精選版 日本国語大辞典 「堺町」の意味・読み・例文・類語 さかい‐ちょうさかひチャウ【堺町】 東京都中央区日本橋人形町のあたりにあった地名。江戸時代の芝居街で、葺屋町の市村座に対して、中村座があった。葺屋町と共に、二丁町といわれた。さかいまち。 出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報 | 凡例
日本歴史地名大系 「堺町」の解説 堺町さかいちよう 東京都:中央区旧日本橋区地区堺町[現在地名]中央区日本橋人形町(にほんばしにんぎようちよう)三丁目葺屋(ふきや)町の東にあり、北は岩代(いわしろ)町、東は人形町通を経て新和泉(しんいずみ)町、南は堺町横町。東西に続く葺屋町通の両側町。慶長年中(一五九六―一六一五)に開かれ、当時大坂の廻船が多く入津していたことから大坂近傍の名所の名を付したという(東京府志料)。寛永江戸図には吉原(よしわら)(元吉原)の西に「さかい町」とある。当初は上・下の二町であったが、明暦二年(一六五六)の町触(日本橋区史)では上堺町はすでに葺屋町、下堺町は堺町になっている。安永三年小間附町鑑によれば田舎間一一〇間五尺二寸五分、公役金を納めた。名主は大塚松五郎(宝暦七年万世町鑑など)。面積は二千三七六坪余(「寛保沽券図」中央区京橋図書館蔵)。 堺町さかいまち 福岡県:北九州市(旧豊前域)小倉北区小倉城下堺町[現在地名]小倉北区堺町一―二丁目・鍛冶町(かじまち)一―二丁目・魚町(うおまち)二―三丁目鍛冶町の南の筋で、並行して東西に延びる町並。古くは「境町長崎町」の辺りは坂尾(さかお)といわれ、坂尾八幡宮が祀られていたという(倉府俗話伝)。これはのちの円応寺(えんのうじ)筋のこと。また芳水(ほうすい)町とも、二本松(にほんまつ)とも称されたという。一―二丁目にあたる町筋は船場(せんば)町と宝(たから)町四丁目で、三―四丁目は魚町・鳥(とり)町となり、五丁目も西側は鳥町になっている。日帳(永青文庫)の寛永七年(一六三〇)正月二一日条に「さかい町筋せんは」とある。同九年小笠原氏に随従した安坂長兵衛は当町に住み、樽屋と称した(小倉商家由緒記)。 堺町さかいまち 岡山県:津山市津山城下堺町[現在地名]津山市堺町出雲往来に沿って東西に延びる両側町と、往来から南に入った横町からなり、東は京(きよう)町、西は元魚(もとお)町、南は小性(こしよう)町・新魚(しんうお)町、北は二階(にかい)町と城の堀。成立当初は木知(きち)ヶ原(はら)町と称し、正保城絵図には町屋が、万治・元禄の両町絵図に町名がみえるが、時代によって町の位置に若干の異同があったと思われる。万治町絵図には南の横町だけに町名が記されるが、元禄町絵図では西京町の一部が編入されている。 堺町さかいまち 兵庫県:姫路市姫路城下堺町[現在地名]姫路市堺町姫路城東の外曲輪に位置する町人町。上久長(かみきゆうちよう)町の北に続く中堀沿いの南北の町筋で但馬街道が通る。町名は上寺(かみてら)町・竹田(たけだ)町・久長町の三町の境に位置することによるという(大正八年刊「姫路市史」)。慶長六年(一六〇一)の町割で外曲輪の区画内に組込まれる以前に町場化が進んでいたと推察される。元禄八年(一六九五)の材木町材木屋共口上書(穂積家文書)によると、寛永元年(一六二四)姫路城の西に材木(ざいもく)町ができるまで当町と竹田町・生野(いくの)町・橋之(はしの)町・龍野(たつの)町の五町に材木屋が散在していた。天正一三年(一五八五)一〇月一日の某年貢米請取状(芥田文書)、同一五年一〇月二七日の木下家定年貢米割付状(同文書)に「材木町」の名がみえるが、これは慶長六年の裏書がある野里村古地図に載る「才木町」(現在の福本町辺りに記される)で、前掲の龍野町を除く四町辺りをさすと考えられる。 堺町さかいちよう 京都市:下京区稚松学区堺町下京区高倉通五条下ル南北に通る高倉(たかくら)通(旧高倉小路)を挟む両側町。北側は現五条通に面する。平安京の条坊では左京六条四坊二保三町東南隅、同六町西南隅と同五町西北隅にあたり、平安中期以降は楊梅高倉小路の地。当町西側は白河天皇の六条内裏にあたり、「拾芥抄」には「北六条坊門、南六条二町、東(西)洞院、東高倉二町、万寿禅寺是也」と記される。また町の東側には平清盛の祖父正盛邸があった。 堺町さかいまち 北海道:後志支庁小樽市小樽区堺町[現在地名]小樽市堺町・港町(みなとまち)明治初年(同二年八月―同六年の間)より同三二年(一八九九)まで存続した町。オコバチ川の河口部にあたり、南は港町、北は南浜(みなみはま)町など。近世末作製というオタルナイ地図(小樽市立図書館蔵)に堺(タカシマ場所との境)とみえる。明治四年「堺町」を称し、百姓代を改めて町代とする旨の伺書(小樽市史)を出しており、それ以前は「澳発村」であった。同六年の「後志国地誌提要」に堺町とみえ、戸数一六(平民一五・堂一)・人口九三、寄留人口一八。同八年港町立岩(たていわ)付近の埋立により当町の市街化が進められたという。同一一年山田銀行支店創立。 堺町さかいまち 高知県:高知市高知城下下町堺町[現在地名]高知市堺町・帯屋(おびや)町一丁目・はりまや町一丁目下(しも)町のほぼ中央を東西に掘られた縦堀の南側にある通りの両側に沿う。西は郭中(かちゆう)との境の外堀で、東は浦戸(うらど)町。「境町」とも記された。町名は泉州堺の呉服商が来住して成立したことにちなむ。江戸時代中期の「高知風土記」によれば東西九〇間、南北四〇間、家数四九。天保一二年(一八四一)の城下町絵図は、「西サカヒ町」「東堺町」と分けて記す。当町は城下での呉服商いの特権が与えられていたようで、当町以外での商いは原則として認められなかったという。 堺町さかいまち 埼玉県:川越市堺町[現在地名]川越市末広町(すえひろちよう)・三光町(さんこうちよう)松郷(まつごう)の地に成立した町人町。西の野田(のだ)村分との境界に位置し、野田村にもまたがっている。六軒町(ろつけんまち)の西裏の通りと、その後背の通り。かつて鷹部屋があった頃に一〇人ほどの餌差が住んでいたので、餌差(えさし)町ともいったという(風土記稿)。 堺町さかいちよう 京都市:下京区尚徳学区堺町下京区室町通五条下ル二丁目南北に通る室町(むろまち)通(旧室町小路)を挟む両側町。中央を東西に的場(まとば)通が通る。平安京の条坊では、左京六条三坊二保五町東側と三保一二町西側の地。平安時代、当町西半部は六条右大臣源顕房の邸宅、東半部は藤原信家の邸宅六条中院にあたっていた(拾芥抄)。寛永一四年(一六三七)洛中絵図には「堺丁」とみえ、それ以降町名変更はない。ただ寛文五年(一六六五)刊「京雀」には、当町の南隣として「下(しも)さかひ町」がみえているが、関係は不明。 堺町さかいちよう 京都市:下京区植柳学区堺町下京区西中筋通花屋町下ル南北に通る西中筋(にしなかすじ)通(堀川通)に西面する片側町。平安京の条坊では、左京七条二坊四保一〇町の地。「本朝世紀」仁平二年(一一五二)二月五日条には、「子剋、佐牝牛油小路東西有焼亡」と当町付近の火事が記される。近世には西本願寺寺内町となり、寺内九町組のうち住吉組に所属。「客屋十二町」の一つでもあった。町名は寛永一四年(一六三七)洛中絵図に「にし中筋二丁目」とあるが、宝暦一二年(一七六二)刊「京町鑑」には「堺町」の名がみえる。 堺町さかいまち 兵庫県:伊丹市伊丹郷町堺町[現在地名]伊丹市伊丹三丁目・同五丁目伊丹町を構成する二七ヵ町の一つ。大手(おおて)町の南に位置し、有岡(ありおか)城下時代は侍町の南縁にあたる。境町とも(「正心調法記」武田家文書)。天和―元禄年間(一六八一―一七〇四)までに成立(文禄伊丹之図)。ハセントウ坂(長谷堂坂・破戦道坂)を通って下市場(しもいちば)村へ続く道筋の両側にあった。 堺町さかいまち 愛知県:名古屋市中区堺町[現在地名]中区上前津(かみまえづ)一丁目裏門前(うらもんぜん)町の南に位置し、功徳(くどく)院・竜雲(りよううん)寺・首題(しゆだい)寺の各門前からなる町。日置(ひおき)村と前津小林(まえづこばやし)村との境にあるため名付けられる(金鱗九十九之塵)。 堺町さかいちよう 奈良県:大和郡山市郡山城下堺町[現在地名]大和郡山市堺町天正一六年(一五八八)の郡山惣町分日記(春岳院文書)にみえる内町(箱本)一三町のうち。豊臣秀長が郡山城下繁栄策のため和泉国堺町から商人らを集めて町をつくらせたともいう。 堺町さかいちよう 富山県:滑川市滑川町堺町[現在地名]滑川市加島町(かしまちよう)北陸街道の南に位置し、東は南(みなみ)町、西は領家(りようけ)村、北は西(にし)町。弘化二年(一八四五)一二月に高波によって山王(さんのう)町の三三軒が倒壊したので、翌三年に南にあった田地を開いて移住し、堺町と名付けたと伝える(滑川町誌)。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
日本大百科全書(ニッポニカ) 「堺町」の意味・わかりやすい解説 堺町さかいちょう 東京都中央区北東部、日本橋人形町(にほんばしにんぎょうちょう)3丁目あたりの旧地名。寛永(かんえい)(1624~1644)のころ、堺町から葺屋(ふきや)町(現、日本橋人形町3丁目あたり)にかけて芝居小屋ができ、1842年(天保13)、猿若(さるわか)町(現、浅草6丁目)に移転するまで芝居の町として繁栄した。当時、土産(みやげ)として人形を売ったことから人形町とよばれるようになった。[沢田 清] 出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例