日本歴史地名大系 「松門寺村」の解説 松門寺村しようもんじむら 福岡県:浮羽郡田主丸町松門寺村[現在地名]田主丸町常盤(ときわ)美津留(みつる)川左岸に位置する。上三郡絵図によると、屋敷地は印若(いんにやく)淵(長さ一〇六間・幅一〇間)の西側にあり、耕地は屋敷地の東西に広がり、西小田(にしおだ)村・松原(まつわら)村分などと入組む。印若淵から吉田(よしだ)溝(現雲雀川)が分岐し、その北方からは観音(かんのん)津留溝が分岐する。建仁元年(一二〇一)の高良宮造営田数注文に竹野(たかの)郡内「松門寺五十町」がみえ、高良(こうら)社(現久留米市)の諸小社のうち左右御坂本南方一宇造営用途を課せられている。正応四年(一二九一)一〇月日の宇都宮尊覚のものとみられる給地覚(宇都宮文書/鎌倉遺文二三)に「竹野東松門南」とあり、当地にあたると考えられる。豊前宇都宮氏の所領となっていたが、南北朝期に松門寺内の菅大輔房跡一〇町の一部が少弐氏の被官饗庭中務丞に与えられ、貞和四年(一三四八)七月一〇日には同地の地頭職などが鎮西管領一色道猷(範氏)によって宇都宮因幡権守(公景)に勲功の賞として宛行われた(「一色道猷宛行状」佐田文書/南北朝遺文(九州編)三)。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by