれていた。「丹波志」によれば、呉服町作分二一五石余は沢田さわだ村内六四石余のほか郡家ぐんげ村内にあった。享保七年(一七二二)の軒数五五のうち宿屋八、豆腐屋・油屋・鍛冶屋各三、白銀屋二、酒屋・酢屋・傘屋・茶碗屋・紺屋・糸屋・炭屋各一などで、文政一三年(一八三〇)の家数は五六(軒数間口調)


呉服町
ごふくまち

[現在地名]久留米市城南町じようなんまち中央町ちゆうおうまち

魚屋うおや町の東にあり、北側は両替りようがえ町、南は細工さいく町、東は片原かたはら町に接する。町内は東から上ノ丁・中ノ丁・下ノ丁と続く。元和七年(一六二一)柄巻師丹波屋の先祖は丹波国福知山ふくちやま(現京都府福知山市)から有馬豊氏に従って当町に屋敷地を拝領したという(旧家由緒書)。呉服町下ノ丁と魚屋町境部分の発掘調査では正保二年(一六四五)銘の「高野山□明院」の護摩札が出土。また布子・期日・料金・人名などを記した木簡十数点が出ており、呉服町にちなむ商人の活動を裏付ける(呉服町遺跡)。元禄九年(一六九六)の白石火事で全焼(米府紀事略)


呉服町
ごふくまち

[現在地名]東区伏見ふしみ町四―五丁目

伏見町の西に続く両側町で、心斎橋しんさいばし筋から御堂みどう筋・御霊ごりよう筋を経て渡辺わたなべ筋まで。山城伏見から移ってきた町でもとは伏見呉服町(大坂町之内町名替り候写)といったが、明暦元年(一六五五)の大坂三郷町絵図には呉服町とみえる。なお、当町から伏見町辺りにかつては又一またいち町があった(西区の→瓢箪町。大坂三郷北組に属し、元禄一三年(一七〇〇)三郷水帳寄帳では屋敷数五四・役数六七役で、うち年寄分・会所分各一役が無役。年寄は平野屋与右衛門。宗旨組合は本靭もとうつぼ町に同じ。延享版「難波丸綱目」に越後長岡藩名代・唐和薬種巻物反物問屋仲買・播磨国問屋・諸国塩問屋が各一、謡二、俳諧師一、唐和呉服物仲買のうち呉服仲買・縫物師・田麩屋・呉服・糸屋が載る。


呉服町
ごふくちよう

[現在地名]中央区八重洲やえす一丁目・日本橋一―二丁目

呉服橋から東の日本橋通へ抜ける街路に沿う両側町。北は西河岸にしがし町、南は呉服町新道元大工もとだいく町新道、東はとおり一丁目・同二丁目。町名は徳川氏関東入部以後呉服店が多く立ち(江戸惣鹿子名所大全)、幕府の呉服御用達後藤縫殿助の居宅があったことによる(新撰東京名所図会)。後藤家は徳川家康の三河岡崎おかざき(現愛知県岡崎市)在城以来の呉服師で、代々縫殿助を襲名、幕末まで将軍家や幕府の呉服御用を勤めた(御用達町人由緒など)。承応江戸絵図では「本こふく丁、同二丁目」となっている。安永三年小間附町鑑によれば、京間二四九間一尺五寸五分七厘で公役金を納めた。


呉服町
ごふくまち

[現在地名]長岡市呉服町・おもて町四丁目・坂之上さかのうえ町三丁目・関東かんとう

文化二年(一八〇五)写延宝年中(一六七三―八一)の長岡町割絵図(安禅寺文書)によると、蔵王ざおう方面から南下してきた道が神田かんだ町・関東町を通って当町で西に折れ、表町へと通じる。南側に一七軒、北側に三七軒。元和八年(一六二二)の町割で長岡町一八ヵ町の一(温古之栞)。東は旧家中屋敷にできた観光院かんこういん町と玉蔵院ぎよくぞういん町。正徳二年(一七一二)の町家家数書上(「長岡町御用留抄」新潟市郷土資料館蔵)では表町組に属し家数四八・間数一二九間五尺。


呉服町
ごふくちよう

[現在地名]中区丸の内まるのうち三丁目

七間しちけん町筋の東、片端かたはより花屋はなや町までの南北道路呉服町筋の北端に位置する。きよう町筋からすぎの町筋までの二丁をさす。慶長年間(一五九六―一六一五)清須きよすより移り、旧称を用いた(金鱗九十九之塵)。ただし清須より移転して竹屋たけや町ととなえたのを、元禄年中(一六八八―一七〇四)に改称したとの説もある(尾張志)


呉服町
ごふくちよう

[現在地名]日野町村井むらい 呉服町

ほん町の南に位置する。本町通の南を東西に走るみなみ町通の東端、日野村井町の東南端にあたる。城下町割では南町とみえ、南町通九ヵ町の東端に位置し、正徳五年(一七一五)の三町絵図では町の南側に蒲生家菩提寺信楽しんぎよう院が描かれる。日野商人の持下り商品の一として全国的に知られた日野きれや日野絹などを扱う商人が多くいたといわれ、地名もこれにちなむという。


呉服町
ごふくまち

[現在地名]鹿児島市呉服町など

なか町の南に位置し、東は大黒だいこく町、南は船津ふなつ町、西は山之口馬場やまのくちばば(鹿児島県地誌)。天保城下絵図では中町の南に続く南北の筋に呉服町とあり、途中東に会所かいしよ小路こうじ・船津町の筋、南部から東に菩薩堂ぼさど通が延びる。当町角から少し海岸寄りに箱水と称した箱形の石造り水槽が設けられていた(鹿児島県維新前土木史)


呉服町
ごふくまち

[現在地名]水口町本町ほんまち一丁目

中之なかの町の東、北裏通を挟んだ両側町。南はえびす町、北は古城こじよう山へ緩やかに続く。延宝七年地子赦免帳では居屋敷一五・明屋敷一・番屋敷一・寺一、屋敷地の間口は最大九間二尺・最小三間三尺余。文久二年書上では居家一一・寺一・明家二・明地一・曳山山蔵一・夜番所一、居家の内訳は商家三・百姓七・大工一。


呉服町
ごふくまち

[現在地名]福知山市字呉服

由良川堤防に沿う南北の町筋で、京街道沿いの両側町。城下建設当初からの町で、有馬豊氏時代(慶長―元和)の福智山城之絵図にその名がみえるが、この絵図では上魚屋町かみうおやまち(のちの魚ヶ棚通)までを呉服町とし、その北、職人町しよくにんまち通までを下呉服町と分けて記す。

呉服町は京街道沿いであったため人通りも多く、福知山の町尽し歌にも「通い通いの呉服町」と歌われる。もともと呉服商を定住させた町で、のちにもその名残があったが、京坂各地からの物資集散の問屋が多く、間口も奥行も広く比較的大きな商家が集まっていた。


呉服町
ごふくまち

[現在地名]亀岡市呉服町

よこ町の中ほど、突抜つきぬけ町とは反対に西へ続く東西の町並で、長さ一一八間、西端は南北の町並矢田町やだまちへ続く。天保一二年(一八四一)の「桑下漫録」では戸数五二。


呉服町
ごふくまち

[現在地名]豊橋市呉服町

札木ふだぎ町から大手門おおてもん通を横切って東に続く表町。寛延三年(一七五〇)の吉田二十四町差出帳(橋良文庫蔵)によると高一八石余、戸口は四〇軒・二五六人、うち男一三四・女一二二である。


呉服町
ごふくまち

[現在地名]唐津市呉服町

唐津城大手門と相対し、唐津城築城時の町割でできた。呉服屋が軒を連ねるようにと名付けたという。城下町にとって最も重要な位置を占め、藩政期中頃からの筆頭大町年寄の石崎氏も呉服町に居住していた。

文化年中記録に「一、古来本軒三十四軒、南北一丁二十五間、当時家数人数百五十八人、引合五人組五十三人、内町年寄苗字帯刀御免一人、組頭二人、御肴屋一人、御用船問屋、酒屋四軒、糀屋一軒、薬屋一軒、質屋、寺安楽寺」とある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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