松倉勝家(読み)まつくらかついえ

日本大百科全書(ニッポニカ) 「松倉勝家」の意味・わかりやすい解説

松倉勝家
まつくらかついえ
(1597―1638)

江戸初期の大名肥前長崎県島原4万石の藩主、長門守(ながとのかみ)。重政(しげまさ)の養子。1631年(寛永8)家を継ぐ。同年領内私検地を完了し、表高の2.34倍に上る内検高を得た。その前の有馬氏時代、1607年(慶長12)の慶長(けいちょう)内検高は表高の7割増と推定されるから、勝家の農民に対する強い収奪姿勢がうかがわれる。35年から続いた凶作のなかで37年10月下旬島原の乱が勃発(ぼっぱつ)した。一揆(いっき)は翌年2月上使松平信綱以下諸大名軍によって鎮圧されたが、勝家はその責任者として4月12日所領を没収され、加えて悪政を問われて7月19日死刑、同家は絶えた。

中村 質]

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朝日日本歴史人物事典 「松倉勝家」の解説

松倉勝家

没年:寛永15.7.19(1638.8.28)
生年:慶長2(1597)
江戸初期の大名。肥前国島原藩(長崎県島原市)藩主。長門守。従五位下。松倉重政嫡子。寛永8(1631)年遺領を継ぐ。父の政策を引き継ぎ,キリシタン弾圧,公儀普請役の負担による過重な年貢賦課など,苛政をしいた。同14年領内で島原の乱が勃発,在江戸であった勝家は急ぎ帰国して鎮圧に当たった。原城陥落後に所領を没収され,森長継に預けられたのち,島原での悪政が露見して斬首となった。勝家の処刑は,民衆の抵抗の結果,悪しき為政者が処罰された例としての意義があろう。<参考文献>煎本増夫『島原の乱』

(福田千鶴)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「松倉勝家」の解説

松倉勝家 まつくら-かついえ

1597-1638 江戸時代前期の大名。
慶長2年生まれ。松倉重政(しげまさ)の子。寛永8年肥前島原藩(長崎県)藩主松倉家2代となる。父の代からのキリシタン弾圧や過酷な徴税によって,14年島原の乱がおきた。乱後,所領を没収され,寛永15年7月19日斬罪(ざんざい)となった。42歳。名は重次

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世界大百科事典(旧版)内の松倉勝家の言及

【島原の乱】より

…10月25日島原半島南部に端を発した一揆は,翌26日島原城を猛攻して落城の危機に追い込んだ。藩では急を参府中の藩主松倉勝家に報ずるとともに,近隣諸藩に救援を求めた。しかし諸藩は幕府の指示を待って動かず,一揆は4万石の藩全域に及んだ。…

【松倉重政】より

…戦国・江戸初期の武将。通称九十郎,豊後守。はじめ筒井定次,のち豊臣秀吉,さらに徳川家康に仕え,関ヶ原の戦の功により大和国五条で1万石。大坂の陣の功により1616年(元和2)肥前日野江4万石に移封。旧主有馬氏の日野江,原の両城を廃して島原城を新築した。総検地,1630年(寛永7)ルソン攻略の偵察船派遣,厳しいキリシタン検索などが,子勝家襲封直後の島原の乱のおもな一因をなした。【中村 質】…

※「松倉勝家」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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