東百間町・西百間町(読み)ひがしひやつけんまち・にしひやつけんまち

日本歴史地名大系 「東百間町・西百間町」の解説

東百間町・西百間町
ひがしひやつけんまち・にしひやつけんまち

[現在地名]高松市百間町ひやつけんまち通町とおりまち

高松城南の町人町片原かたはら町の一本南の通りに面した両側町で、両町併せて東西約二〇〇間・南北約四〇間(天保一五年城下図)。生駒氏時代屋敷割図ではこの町区を「百間町」とする。高松城下図屏風には通りの両側で五〇軒余の町家を描き、愛行あいぎよう華下はなした天満宮片原町から西百間町東端にまたがっている。天明年間(一七八一―八九)までに東半の二区画約一〇〇間を東百間町、西半の二区画約一〇〇間を西百間町とよぶようになった(天明年間城下図・御領分明細記)町名の由来は町内に一〇〇軒の家があったためとする説もあるが、おそらく東・西各一〇〇間あったことによるものであろう。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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