吉田村
よしだむら
[現在地名]大和町吉田
山形県側に山頂のある船形山の下、蛇ヶ岳(一四〇〇メートル)・三峰山(一四一七・六メートル)を西境とした大部分山岳丘陵の地。北部を東は大松沢丘陵、南部は東南に七北田丘陵が延びる。西境の急峻な峰々からの沢水は、北部を東流して升沢川・荒川・鳴瀬川となる。西南境の北泉ヶ岳(一二五三・一メートル)・高倉山(八五四・五メートル)からの渓流は、東流して吉田川となる。平地は吉田川沿いに中央部以東にわずかにみられる。村内に七ッ森のうち遂倉山(別名尖頭森)・鎌倉山(別名鎌索森)・鉢倉山(別名蜂倉山・飛蜂森)・大倉山(別名大倉森)の四峰が西北西から連なって、東南東宮床村の撫倉山・松倉山に並ぶ。道は吉岡から升沢と、吉岡から朴沢(現泉市)への二筋がある。西は出羽国最上境、北は加美郡色麻村(現色麻町)・大瓜村(現大衡村)、南は朴沢、東は今村、富谷村(現富谷町)。文和二年(一三五三)正月日の和賀義綱代野田六郎左衛門尉着到状(鬼柳文書)によると、観応の擾乱にあたり北畠顕信の子中院守親が神山・相馬両氏らとともに「黒河郡吉田城」に拠って吉良貞経方の和賀氏と戦っている。この吉田城は、「安永風土記」に文永年中(一二六四―七五)まで入生田右京丞がいたとある麓館のことと思われる。
吉田村
よしだむら
[現在地名]水巻町吉田西一―五丁目・吉田東一―五丁目・吉田団地・吉田南一―五丁目・宮尾台・美吉野・鯉口など
下二村・頃末村の東、曲川下流右岸の平野部にあり、東部は丘陵地。北東から東は折尾村・則松村・永犬丸村(現北九州市八幡西区)、南は岩瀬村(現中間市)。集落は本村のほか片山・鯉口・車返があり(続風土記拾遺)、「地理全誌」では宮ノ尾(宮尾)・御輪地(「おわじ」とも)もみえる。中世の吉田乙丸名を当地一帯に比定する説もある。小早川時代の指出前之帳では則松村のうちに含まれて高付されているが、江戸時代初期に同村から分村したとみられる(増補水巻町誌)。慶長石高帳に村名が載り、慶長七年(一六〇二)の検地高二七九石余、うち大豆五九石余。元禄五年(一六九二)には高七一四石余・反別七七町二反余、家数五一・社一・寺一、人数三五九(田圃志)。石高書上帳案の郡帳高も七一四石余。寛政期(一七八九―一八〇一)の家数一〇四(うち酒家一・麹家一)・人数四一九、馬一九・牛五二(別本「続風土記附録」)。
吉田村
よしだむら
[現在地名]安来市上吉田町・下吉田町
鳥木村・大塚村の西に位置し、吉田川の源流地帯を占める。北は柿谷村・飯生村などに接し、飯生村との境に独松山(三二〇・六メートル)がそびえる。吉田川は地内の竹が曾根(三一七・七メートル)・中谷山(一五二メートル)・要害山(一三一メートル)・無名山(一一四メートル)などから水を集めて北流する。当地一帯は「出雲国風土記」意宇郡、「和名抄」能義郡にみえる山国郷に属したとみられ、風土記が記す新造院があったと考えられている。中世には吉田庄が成立しており、永禄一〇年(一五六七)七月には「吉田村之内五百貫地」が天野隆重に与えられている(同月二四日「毛利元就・同輝元連署状」閥閲録)。なお毛利家臣馬来氏の家譜(同書)には明徳二年(一三九一)山名氏清謀反に際しての富田城(現広瀬町)攻めのとき、馬来氏綱(満綱)が吉田村で討死し、彼地(吉田村)に墓所があると記される。
正保国絵図に村名がみえ、明暦二年(一六五六)の検地帳によると、田一〇四町三反余・分米一千二一三石余、畑一三町八反余・分米七一石余、屋敷数四七(うち三五は御役目屋敷)。
吉田村
きつたむら
[現在地名]関市吉田町・出来町・西町・吉本町・本郷町・観音山・西門前町・東門前町・観音前・長谷寺町・美園町・長住町・大門町・花園町・大平町・天王町・朝日町・旭ヶ丘・西旭ヶ丘・仲町・吉野町・東町一―五丁目・東野町・宮地町・円保通一―三丁目・東本郷通一―六丁目・東本郷・西本郷・西本郷通四―七丁目・黒屋・塔ノ洞・美和町・東山二丁目など
津保川の北部に位置し、西は関村・下有知村。武儀郡に属する。観音山の南東に本郷があり、南麓を津保街道が通る。その南側に新長谷寺があって、門前は大門町などの町場を形成。観音山北側の吉田沖の田を隔てた北部の山麓に黒屋・塔ノ洞の集落がある。黒屋にある中池は養老年間(七一七―七二四)に泰澄が築造したといい、神亀年間(七二四―七二九)吉知須等が聖武天皇から吉田の姓を賜り、当村を開いたと伝える。
吉田村
よしだむら
[現在地名]下関市大字吉田・大字吉田地方
現下関市の最東部にあたり、村の西側を木屋川が南流する。北東は厚保(現美祢市)、北西は轡井・下保木・下大野(現豊浦郡菊川町)、南は宇津井の各村と接する山村。村内を駒辻川・貞恒川が流れ、流域に集落が点在する。厚狭郡の萩藩領で吉田宰判に属する。
「和名抄」厚狭郡に「良田郷」とみえ、「与之多」と訓じていることから、この吉田村辺りが比定されている。享禄二年(一五二九)三月の大内義隆安堵状(西福寺文書)に「厚狭郡吉田庄西福寺事」とみえる。永禄三年(一五六〇)二月一三日付の氷上山興隆寺文書(「寺社証文」所収)に
<資料は省略されています>
とみえ、「吉田郡」は興隆寺(現山口市)修二月会の三頭役を務めている。
慶長五年(一六〇〇)の検地帳に「吉田村」とみえ、同一五年の検地帳によれば、総石高五千一九三石余、うち田面積一九六町余で石高三千一四二石余、畠面積五九町余で石高二三〇石余、百姓屋敷二〇九、市屋敷四八であった。
吉田村
よしたむら
[現在地名]東大阪市吉田一―九丁目・吉田〈春日・島之内・札場・北池ノ端・船場・南池ノ端〉・吉田・松原南一丁目・花園本町一丁目・花園東町一―二丁目
河内郡に属し、北は中新開村・松原村。大和川付替えで村内を流れていた吉田川の水量が減少し、宝永二年(一七〇五)以降川床に川中新田が開発されたため、村域は二分された。吉田川の自然堤防上に位置し、平坦であるが土質は砂が多く、荒地が多かった。東部は寛永年間(一六二四―四四)に大和小泉藩主片桐貞昌が池を埋め、東方を流れていた恩智川の流れを通して開いたという(大阪府全志)。文政一三年(一八三〇)の村明細帳(志村家文書)によると吉田川左岸の内野分と右岸外野分に分れていた。内野分は条里制の里を示す吉・荒の字名がつけられ、内野吉三十一のように坪数でよばれた。外野分には条里制に関係すると思われる地名はなく、外野花屋敷などがある。また二千余石の大村であったので、本郷の辻間辻・小路辻・市場辻と、分郷の新家辻・艮辻・下島辻に分れていた(大阪府全志)。
吉田村
よしだむら
[現在地名]名取市高館吉田
高館丘陵の北東麓、西部山間から東流する増田川(青熊川)が平野へ流れ出る出口北岸にある。北は熊野堂村、南・西は川上村に接する。南北に東海道が通る。貞治三年(一三六四)七月二五日の沙弥永
寄進状(名取熊野堂文書)に「吉田郷」とみえ、郷内堀内水上屋敷が天満大自在天神に寄進されている。同屋敷畠五反は応安七年(一三七四)九月二九日に藤原朝春からやはり天満大自在天神へと寄せられ(「藤原朝春寄進状」同文書)、貞治五年には吉田郷南河内又太郎名内塚田副二段田が、熊野堂の七月御八講料所として寄進された(同年一一月一五日「平親貞寄進状」同文書)。大永三年(一五二三)一二月二二日の伊達稙宗安堵状(伊達家文書)によれば、高橋彦次郎よりの買地である吉田の内かうのめんの畠四貫、南河内の田六〇〇苅、馬場彦七よりの買地である吉田のうち札たてばの田五段が福田備後守に安堵されている。翌四年一二月二五日付で、佐藤信濃守よりの買地である吉田郷内ちやうろく田の年貢五貫文の所がせうしへ安堵された(「伊達稙宗安堵状案」同文書)。
吉田村
よしだむら
[現在地名]吉井町上吉田免・田原免・橋川内免・橋口免・春明免・踊瀬免・吉元免・大渡免・立石免・前岳免・高峰免・下原免・乙石尾免
現吉井町域の南部に位置し、佐々川が流れる。右岸の牧ノ岳、左岸の韮岳・五蔵岳など山地が連なる。文明年間(一四六九―八七)松浦豊久の四男貞久が大野右馬助に入嗣して当地を領したという(壺陽録)。上吉田免に鎮座する春日神社は長享三年(一四八九)に宝殿を再建、田原免の鳥屋山古川庵(現古川寺)は天文年間(一五三二―五五)の開創と伝える。田原免に吉田氏の居城という吉田城があったとされ、馬場崎・鍛冶屋・上屋敷・古屋敷などの地名がある。吉田山正平寺(現廃寺)に開基吉田豊前守の位牌があったとされるが、同氏は奈良春日社の分霊を奉じて肥前国に来住したと伝える。
吉田村
よしだむら
[現在地名]吉田町吉田・新田町・新町・上町・中町・下町・大保町・松岡町・学校町・東町・旭町一―四丁目・堤町・栄町・東栄町・水道町・日之出町・春日町
北は本所村、西は西川を境に浜首村。応永一三年(一四〇六)一一月二〇日の山城等持院への上杉常越(房方)寄進状案(等持院文書)に「越後国蒲原郡内吉田保」とみえる。天正五年(一五七七)の三条衆給分帳(市川浩一郎氏蔵)には「山吉玄蕃知行 吉田之内三条之内 境村宮の浦」とあり、合計四二貫九二〇文が記される。
元和四年(一六一八)の長岡藩知行目録は高七八九石七斗余、正保国絵図は八六四石余。江戸時代を通して長岡藩領。慶安二年(一六四九)と寛文年間(一六六一―七三)の検地で村高は九二〇石二斗(本途八八三石七斗・新田三六石四斗)、畑三八石七斗(大島)、下畑三〇石六斗(大島)、下田二三石三斗(見対)となった。
吉田村
よしたむら
[現在地名]田鶴浜町吉田
鹿島郡と羽咋郡を境する山峰の麓に位置する。古くからの山峰道である峨山道に連なる赤蔵山・城山は、奈良時代は軍事・交通上の要所であったという。村内を流れる吉田川は東隣下村で二宮川に合流する。赤蔵山東麓に縄文時代前期の吉田野寺遺跡、集落背後の尾根上には弥生時代後期の墳丘墓群吉田経塚山遺跡があり、古くから開かれた地域であった。
承久三年(一二二一)九月六日の能登国田数注文に吉田保がみえ、同元年の国衙の検注で公田数が五町二段三(もと五町七段九)と定められたとある。吉田保は、田数注文の鹿島郡での配列順から現吉田・西下一帯に比定される。「三州志」は、天正五年(一五七七)七月能登畠山被官の加治主殿が、鹿島郡の「吉田坂」で越後上杉方の轡田肥後・唐人式部介勢の不意打ちにあい、自刃したと伝える。
吉田村
よしだむら
[現在地名]水戸市元吉田町・朝日町・宮内町・元台町
水戸城下の南、千波湖を隔てた東茨城台地上にあり、東は浜田村・古宿村。村内を陸前浜街道が南北に通る。縄文時代中期の吉田貝塚を含む吉田遺跡・安楽寺遺跡・大鋸町遺跡、弥生時代の吉田遺跡・お下屋敷遺跡・薬王院東遺跡・大鋸町遺跡、古墳時代の吉田古墳群・お下屋敷遺跡があり、また奈良・平安時代の遺跡としてお下屋敷遺跡・横宿遺跡がある。
大宝元年(七〇一)から和銅三年(七一〇)と推定される藤原宮出土木簡に「□
□□大
真目 仲郡吉田里人」とあり、天平勝宝四年(七五二)の白布墨書(正倉院御物)に「常陸国那珂郡吉田郷戸主君子部忍麻呂戸君子部真石調布壱端」とある。
吉田村
よしだむら
[現在地名]吉田町吉田
可愛川に多治比川が流れ込む辺りの沖積地に位置し、東は下小原村(現甲田町)、北方は相合・山部の両村に接する。高田郡の中心で「芸藩通志」に「此村、当郡の郡本なり、商家四百余戸、市聚をなし、三次往還の伝舎あり、昔毛利元就、この地に城居せり、今広廿五町、袤十七町、東北山多、北尤高し、これを郡山とす、即元就の城墟なり、西は稍ひらけ、南は大川にて川そひ皆平田なり、小川一流、北より来り村中を通る、民産・農商相半す、又山業或は駄送などなして、浮得とす、其余諸貨相集りて当郡第一の町なり」とある。平安時代に成立した京都祇園社領の吉田庄中心の地で、その地頭職を有した毛利氏が、時親のとき延元元年(一三三六)に下向、以後一族がこの地に郡山城を築いて居城した。
元和五年(一六一九)の安芸国知行帳では、吉田村一四一二・五八八石、吉田十日市村二五・五一五石、祇園八幡領村一三八・六七石、光善寺村一〇九・五四八石の四村に分けて記すが、正徳二年(一七一二)の「所務役人頭庄屋郡邑受方記」では、吉田村・吉田十日市村に、付近の相合・山部の両村のうちに分割併合された祇園八幡領村・光善寺村を合わせて、一千八五〇石七斗八升とされる。
吉田村
よしだむら
[現在地名]吉田村吉田村・吉田町
吉田川流域に位置し、東は深野村・曾木村、仁多郡上阿井村(現仁多町)、西は民谷村・民谷宇山村、掛合村(現掛合町)、南は備後国恵蘇郡和南原村(現広島県高野町)、北は六重村・中野村(現三刀屋町)。近世以前は大吉田・川尻・菅谷・梅木・杉戸の五ヵ村があったが、江戸期に入って吉田村となったという(郡村誌)。吉田川に北流する大吉田川が合流する一帯に吉田町が形成されていた。正保国絵図に村名がみえ、明暦三年(一六五七)の吉田村御検地帳が残る。元禄十年出雲国郷帳では高一千四〇九石余で、寛文四年(一六六四)の本田高一千二二四石余・新田高五二石余。
吉田村
よしだむら
[現在地名]土成町吉田
板野郡の西端、阿讃山脈南麓の宮川内谷川の扇状地に位置。北・東は宮河内村、南は西条村・阿波郡柿原村(現吉野町)で、境を撫養街道が東西に通る。西は阿波郡土成村。もとは原田村と称し、元禄元年(一六八八)に吉田村に改称したという(阿波志)。慶長期(一五九六―一六一五)のものと推定される国絵図に原田とみえる。同二年の分限帳によると一〇五石余が吉原次右衛門、一〇〇石が内藤甚右衛門の知行。正保国絵図では高二〇六石余。寛文四年(一六六四)の郷村高辻帳では田方七七石余・畠方一二九石余、日損・芝山の注記がある。天和二年(一六八二)の富田藩領地方帳によると富田藩の家臣領二石余があり、物成九斗余、請納升四ツ五分成。正徳五年(一七一五)の夫役帳(板野郡誌)では吉田村として人数一五八、夫役三一人六分。
吉田村
よしだむら
[現在地名]峰町吉田
三根村の南、賀佐村の北東にあり、三根浦の枝浦である深い吉田浦に吉田川が注ぐ。東に敬平山、南に黒隈山、北東に白椿山がある。南西の年越峠は八割峠とも称され、江戸時代の三根郷などの上四郷と仁位郷などの下四郷を分ける峠の意という。「津島紀略」は与志多と訓じ、旧名は朽木(久都幾)と記す。朽木は中世よりみえる。村名の改称は寛永期(一六二四―四四)という(津島紀事)。弥生時代より古墳時代に及ぶ石棺群や祭祀遺跡がある。吉田浦の南岸にある火立隈は烽の跡とされる。川下の田地は近世の開発で、それ以前は葦の生える潮田とみられ、中世は塩田が営まれていたと想定される。「郡方毎日記」寛永一五年条に「よし頭」とみえる。
吉田村
よしだむら
[現在地名]左京区吉田〈泉殿町・牛ノ宮町・神楽岡町・上阿達町・上大路町・河原町・近衛町・下阿達町・下大路町・橘町・中阿達町・中大路町・二本松町・本町〉
東は浄土寺村と神楽岡で接し、西は鴨川。北は白川・田中、南は岡崎・聖護院の各村と接する。神楽岡の西側に展開する。
吉田村の名は「中右記」天仁元年(一一〇八)一〇月三日条に禊をする地を述べた中で「件知土風者召前庭、問郷名、愛宕郡錦織郷吉田村者布衣冠」とみえ、錦織郷に属していたことが知れる。
村内神楽岡には、吉田神社が貞観年中(八五九―八七七)に建立された。
吉田村
よしだむら
[現在地名]戸塚区吉田町
東は舞岡村、南は上倉田村、西は戸塚宿・矢部村、北は上矢部村に接する。東西に通る東海道沿いに人家が並び、一里塚がある。柏尾川が矢部村境を流れ、東海道に板橋の大橋が架かり、鎌倉道が大橋より分れて柏尾川堤上を経て上倉田村に通じる。舞岡村から東海道を横切り北流して柏尾川に注ぐ舞岡川の東海道に土橋の五大夫ユウ橋が架かる。なお「風土記稿」によると、村内の小名に布施がある。
嘉元四年(一三〇六)九月二七日の崇演(北条貞時)寄進状(県史二)では「山内庄吉田郷内田壱町・在家壱□伊与局上表跡」が、鎌倉正観寺前の地と交換に鎌倉円覚寺に寄進されたが、徳治三年(一三〇八)七月二七日の崇演書状(同書)で再び正観寺前の地に替わっている。小田原衆所領役帳に富島「五拾貫文 東郡吉田郷」とある。
吉田村
よしだむら
[現在地名]和気町吉田
金剛川と八塔寺川の合流点の北西にあり、東は吉永中村(現吉永町)、西は藤野村。古代山陽道が東西に通ったとされ(備陽国誌)、当地飼葉付近に藤野駅が置かれていたとする説がある。慶長一八年(一六一三)の和気郡御勘定帳に村名がみえ、物成二七三石余、夫米一六石余。寛永備前国絵図によれば高六五四石余。正保郷帳に枝村として鬩村・地光寺村が、「備前記」には働・奴久谷が記される。「吉備温故秘録」によると鬩は働の、地光寺は奴久谷の古名であるという。「備陽記」によると、本村は田畑三七町二反余、家数六五・人数四五七、池一。北方の働は田畑二五町余、家数四六・人数二六〇、池五。
吉田村
よしだむら
[現在地名]港北区新吉田町・綱島西四―五丁目
都筑郡に属し、東は早淵川を隔てて橘樹郡綱島村、南は鶴見川を隔てて同郡太尾村、西は新羽村、北西は大棚村、北は早淵川を隔てて山田村・高田村に接する。中央より南の平地を表吉田とよび、北の台地を裏吉田とよぶという(風土記稿)。嘉禄三年(一二二七)二月一二日の越後房覚意宛の将軍藤原頼経袖判下文(県史一)に「武蔵国吉田郷」とみえ、所職・所帯が安堵されている。
天和二年(一六八二)旗本大久保・小野・朝倉・彦坂・小長谷領と幕府直轄領の六給。
吉田村
よしだむら
[現在地名]櫛形町吉田
上今井村の南、御勅使川扇状地の扇央に立地し、原方に属する。北西部を戸田街道が通る。「一蓮寺過去帳」によれば、永享(一四二九―四一)頃と推定される一月二九日供養の守阿弥陀仏などに「吉田」と注記されるが、当地のことか。天正一一年(一五八三)四月一七日の徳川家康印判状写(中巨摩郡志)に「甲州中野・平岡・吉田郷桃曾根内五貫五百文」とみえ、中込次郎左衛門尉は徳川家康より本領として安堵されている。
村域は南北一一町・東西二〇町(元文五年「村明細帳」小笠原高雄家文書)。西隣の十五所村とその北の沢登村は、幕府へ提出した郷帳では当村枝郷として扱われており、高も当村に含まれた。慶長古高帳に村名がみえ高五五一石余、幕府領、ほかに大明神(現諏訪神社)領三石九斗余。
吉田村
よしだむら
[現在地名]宗像市吉田
田島川(現釣川)下流の右岸に位置する村で、北は江口村。丘陵地が多く、耕作地は主として同川ならびにその支流である樽見川沿岸域に展開する。田島川沿いに当村のうちの川端村がある(元禄国絵図など)。「応安神事次第」甲本の五月四日の浪折社の祭事に「吉田神人等 是ハ伊摩社神人」とある。同日には伊摩社の祭事も行われており、「如浪折社」とある。同社は字安入寺の伊摩社に比定され、神人は鎮座地の地名から吉田神人とされたのであろう。文治二年(一一八六)七月、隼人佑中原某が宗像郡田野別符要名内のうち三段を伊摩大明神毎月朔日仁王講供免田にしている(「隼人佑中原某下文」宗像大社所蔵文書/鎌倉遺文一)。
吉田村
よしだむら
[現在地名]御坊市藤田町吉田
白馬山脈の南麓から八幡山と道成寺(現日高郡川辺町)の間の谷を下って日高川右岸に至る南北に長い村。南は小松原村、西は上富安・下富安両村に隣接。下富安の善童子王子から東に入った熊野街道が当村西南端を通って小松原宿へ向かう。もと矢田庄(日高郡川辺町の→矢田庄)に属し、辺見氏一族の吉田蔵人頼秀が領したと伝え、頼秀が道成寺へ寄進した正平一四年(一三五九)在銘の梵鐘(後に改鋳)は現在京都妙満寺に残る。天授四年(一三七八)頼秀の三男金比羅丸は道成寺再建に尽力、寄進の鬼瓦も道成寺に現存。八幡山には吉田蔵人築城という八幡山城跡がある。
吉田村
よしだむら
[現在地名]志摩町吉田
東に宮地岳、西に火山の山塊があり、その丘陵端に挟まれる。南は井田原村、北は桜井村、西は野北村。天正一九年(一五九一)三月二三日の志摩郡惣田数付(朱雀家文書)によれば田五七町三段余・畠一五町五段余。小早川時代の指出前之帳によると田六一町三反余(分米九九七石余)・畠三五町四反余(分大豆二二七石余)。慶長三年(一五九八)分の志摩郡物成帳(朱雀家文書)では高一千二二五石余、物成五九九石余(うち大豆一五八石余)。うち定物成四二八石余・御免し(免除)分一七〇石余。同七年の検地高一千四八四石余、うち大豆二七八石余(慶長石高帳)。
吉田村
よしだむら
[現在地名]上田市大字芳田
烏帽子岳の西に続く殿城山の南西麓一帯の村。東は栗林・東田沢(現小県郡東部町)の両村、西は林之郷、南は上深井村(現小県郡東部町)大屋・上青木の両村、北は小井田村に境を接する。山麓を北より南へ吉田堰が通り、その西を大屋と矢沢を結ぶ道が通り、東西に禰津道が通り、集落は大別して中吉田と下吉田がある。
永禄八年(一五六五)一一月の武田信玄の諏訪社上社造営再興次第(諏訪大社上社文書)に、大宮御門屋之造宮領、海野・真田・矢沢・禰津四ヵ郷のうち「海野之分、正物合、三俵七升六合田数仁町六段半東上田之分(中略)、正物八俵六升四合田数六町四段半吉田之分」として、東上田・小井田・林(林之郷)・
戸(漆戸)などとともに、造宮料を課せられている。
吉田村
よしだむら
[現在地名]三条市吉田
如法寺村の南、嵐南東山丘陵に沿い、南は長嶺村と接する。月岡から見附へ通じる旧道の東側、西明寺西側の地は館ノ入とよばれ、中世土豪の館があった所と伝える。西明寺の背後の小山は「デンジョウ」とよばれ、三条方面が見渡せるところから見張台に使われていた場所とみられる。このほか「馬場」「ウランキド」(裏木戸)という小字名も残る。天正五年(一五七七)の三条衆給分帳(市川浩一郎氏蔵)に、椎野彦七郎分として「三条吉田村」が記される。なお応永三三年(一四二六)七月一九日の和田氏宛上杉頼藤安堵状写(山形大学所蔵中条家文書)に「大面庄之内吉田跡」とあり、当地にかかわるか。西明寺の開基は吉田氏と伝えられ、三条衆給分帳によれば吉田善兵衛が大面庄内に給分を与えられている。
吉田村
よしだむら
[現在地名]山口市大字吉田
姫山から南に延びた標高一〇〇メートル余の山沿い西側の集落で、東は問田、西は平井、南は恒富の各村に接する。山口町より一里余。山口宰判所属。
昭和四一年(一九六六)縄文晩期から古墳時代にかけての住居跡が発見され、この地に古代村落のあったことが確認された。氏神の平清水八幡宮は鎌倉時代以前に鎮座していたとも伝える。同社の徳治三年(一三〇八)の神主職譲状(平清水八幡宮所蔵)に「恒富保平清水八幡宮並吉田村田諸社神主職事云々」とある。また廃寺高蔵寺の応永二一年(一四一四)の鐘銘には「周防国吉敷郡恒富保吉田郷高蔵寺」(注進案)とあり、吉田は中世を通じて恒富保の一部であったらしい。
吉田村
よしたむら
[現在地名]川西町吉田
最上川南岸にあり、北から西は高山村、東は下平柳村に接する。鎌倉時代末期から南北朝期の浄土真宗の僧、存覚の「袖日記」に「長井吉田」とある。永正八年(一五一一)七月五日の牛越又七宛の伊達稙宗安堵状案(伊達家文書)では「長井吉田の郷之内大原新左衛門在家」が安堵されている。その後、南・北に二分されたと思われ、天文三年(一五三四)四月一〇日の伊達稙宗安堵状案(同文書)では「下長井之庄吉田北方之内、彦八在家、年貢一貫五百文」とある。同七年の段銭古帳では「下長井白川より南」のうちに南吉田・北吉田があり、本段銭はいずれも二七貫五〇〇文で、南吉田は二貫一二五文が引かれている。同二二年の晴宗公采地下賜録によれば、吉田南方では小簗川尾張守が公領を除いた分とその総成敗権を下賜されている。
吉田村
よしだむら
[現在地名]草津市志那町
大萱村の西、下笠村の北に位置。南東部を中ノ井川が流れる。西接する志那村と当村の旗本領分は志那吉田村として把握された。当村・志那村・志那中村は志那三郷と称して一括された。当地は栗太郡条里の六条一三里・一四里にあたるとされ、伊吹里辺りに集落が立地、ほかは水田であった。条里遺称として三六坪までの数詞坪地名が残る貴重な地域で、里の北東隅に始まり南西隅に終わる並行式の坪並であることが知られたが、圃場整備に伴い一部を残すのみとなった。元亀三年(一五七二)志那三郷惣代は一向一揆に内通しない旨の起請文を出している(→草津市)。天正一九年(一五九一)閏一月二一日の志那之内吉田村検地帳写(吉田文書)によれば、高六二六石余、名請人数一七九・屋敷持一六、所持高は一―三石が最も多い。
吉田村
よしだむら
[現在地名]久井町吉田
宇根山(六九八・八メートル)の南に位置する。芦田川の支流御調川(久井川)の水源の一つが宇根山に発して村の西部を西南流、流域に寺谷・石丸谷・吉光谷・大平谷などを形成して西の江木村に至る。南部の行広谷などの谷から流れ出る野間川は南に接する野間村(現御調町)へ流れる。村の西部、御調川南側丘陵に清兼古墳、北側丘陵に長迫古墳(二基)がある。中世には杭庄に属し、慶長三年(一五九八)八月一五日の備後国御調郡杭稲荷社御祭御頭注文(山科文書)の了家(領家)分の名に当村の地名がみえる。
元和五年(一六一九)の備後国知行帳によると村高三九七・〇八石。
吉田村
よしだむら
[現在地名]八日市場市吉田
香取郡に属し、匝瑳郡久方村の北に位置する。北西は南並木村(現多古町)、南西は篠本村(現光町)。中世は匝瑳南条庄に属したとみられ、天正一七年(一五八九)九月一三日の北条氏裁許状写(神保文書)に「吉田之郷」とみえ、天文一五年(一五四六)千葉利胤から三谷蔵人佑(胤重)に与えられた同郷内久方村をめぐり、三谷氏と千葉妙見社(現千葉市中央区の千葉神社)別当寺の尊光院(現廃寺)との間で相論となっている。「家忠日記」天正二〇年三月六日条の「かつさ知行分」として書上げられたなかに「吉田之郷 九拾五石四斗四升」とみえる吉田郷は当地のことか。
吉田村
よしだむら
[現在地名]平鹿町上吉田間内・中吉田・下吉田
北は猪岡村・清水町新田村(現横手市)、七日市村、田村・阿気村(現大雄村)、西は大塚村(現雄物川町)、浅舞村、南は上樋口村・客殿薊谷地村、東は深間内村および山地を隔てて婦気大堤村・赤坂村(現横手市)に接する。村北部を横手から沼館(現雄物川町)に通ずる脇街道が東西につらぬき、村南部を横手から浅舞に通ずる脇街道が同じく東西につらぬく。
観応元年(一三五〇)八月一五日、源秋田城之介泰長が平鹿郡明江山遍照院(現横手市明永町の熊野神社)にあてた寄進状(秋田藩家蔵文書)に次のようにある。
<資料は省略されています>
元和元年(一六一五)樋口村肝煎ならびに羽黒足軽たちが与えられた新開差紙に「樋口村、吉田村之内にて新開可仕由」(雪の出羽路)とあり、また同書に「元和二丙辰年、三吉田、上下樋口」と五村に分れたとある。
吉田村
よしだむら
[現在地名]印旛村吉田
岩戸村の西、印旛沼の西端北側に位置し、西は松崎村(現印西市)。対岸保品村(現八千代市)と結ぶ吉田渡があった(利根川図志)。元和三年(一六一七)五月二六日の知行宛行状に村名がみえ、瀬戸・師戸・吉田三村の一千一五二石が旗本河口(川口)領となっている。承応二年(一六五三)の検地帳(宗像村役場文書)でも同領。延宝四年(一六七六)に成立した惣深新田(現印西市)のうち九七石余、下畑一九町四反余が当村に割渡され、同地は幕府領として幕末に至った(元治元年「年貢割付状」高石家文書)。
吉田村
よしだむら
[現在地名]黒部市吉田
東は飯沢村・板屋村、北は大開・荒俣村。長元元年(一〇二八)京都の吉田兼方の末孫法橋の次男である判官広重が吉田右衛門と名乗り、当地に来て農民の頭となり、数千歩を開墾し、吉田を村名としたと伝える。「源平盛衰記」の越中国住人吉田四郎の居村も当村であったという(越中志徴)。「織田軍記」に「天正十年上杉景勝が魚津城を援けんと、多勢を率ゐ春日山の居城を出馬し、越中に乱入す。黒部川を打越へ、吉田に宿陣し、それより進んで天神山に備を堅む」とあるのは当地のことである(下新川郡史稿)。寛永一六年(一六三九)富山藩領、万治三年(一六六〇)から加賀藩領。
吉田村
よしだむら
[現在地名]上田市大字吉田
上田市西部浦野川下流右岸にある集落。東に福田村、南に保野村、西に小泉村、北に築地村に接する。上吉田・田中・宮島などの小字に分れる。上田市南西から流れて千曲川に入る浦野川の下流の肥沃な地帯にあたり、「延喜式」所載の福田郷の本郷と推定される福田村に接するから、成立はかなり古いと想像される。
古くは福田郷に属し、中世からは小泉庄に入った。
吉田村
よしだむら
[現在地名]中野市大字吉田
夜間瀬川扇状地の湧泉地帯に位置し、東は中野・一本木、西は長丘丘陵・七瀬、南は岩舟、北は荒井村に接している。
延文二年(一三五七)一〇月、高梨永高が吉田郷を和田郷・高岡(ともに水内郡)とともに拝領したのが初見(「高梨朝高言上状案」高梨文書)。その後この地の吉田木工尉が応永一二年(一四〇五)卯月、高井郡小菅神社に観音三十三身のうち牢官身像の「板絵」を寄進している。宝徳三年(一四五一)一〇月、先に信濃守護小笠原宗康を討死させた小笠原持長が、この頃諏訪上下社の紛争に介入し、下社大祝を助け、この月、吉田南方等の社領を安堵せしめた(「小笠原持長安堵状案」諏訪大社下社文書)。武田勝頼は天正六年(一五七八)二月、高梨之内吉田に秋宮の瑞籬六間(五貫文)の造宮を割り当てている(下諏訪秋宮造宮帳)。
吉田村
よしだむら
[現在地名]引田町吉田
馬宿川が形成した扇状地の中央に位置する。川の西側小平地と、芦谷山・西山などの低い山地よりなる。芦谷川と古川が流れているが水量は乏しく、灌漑は溜池と出水による。地味豊かな農業地域で、吉田は良田の意であるという。西は小海村、北は塩屋村・引田村に接する。寛永国絵図では引田郷に含まれる。寛永一七年(一六四〇)の生駒領高覚帳による村高二七六石余。寛政七年(一七九五)には高三三八石余で、うち他村からの入作が一四四石余。
吉田村
よしだむら
[現在地名]志賀町北吉田
清水今江村の北東、米町川中流域に形成される平地に集落を形成。南東は低丘陵地。米町川河畔には柴山出村式土器が採集された弥生時代初頭の米町川遺跡があり、左岸丘陵尾根端部には弥生時代後期の高地性集落であるフルワ遺跡と複合する北吉田フルワ古墳群がある。径一二メートルの一号墳は志賀町内では最大で、木棺直葬の主体部から剣一振と滑石製臼玉約七三〇個が出土、古墳群の造営は五世紀後半と考えられている。
吉田村
よしだむら
[現在地名]西区枝吉一―五丁目・玉津町吉田・曙町・王塚台一―七丁目・持子一―三丁目・森友一―五丁目、明石市北王子町
明石川下流右岸の平坦地に立地し、西部は段丘。西は鳥羽村、南は山陽道に沿う和坂村(以上現明石市)。古くは枝吉村と称したが(采邑私記)、元禄九年(一六九六)に吉田村と改称し村を東西上下に分けたという(明石記)。嘉吉の乱後播磨守護となった山名持豊は、文安元年(一四四四)七月二五日「枝吉別符領家渡辺兵庫助跡」を山内時通に与えている(「山名持豊判物」山内首藤家文書)。応仁の乱を経て赤松家再興がなった文明一三年(一四八一)九月日の上月満吉所々知行分目録案(上月文書)に「明石枝吉別符半済」とみえる。
吉田村
よしだむら
[現在地名]大泉町吉田
東は新福寺村(現千代田町)、西は仙石村、南は古海村・新福寺村、北は坂田村・下小泉村に接する。下小泉村で分岐し、村の北部から西部に休泊堀が、東部に谷田川がそれぞれ南流し、古戸(現太田市)から館林への道が東西に、足利(現栃木県足利市)から利根川端へ至る道が南北に走り、村の東南端で交差する。天正一三年(一五八五)北条氏照は新田・館林・足利の城を攻略するため軍勢を催し、三月一八日先陣は「新田領ノ古戸ノ渡ヲ越テ川上ハ中瀬小鳥、川下ハ小泉吉田原赤岩マテ野陣ヲ取」っている(関八州古戦録)。
吉田村
よしだむら
[現在地名]河北町吉田
寒河江川扇状地北端に位置し、南を古佐川、北を法師川が東流する。南は北口村、西は下工藤小路村、北は岩木村・新吉田村。永仁三年(一二九五)後二月二五日の北条貞時執事奉書(円覚寺文書)にみえる北寒河江庄五ヵ郷の一つで、建武四年(一三三七)七月一〇日の足利直義御判御教書(同文書)によれば「北寒河江庄五ケ郷吉田」などの地頭職が鎌倉円覚寺に安堵されている。
吉田村
よしだむら
[現在地名]白水村吉田
白川上流右岸、東は吉田新町・竹崎村、西は下積村・下市村、南は二子石村(現久木野村)と接する。鎌倉時代には阿蘇社の領家である村上源氏定房の子孫が地頭職を兼帯していた。弘安元年(一二七八)一〇月一七日の成阿譲状(阿蘇家文書)によると、大納言源定房の孫にあたる家定(成阿)が、文永八年(一二七一)以前に「色見・山鳥・吉田・白川四村、永田」地頭職を嫡子為定に譲ったが、為定が「すきぬる文永八年よりいまに出仕せす、申をしうる 事もつゆつゆきかす、ハかハかしからぬものにて候」ため、弘安元年に悔返し、改めて「おとゝ」に譲与している。
吉田村
よしだむら
[現在地名]余目町返吉
返町村の南、京田川の扇状地にある。江戸街道から京田橋で北に折れ、松山(現飽海郡松山町)方面に向かう道路沿いに集落があり、返町村とほぼ一続きになっている。新館家の裏の「慶長四年本来院殿無性大居士 律僧海 三十六人仏」と刻まれた石碑は、この地から金の位牌と多くの脇差・人骨が出土した時に建立されたものという(「荘内金石文」阿部正己資料)。近くには館主の氏神とも伝える稲荷神社が祀られ、境内には獅子頭が埋められていると伝える塚がある(明治一二年「調書」十六合史)。返町村との間には光明寺という寺があったが藤島村(現藤島町)に移り、その跡地を寺屋敷という(余目町史)。
吉田村
よしだむら
[現在地名]色麻町吉田
鳴瀬川の支流保野川の下流南岸に位置し、平坦で現町域内最小の村である。北と東は高城村、南は黒沢村、西は志津村に接する。村名は、往古葦の叢生した遊水池を含む悪田であったが、中世に佳名吉田と改められたといわれる。正保郷帳に田二三貫八四六文・畑二貫七九五文とあり、ほかに同所新田三二五文がある。「安永風土記」によれば、田二四貫八三一文・畑三貫三二四文で、蔵入は八貫一八〇文、給所は一九貫九七五文、人頭一六人、家数一六、男四六・女四八、馬一八で、高さ一丈六尺・回り四〇間の大塚があり、蝦夷塚と称されている。
吉田村
よしだむら
[現在地名]浄法寺町御山
安比川南岸に位置し、東は出ル町村(現一戸町)、南西は駒ヶ嶺村、北は御山村。天正一九年(一五九一)と思われる七月二二日の南部信直書状(福岡川嶋文書)に吉田の地名がみえる。元和七年(一六二一)六月二七日の南部利直知行宛行状(滝沢系譜)によれば、「六拾五石下 吉田」などが滝沢助五郎などに宛行われている。
吉田村
よしだむら
[現在地名]和歌山市吉田・友田町二―五丁目
名草郡に属し、雑賀川(和歌川)の上流大門川の南にある。東は黒田村、西は城下畑屋敷町。小名に石原・岸の上がある。永承三年(一〇四八)名草郡郡許院収納米帳(九条家本「延喜式」巻八裏文書)に「平井津」とともに「吉田津」がみえ、名草郡四院の一つ郡許院に属し、要衝の地であったことがうかがわれる。中世は日前宮領吉田郷の地で、永仁三年(一二九五)三月二三日の吉田郷検田取帳並検畠取帳写(国立史料館蔵)によると田地二六町四段六〇歩、畠地三五町七段三二〇歩で、畠地面積の約半分は河成不作、芝成は四段ある。
吉田村
よしだむら
[現在地名]三木市志染町吉田・志染町東自由が丘三丁目・志染町中自由が丘一―三丁目・志染町西自由が丘一―二丁目
宿原村の東に位置し、美嚢川の支流志染川の下流域、志染谷の入口付近に立地する。慶長国絵図に「志々ミノ吉田村」とみえる。初め姫路藩領、元和三年(一六一七)明石藩領となるが、寛永九年(一六三二)上知された(「寛政重修諸家譜」など)。正保郷帳では幕府領で、田方四五九石余・畑方一六一石余。元禄郷帳には「志染吉田村」とあり、高六六五石余。元禄一六年(一七〇三)旗本一柳領となるが、天保一三年(一八四二)上知され、同年から明石藩領となる(「美嚢郡誌」・旧高旧領取調帳など)。
吉田村
よしだむら
[現在地名]亘理町吉田
南は山寺村・八手庭村・大平村(現山元町)、西は阿武隈丘陵で伊具郡坂津田村(現角田市)、北は長瀞村・小堤村、東は海。丘陵から海に向かって扇状に広がる村で、西北方に大畑町、西方に上大畑、東南方に吉田浜、東北方に大畑浜の字地がある(亘理郡地誌)。丘陵裾を江戸浜街道が南北に通る。正保郷帳では田五四貫九一六文・畑六貫五五七文。貞享元年(一六八四)の郡村石高(仙台藩史料)では村高五六三石八斗余。「封内風土記」の戸数九三。用水は一五六町九反余を潤す十二ヵ村堰のほか七ヵ所の堀と大塚沼など五ヵ所の沼地を利用する(亘理郡地誌)。
吉田村
よしだむら
[現在地名]五色町鮎原吉田
都志宮村の東にある。南西と北西、南から南東にかけては丘陵で、南部を都志川(鮎原川)が流れる。中央部を吉田川が西流して都志川に合流する。正保国絵図に村名がみえ、高二六四石余。天保郷帳では高三三四石余。反別戸数取調書では反別三三町二反余、高四二一石余、うち一〇二石余が蔵入地、三二〇石余が猪子太左衛門ら一二名の給地。
吉田村
よしだむら
[現在地名]押水町南吉田
末森山南麓、相見川中流に位置し、西は麦生村。正保郷帳の高八四一石余、田方四七町四反余・畑方八町六反余、免三ツ九歩一厘、新田高三六石余(免三ツ七歩七厘)。寛文一〇年(一六七〇)の村御印では高九〇八石、免五ツ四歩、新田高三石、小物成は山役三七二匁・苦竹役二三匁、鳥役一〇目(出来)、油役三匁(出来)であった(三箇国高物成帳)。
吉田村
よしだむら
[現在地名]塩尻市大字広丘 吉田
東は赤木山の西を北流する田川の流域から、西は奈良井川までの間にある平坦地。桔梗ヶ原の北端に位置し、北は現松本市村井、東は田川を隔てて赤木、南は野村・原新田、西は奈良井川を境に現松本市小俣と隣接する。「和名抄」の良田郷の中心地である。後になって「延喜式」に記載される官道もこの付近を通って松本に至り覚志駅も吉田の北部村井付近と推定される。
鎌倉時代は隣郷赤木の地頭赤木氏が地頭職をもち、嘉元三年(一三〇五)、赤木家忠の遺領吉田郷をめぐる争論の幕府裁定がある(岡山県赤木家文書)。その後、守矢文書によると諏訪領となり、元弘二年(一三三二)諏訪時継は吉田・赤木両郷を諏訪社上社へ寄進したと伝える。
吉田村
よしだむら
[現在地名]米山町 善王寺・桜岡
登米郡南部にあり、西側を南流してきた迫川が西に流れを変える。東は北上山地の末端山地が延びる。南は端郷桜岡の白山堂、北は森村(現迫町)水門境、東は端郷善王寺の境猿ヶ崎に接する。天正二年(一五七四)四月七日付千葉肥前守宛の葛西晴信宛行状(千葉文書)に「為加増登米郡吉田内三千苅」とある。また同年六月一五日葛西晴信は吉田村において順性院に三千刈を寄進(水沢市史)、同一六年六月二日、金野二郎左衛門に二千刈加増している(奥州葛西関係文書解説並目録)。
吉田村
よしだむら
[現在地名]長野市吉田
北国脇往還に沿ってできた街村。善光寺の東北に位置する。
明徳三年(一三九二)の「高梨薩摩守朝高并一族以下被付給人所々注文」(高梨文書)に、「同郡東条庄内石渡部郷・堀郷・尾張部散在郷・高恩
・小井郷・吉田村等知行分之事、彼所者、高梨与一知行無相違地也」とあるように「吉田村」の名がみえ、高梨一族の知行地であって、当時既に郷村として成立していたことがわかる。慶長七年(一六〇二)の川中島四郡検地打立之帳(小柳文書)に、「八百三拾弐石三斗五升六合 吉田村」とあるように、村切があってこの時村高が定まった。
吉田村
よしだむら
面積:一一四・三四平方キロ
県の南東部、奥出雲の一画、斐伊川・三刀屋川の上流に位置する。南は中国山地を分水嶺にして広島県比婆郡高野町、東は仁多郡仁多町、北は大原郡木次町と三刀屋町、西は掛合町・頓原町に接する。吉田川をはじめとする各河川流域に狭隘な耕地が散在的に分布するが、総面積の九三パーセントは山林である。古くから鑪製鉄によって栄え、開発された歴史をもつ。田部家では寛正元年(一四六〇)本格的な鑪製鉄を創業、以来村周辺の人々は鑪製鉄になんらかのかかわりをもって生活しており、製鉄産業は中国山地における一大産業であった。
吉田村
よしだむら
[現在地名]天理市吉田町
布留川北岸、初瀬川東岸に所在。「多聞院日記」永禄一一年(一五六八)九月二六日条に「昨日箸尾ヨリ出、十市郷五ケ所焼了井戸堂・吉田・九条・備前・長泊」とある。
文禄四年(一五九五)の検地による村高三一四・一八石。近世初期は山口勘兵衛組領。のち幕府領(代官小野喜左衛門)。延宝七年(一六七九)の再検地で村高四〇二・六石。宝暦一二年(一七六二)から清水御領知、のち幕府領。さらに文政七年(一八二四)から安政二年(一八五五)まで清水御領知で、幕末には幕府領に編入されている。「吉田備前は水つき所」といわれるように布留川と初瀬川の合流点の水損場で、早いところでは寛永二年(一六二五)に筑紫村と、明暦三年(一六五七)八田村(現磯城郡田原本町)と水論を起こし、正徳元年(一七一一)村方騒動が起こった。
吉田村
よしだむら
[現在地名]東粟倉村吉田
太田村の南に位置。北の谷から小谷川が流れ、集落中ほどで後山川に合流する。この流域に耕地が開ける。元和元年(一六一五)の森忠政宛行状(黄薇古簡集)では吉田村のうち一七石余が松山八郎右衛門に与えられている。正保郷帳では田一七七石余・畑一一九石余(ただし都合高は二九〇石余となっている)。元禄一〇年(一六九七)の美作国郡村高辻帳では改出高一八三石余・開高三一石余、村位は上。津山藩森氏断絶後は幕府領、天明七年(一七八七)下総佐倉藩領、寛政一一年(一七九九)幕府領、天保一三年(一八四二)播磨明石藩領(美作国郷村支配記)。「東作誌」によれば戸数四五、男九六・女八六。
吉田村
よしだむら
[現在地名]小川町吉田
片平村の東、南流する那珂川右岸段丘上に位置し、対岸は三川又新田(現馬頭町)。北の小川村境で権津川が那珂川に合流、那珂川沿いに関街道(烏山経由)が通る。寛永一三年(一六三六)の堀親良遺領村目録(神奈川県堀直敬文書)に村名がみえ、高二五六石余、烏山藩領。慶安郷帳では田高一四八石余・畑高一〇七石余。天保七年(一八三六)烏山藩が尊徳仕法を導入した際に、飢民として粥の施しを受けた者は村民八一人のうち一五人(尊徳全集二四)。
吉田村
よしだむら
[現在地名]八女市吉田
大島村の北西に位置し、八女丘陵部と平野部からなる。中世に吉田庄とみえる。文禄四年(一五九五)一二月の上妻郡内知行方目録写(筑紫家文書)に「よした村」とみえ、高五五八石余。本高は六七五石余(元禄国絵図)。「在方諸覚書」では古高一千六〇石・役高八二〇石。享和二年(一八〇二)の春免高帳では高八二四石、文化四年(一八〇七)の畝付帳では本田六九町余・畑田一町余・畑一五町七反余・居屋敷一町一反余。
吉田村
よしだむら
[現在地名]岩出町吉田
中野黒木村の西にあり、紀ノ川の支流住吉川の中流右岸に広がる。北は山村。集落の北部を六ヶ井用水が西流する。「続風土記」は「此ノ地本紀ノ川の岸にして、蘆荻の生茂りし川原なりしを開墾して田地となしたるより、蘆田の名あり」と記す。長承元年(一一三二)一〇月三〇日付の鳥羽上皇院庁牒案(根来要書)に記された、那賀郡山前郷(山崎庄)内の「名陵村」の四至のうちに「限西吉田庄并公郷」とみえる。
慶長検地高目録によれば村高三三二石余、小物成四升九合。山崎組に属し、正徳元年(一七一一)の山崎組定免所指出帳(増田家蔵)によると田一四町七反余で高二五七石余、畑五町二反余で高七五石余。
吉田村
よしだむら
[現在地名]上屋久町吉田
一湊村の南西にあり、南西は長田村、東は山岳、西は海に面する。文禄検地では本村として扱われ、一湊村・志戸子村・宮之浦村・楠川村・小瀬田村、船行村・安房村(現屋久町)の七村を小村としていたが(三国名勝図会)、その後長田村の小村となった(薩藩政要録)。大永四年(一五二四)種子島忠時は当地に城(吉田城)を築いている(種子島家譜)。明暦三年(一六五七)頃の屋久島大絵図(県立図書館蔵)に村名がみえる。寛文四年(一六六四)の郡村高辻帳では高一八七石余、ただしこの高には小村七ヵ村の高も含まれていた。
吉田村
よしだむら
[現在地名]大仁町吉田
狩野川中流域の東岸に位置し、北は三福村。下田街道が通る。天正一七年(一五八九)と考えられる一二月二八日の北条家朱印状写(伊豆順行記)に、相良左京進が処遇について指示されている「吉田郷」がみえる。当地あるいは現伊東市の吉田とも考えられる。文禄三年(一五九四)七月の吉田郷縄打野引帳(原家文書)によると名請人三七、定雲寺(現常雲寺)・器得院があった。同六年の子神社(現吉田神社)の上梁文には「豆州田方郡吉田村」とあったとされる(増訂豆州志稿)。貞享元年(一六八四)の吉田村覚書(吉田区有文書)によると慶長一二年(一六〇七)三島代官井出正次の検地があった。
吉田村
よしだむら
[現在地名]小城町大字松尾字吉田
須賀神社がある城山(千葉城跡)を背景に、前面に流れる祇園川によって区切られた山麓に沿って東西に延びた集落である。千葉氏が小城・佐賀・杵島の三郡に支配権を伸ばした室町時代の中頃は、当時の小城町の一部を構成した。村内にある天台宗円明寺は、千葉氏衰亡の一因となった文明二年(一四七〇)の土一揆合戦の際、一時焼失している。
江戸時代には、吉田村と祇園川向うの高原ヶ里は佐賀藩士鍋島播磨(物成一千七〇〇石)の知行地となった。高原ヶ里村は正保絵図、享和元年(一八〇一)写の御領中郡村附にみえる。
吉田村
よしだむら
[現在地名]阿仁町吉田
北流する阿仁川の上流域左岸、西に入り込む十二沢の入口付近に位置する。享保一五年(一七三〇)の「六郡郡邑記」に「吉田村 卅軒。先には風張村と云元禄七戌改名也」とみえる。風張については天正一六年(一五八八)秋田実季が大浦為信の領内通過を阻止した記録に、「秋田領安仁ノ笠張ト申処」とある(館越記)。集落を東に見下ろす苗代沢の山地に中世後期の館が現存、「秋田風土記」に「古城あり、高橋刑部少輔と云者居せり。天正の始、加成資清、亡之と云」とあり、落城のさい夫人が死亡したという伝承のある井戸跡が今に残る。
吉田村
よしだむら
[現在地名]高森町吉田
現高森町の中央部、東の天竜川から西の本高森山の山麓へ細長く延びた村。
「吉田」の文献上の初出は元亀二年(一五七一)で、武田信玄が秋山信友に命じて大島城(現松川町元大島)の修築にあたらせた時、人足を徴発した記事である(「武田信玄朱印状」工藤文書)。その翌年、松岡氏が市田宿の伝馬衆二〇人を領内諸村から引き揚げた時、吉田と南吉田からは三人の名があげられている(関川文書)。
吉田村
よしだむら
[現在地名]伊東市吉田
東は川奈村、東浦路が和田村から当村を経て八幡野村へ続く。「曾我両社縁起」に「伊豆ノ吉田」とみえる。「曾我物語」にみえる芦田谷は当地と考えられている。北条氏所領役帳によれば、北条家臣河越衆大道寺周勝の所領として八〇貫文「吉田・八幡野」、また伊豆衆相良四郎の所領として一〇〇貫文「吉田」とあるが、後者は現大仁町の吉田の可能性がある。
吉田村
よしだむら
[現在地名]三田川町大字吉田字吉田・新宮田
背振山地から南に延びた舌状丘陵地の南部にある。長崎街道の北に位置する。
正応二年(一二八九)三月一二日の蒙古合戦勲功地配分状(青方文書)に、
<資料は省略されています>
とある。この地域は井柳川沿いに広がり開発の歴史も古く、平安期に確立された神埼庄の一部として位置づけられる。
吉田村
よしだむら
[現在地名]福江市吉田町
本山村の北東部にある同村枝郷。天保郷帳などに記載はない。山端と総称される蒲田・瀬戸・猪掛の集落がある。通称の「かんのしばば」は観音寺馬場のことで、福江観音寺の草創の地という。当地を名字の地とする吉田外記は朝鮮半島からの来住者といわれ(公譜別録)、永正年間(一五〇四―二一)宇久囲に反旗を翻した玉之浦納に同調したとされる。文禄・慶長の役で捕らわれの身となった役仁右衛門が北部の久木山に寛永八年(一六三一)来住し、開拓の祖となり、その姓は高麗で、のち小浦と改める者がいたという(五島編年史)。江戸時代は福江藩領本山掛に属する。
吉田村
よしだむら
[現在地名]吉良町吉田
北は荻原村、東は小山田村、西は大島村に接し、南は海に臨む。村名は、宝珠院草切の縁起(宝珠院蔵)によると、天台の碩学栄俊が寛正四年(一四六三)富士山吉田口より当地に来錫したところから、村民がその徳を慕い吉田の御坊とよび、これが村名になったと伝える。「三河郡村生記」は芦田と記し、後に吉田に変わったと記す。
干拓新田を次々に開いて今日の姿に至ったが、そのおもなものは元禄年間(一六八八―一七〇四)の吉海新田、元文年間(一七三六―四一)の万田新田、天明七年(一七八七)の豊岡新田、文久三年(一八六三)の高嶋新田が知られる(吉良町誌)。
吉田村
よしだむら
[現在地名]小倉南区上吉田一―六丁目・中吉田一―六丁目・下吉田一―四丁目・吉田
沼村の東、竹馬川河口の左岸に立地する。地名は中世よりみえる。元和八年人畜改帳に吉田村とみえ、御蔵納分の高七〇石、給人二人分の高一八一石余の二筆で、家数二一、人数四九(うち百姓六・名子三・社人一)、牛四・馬二。郷村高帳では高七六八石余、うち新田高九七石余。幕末の各村覚書では本高六一〇石余、田四七町九反余・畠二五町三反余、物成三五四石余、竈数一二四・人数六五三、牛五七・馬二五、竜王社、本顕寺など。
吉田村
よしだむら
[現在地名]田主丸町常盤など
松門寺村の西に位置する。屋敷地は松原村と接して田主丸町の北にあり、耕地は吉田溝(現雲雀川)北岸に松原村・田主丸村などと入組む(上三郡絵図)。一部が田主丸町のうち橋口に含まれた(天保七年「田主丸町并村絵図」藤田家蔵)。文禄四年(一五九五)一二月一日の小早川秀俊書下(歴世古文書)に「たのしまる・吉田村・吉瀬村」がみえ、同地のうち一〇〇石が「神屋宗堪」・大丸藤右衛門に与えられている。本高は一一〇石余(元禄国絵図)。「在方諸覚書」では古高一〇〇石・役高一八五石。享保一二年(一七二七)の夏物成は大麦六石五斗余・小麦三石二斗余・菜種一石余(「本地夏物成帳」中村家文書)。
吉田村
よしたむら
[現在地名]福崎町南田原
八反田村の北に位置し、市川左岸の沖積平野に立地する。神東郡に属した。中世は田原庄に含まれた。永正九年(一五一二)一〇月日の田原庄本所分段銭田数注文(九条家文書)に名主である吉田の九郎兵衛と衛門五郎の名がみえる。慶長国絵図に村名がみえる。正保郷帳では田方五六一石余・畑方三八石余。天保郷帳では高七八六石余。明治九年(一八七六)長目村など五ヵ村と合併して南田原村となる。曹洞宗安徳寺があり、貞享二年(一六八五)の創建と伝える。
吉田村
よしだむら
[現在地名]亀岡市吉川町吉田
穴川村の西にあり、西は佐伯、南は穴太、北は太田、南金岐の村々で、篠山街道(山陰道)が東西に通る。また村内を犬飼川が北流し、東流する山内川を村北部で合わせてほぼ東流して大堰川へ注ぐ。犬飼川の東を天田といい、この辺りでは川の名を天田川ともよんだ。天田の辺りはかつては湿地帯で、米穀の生産もなく、蓮を植えて葉や蓮根を売ったという(丹波誌)。
吉田村
よしだむら
[現在地名]建部町吉田
西と南は旭川に面し、東は土師方村、北は大田村と山境に接する。永禄一一年(一五六八)頃と思われる八月一一日の伊賀久隆感状(片山文書)によれば、片山与一兵衛は「金川松田方城」での働きにより「はちかた之内吉田村」を与えられている。赤坂郡に属し、寛永備前国絵図に高五二〇石余とあり、枝村として土橋村があった。「備陽記」では田畠四三町八反余、家数九六・人数六九三、高瀬舟一、池三。文化年間の「岡山藩領手鑑」によれば直高八七二石余はすべて池田伊賀の給地。田高二三九石余・一五町余、畑高三一〇石余・二九町三反余、ほかに開方高一〇石余・二町二反余があった。
吉田村
よしだむら
[現在地名]川越市吉田・吉田新町
小堤村の南、的場村の西、小畔川流域の低地に立地。高麗郡に属した。「とはずがたり」に「昔はみよし野の里と申しけるが(中略)吉田の里と名を改められ」とみえる吉田の里を当地に比定する説がある。小田原衆所領役帳に江戸衆の太田大膳亮の所領として「卅八貫九百十八文 川越吉田郷」とみえる。検地は慶安元年(一六四八)に実施された(風土記稿)。田園簿に村名がみえ、田高一六八石余・畑高五九石余、ほかに永二貫九〇〇文、川越藩領(幕末に至る)。寛文四年(一六六四)の河越領郷村高帳では高二三一石余、反別は田一六町五反余・畑二一町二反余、ほかに開発分高一三石余(反別田九反余・畑一町二反余)。
吉田村
よしだむら
[現在地名]三朝町吉田
余戸村の南、小鹿川右岸の山麓部を中心に広がる。拝領高一六四石余。山岡氏の給地(給人所付帳)。享保一九年(一七三四)の鈴木孫三郎所持本「伯耆誌」によれば高一九二石余、湯村へ半里、高橋村へ一七町と記す。宝暦三年(一七五三)頃の河村郡村々明細帳(近藤家文書)では朱高一七九石余、高一九三石余、うち畑高一一石余。免六ツ、橋津御蔵(現羽合町)納。悪田加損米六石八斗。川役銀一八匁および鍛冶屋一軒の運上銀二匁が課され、棟数四軒・役高八〇人。
吉田村
よしだむら
[現在地名]福島市吉倉
下名倉村の東に位置し、北は八木田村・仁井田村、東は方木田村。荒川の旧河床で緩やかな河岸段丘が延びる平坦地。もとは下名倉村の荒蕪地で蘆の伸びた谷地が広がっていたが、元和五年(一六一九)に開拓され下名倉新田と称し、万治二年(一六五九)吉田村(蘆田村)として分村したという(信達二郡村誌)。古高新高帳によると米沢藩領時代の古高三〇四石余、幕府検地による新高二七五石余(二七二石余の誤記か)。
吉田村
よしだむら
[現在地名]豊郷町吉田
愛知郡に属し、宇曾川中流右岸にあり、東は目加田村(現愛知郡秦荘町)、西は土橋村(現同郡愛知川町)。中世には吉田庄の内であった。慶長四年(一五九九)の豊臣氏大老連署知行充行状案(毛利家文書)によれば、山田忠左衛門に吉田村のうち吉田喜三郎分五〇石と合せて二〇〇石を宛行っている。慶長高辻帳に一千四〇五石余とある。慶長七年の検地帳写(吉田共有文書)には、上田三三町余・中田三三町余・下田一五町余・下々田二町余・当荒田三町余・永荒田三町余、上畑二町余・中畑三反余・下畑二反余・荒畑五反余、屋敷一町三反余、都合九七町二反余とある。
吉田村
よしだむら
[現在地名]笠岡市吉田
小平井村の東にあり、東は小坂西村(現浅口郡鴨方町)。全長約五キロ、南流して瀬戸内海に注ぐ吉田川の源流地で、北流して小田川に合する尾坂川は北部の吉野池に端を発する。元和二年(一六一六)より松山藩領、寛永一九年(一六四二)より天和三年(一六八三)まで幕府領、同年より貞享三年(一六八六)まで庭瀬藩領、同年より元禄一〇年(一六九七)まで幕府領、同年より宝永三年(一七〇六)まで西江原藩領、同年より文政一〇年(一八二七)まで幕府領、以降三卿の一橋領となったと考えられる。
吉田村
よしだむら
[現在地名]嵐山町吉田
滑川右岸の丘陵と低地に位置する。東は和泉村(現滑川町)、南西は越畑村。地名は良田に恵まれた地の意という(嵐山町誌)。松山領に属した(風土記稿)。田園簿では田高五七一石余・畑高九二石余、旗本折井・山本・曾我・松下の四家の相給。元禄郷帳では高六九九石余、国立史料館本元禄郷帳では同じく旗本四家の相給だが、曾我家が菅沼家と代わっている。以降、この四家の相給で幕末に至ったと思われる(「風土記稿」「郡村誌」など)。宝永二年(一七〇五)の田方改帳と畑方改帳(ともに小林家文書)によると、反別は田三一町余・畑九町九反余。
吉田村
よしだむら
[現在地名]福山市春日町吉田
能島村と浦上村の地先の芦原に築造された新涯地に、市村の東端、市村沼田の東側の地、引野村の北端を割いて元禄一一年(一六九八)に一村としたもので、春日池掛りの水田地帯である。市村から割かれた地は山地で畑作が行われ、山麓に農家があり、引野村から分れた堀山の山地の中間が寛永一九年(一六四二)に築かれた吉田沖新涯である(福山志料)。
吉田村
よしだむら
[現在地名]南部町東吉田
芝村の北に位置し、北東方山田・熊岡(現南部川村)から流れる古川の流域にある農村。「続風土記」に「吉田は良田の義」とある。中世には高野山領南部庄の一部であったと思われる。慶長検地高目録では村高三六一石余、小物成三斗四升二合。宝暦一〇年(一七六〇)の御上ケ知南部組大指出帳(「日高近世史料」所収)によれば田畑三〇町余で高三六一石余、家数三二で内訳は庄屋・肝煎各一、御役家一一、無役家一九、人数一二四、牛七、馬四、池五、井堰一〇。
吉田村
よしだむら
[現在地名]白浜町栄
高井村の南に位置し、東は富田川を隔て十九淵村、南は中村。富田川右岸に発達した沖積地に開かれた村。戦国時代富田川西北の地を支配した吉田氏の本貫といわれる(続風土記)。慶長検地高目録によると村高一二〇石余、小物成三升七合。元和五年(一六一九)以降和歌山藩田辺領。富田組に属した。天保一〇年(一八三九)の家数五八(役家一二・栖在家四六)、人数は男一二八・女一〇四、牛三二、馬四(「家数人数牛馬数書上帳」田所文書)。
吉田村
よしだむら
[現在地名]養老町豊・色目
中村の北東にあり、近世末に豊村と改称した。暦応二年(一三三九)二月一八日の足利直義下文(土岐文書)に「多藝庄内支江・吉田地頭職事」とみえ、土岐頼貞の譲状に任せて当地などの地頭職が土岐光賢に安堵されている。明徳元年(一三九〇)六月二〇日の管領斯波義将施行状案(佐々木文書)によれば、土岐高山知行の跡である当地を佐々木大膳大夫高秀に与えている。永享七年(一四三五)八月一九日の勝法師檀那売券(熊野那智大社文書)にみえる吉田は当地か。慶長郷帳に村名がみえ、高二八〇石余。
吉田村
よしだむら
[現在地名]八幡町初納
吉田川右岸にあり、南西下流は石原村。対岸は市島村。保元元年(一一五六)七月日の藤原忠通書状案(天理図書館所蔵文書)に「吉田美乃国」とみえ、貞治三年(一三六四)六月二〇日の前大僧正某安堵状(大興寺文書)に「美濃国吉田庄吉田 小野 中野 下田四ケ郷」とある。しかし、この吉田庄の比定地については研究の余地がある(揖斐郡の→吉田庄)。慶長郷帳では高六三二石余。正保郷帳は田方二七石余・畑方七二石余。
吉田村
よしだむら
[現在地名]南国市岡豊町吉田
香長平野の中央北部にある農村。北を国分川が流れ、南を土佐街道(東街道)が東西に通ずる。芳田とも記す(元禄郷帳など)。「土佐州郡志」は「東限廿枝、西限常通寺島、南限小籠、北限岩瀬、東西六町南北四町許、戸凡二十余、其土白」と記す。東の廿枝村から小支流が国分川に流入し、灌漑の便はよい。中世、土豪吉田氏が本拠とした地。天正一六年(一五八八)の江村郷地検帳によると吉田村の検地面積八町一反六代余、うち屋敷六三筆三町六反三五代・山畠二〇代・弓場二三代余のほかは田である。
吉田村
よしだむら
[現在地名]舞鶴市字吉田
舞鶴湾の西岸、大君村の北方に位置し、溺れ谷にある沖積地を耕地として集落が形成された。村の東の入江には、出口に年取島があり、北側には岬が突き出て入江を囲んでいる。大君・吉田および吉田の北方に位置する青井村は地形的に相似形の村である。
慶長検地郷村帳に高二一三・九石「吉田村」とみえ、土目録でも同高である。内訳は田方一六二石余、畑方五一石余。
吉田村
よしだむら
[現在地名]竹田市吉田
大野川上流にあり、玉来村の南にある交通の要衝で、岡城下から柏原郷(現荻町)方面への道筋にあたる。入田郷吉田名の遺称地。正保・元禄・天保の各郷帳にみえない。弘化物成帳では玉来組のうち、村位は上、免九ツ二分四厘、田一六二石余(一三町余)・畑三二石余(四町五反余)・屋敷四石余(四反余)で、開田はほとんどなく、開畑四斗余(六反余)がある。
吉田村
よしだむら
[現在地名]取手市吉田
北相馬台地東の平坦地に位置する純農村。北の青柳村とともに「相馬二万石」の一部で、低地のため今でも水塚が残っている。古くは鴈金村・鴈根村と称し、寛永一一年(一六三四)の下総国相馬郡鴈金村御検地帳(平本家文書)によれば田二〇町八反余、畑二四町七反余、屋敷八反余。「寛文朱印留」には下総佐倉藩領に「吉田村」がみえ、寛政六年(一七九四)の吉田村明細帳(平本家文書)によれば慶安二年(一六四九)に改称。
平本家所蔵の吉田村年貢割付状によると寛永一〇年から天領、同一九年から佐倉藩領、元禄一一年(一六九八)から天領、享保三年(一七一八)から下総関宿藩領、明和六年(一七六九)から天領、安永三年(一七七四)から関宿藩領、天明五年(一七八五)から天領、同七年から明治四年(一八七一)まで関宿藩領。
吉田村
よしだむら
[現在地名]甲佐町吉田
東は芝原村、北は秋只村(現御船町)、西南は緑川を挟んで府領村に対する。加藤清正の緑川改修以前は左岸にあったが、改修後右岸になったと伝える(甲佐町史)。また「国誌」は、今の村地より北にあったが、緑川の洪水で年々罹災するため現在地に移ったと記している。慶長国絵図に村名がみえ、近世は甲佐手永に属した。宝暦一二年(一七六二)の甲佐手永手鑑では竈数四二・男九六・女八二、駄馬二三で、本高三一五石三斗余、田一町九反・畑一〇町七反七畝余、永荒田畑五町七反、新地田一三町六反九畝余・新地畑四反一畝余、諸開(一毛畝物・上畝物・定米畝物・剪開・野開・請藪)二町八反四畝余。
吉田村
よしだむら
[現在地名]神岡町吉田
高原川中流西岸、支流吉田川沿いに点在する農山村。吉田上・中・下、塩野の四集落に分れる。西の山田村へは杉越峠(すりこぎ峠)を越し、東は小萱村、北は釜崎村。元禄飛騨国検地反歩帳では高原郷に属し、高四一四石余、田二六町九反余・畑二〇町一反余。「飛騨国中案内」では免三割九分六厘余、家数六八(うち寺一・百姓四三・門屋二一・地借三)。
吉田村
よしだむら
[現在地名]吉川町前田
宮村の西に位置する。慶長国絵図に村名がみえる。正保郷帳では脇田村・宮村とともに御前田村一村で高付される。元禄郷帳では三村に分れており、「古ハ御前田村・上吉川」と注記され、高一五五石余。村高は幕末まで変わらない。分村頃と思われる延宝七年(一六七九)から延享三年(一七四六)までの領主の変遷は宮村に同じ。
吉田村
よしだむら
[現在地名]上磯郡上磯町押上一―二丁目・字押上
近世から明治一四年(一八八一)まで存続した村。函館平野西端の戸切地川下流右岸にある。安政五年(一八五八)箱館奉行所の中島辰三郎が幕府に建言し、越後国蒲原郡から吉田久次郎ら七名を移住させ、「最初官費ヲ以耕地ヲ開墾シ、当時村名ヲ付セス、官費ヲ以開墾スル所ナルヲ以御手作場ト称ス」(「沿革調」上磯町誌)という。なお吉田久次郎は農事特志者履歴書(上磯町蔵)では吉田由蔵。
吉田村
よしだむら
[現在地名]湯之谷村吉田・福島新田
西は井口新田、南は福島新田、東は大沢村、北は七日市村。正保国絵図に村名がみえ、高三〇六石余。宝暦五年(一七五五)の村明細帳(小千谷市立図書館蔵)では家数四九、男一二四・女一〇八。用水の吉田堰は、佐梨川の水を大沢村で取入れ、木山沢新田・七日市村・当村などを灌漑する。
吉田村
よしだむら
[現在地名]岡山市西隆寺
堀内村の東、とろの山(北)と向山(南)との間に位置する。北は竹原村。慶長一〇年(一六〇五)備前国高物成帳(備陽記)の浅越庄に村名があり、寛永備前国絵図では高一三九石余。「備陽記」によると田畠八町九反余、家数二一・人数一一六。文化年間の「岡山藩領手鑑」によれば直高二五六石余、蔵入と家臣三人の給地。
吉田村
よしだむら
[現在地名]加治川村吉田
今泉川左岸にあり、東は稲荷新村。寛文一三年(一六七三)の村上御領分組々村数并高付大庄屋付(大滝家文書)に村名があり、三日市組に属した。延宝九年(一六八一)頃の高反別免割家数人数帳(寛政一二年写、新発田市史資料)には高一二九石八斗余・反別一一町四反余、家数七・人数六五とあり、貞享元年(一六八四)の郷村高辻帳には高七〇石二斗余とある。
吉田村
よしだむら
[現在地名]海部町吉田
富田村の北に位置し、東を海部川が南流する。慶長二年(一五九七)の分限帳に「吉田村」とあり、高八〇石余が益田宮内丞の知行分。慶長年間のものと推定される国絵図に「よし田」、寛永(一六二四―四四)前期のものと推定される国絵図では「よし田村」と記される。正保国絵図では「吉田村」として高七八石余。寛文四年(一六六四)の郷村高辻帳では田方五一石余・畠方二六石余、水損の注記がある。天和二年(一六八二)の蔵入高村付帳では高八三石余。「阿波志」によれば、富田村の支落で、家数・人数ともに富田村のうち。
吉田村
よしだむら
[現在地名]東予市吉田
現東予市の南端、中山川の左岸に位置し、周敷村(現周布)の南にある。法安寺のあった北川村(現周桑郡小松町)から、古代に駅家があったとされる周敷村に至る沿道の村。かつては低湿地で、芦の生えた村であった。
慶安元年伊予国知行高郷村数帳(一六四八)の周布郡の項に「吉田村 日損所」とみえ、石高は田方四〇三石六斗八升四合、畠方二四八石六斗六升六合、計六五二石三斗五升と記され、うち八〇石二斗五升九合が松平隠岐守分(松山藩)、五七二石九升一合が一柳主膳分(小松藩)とある。
吉田村
よしだむら
[現在地名]平群町吉新一―四丁目
竜田川東岸に所在。北は梨本村。慶長郷帳の村高三二二・七二石、のち三二〇・四七八石。慶長六年(一六〇一)竜田藩(片桐且元)領、明暦元年(一六五五)幕府領、その後亡村となったらしい。まもなく村の再建がはかられ、吉田村(村高一五二・六八二石)と新家村(一六四・三〇一石)が成立した。
吉田村
よしだむら
[現在地名]池田市吉田町・伏尾台一―五丁目
古江村の北東にあり細郷の一村。村の南東端部を久安寺川が南西流する。村域の北部および西部は山地で、集落は山麓平地に点在。慶長一〇年(一六〇五)摂津国絵図に村名がみえる。元和初年の摂津一国高御改帳で細郷一千七四五石余の幕府領長谷川忠兵衛預に含まれ、以後幕末まで幕府領。
吉田村
よしだむら
[現在地名]中和村吉田
下和村の北に位置する山村で、中央部を下和川が南流、同川沿いに伯耆国へ至る街道が通る。正保郷帳では田高一四七石余・畑高二一石余。元禄一〇年(一六九七)の美作国郡村高辻帳によれば改出高五六石余・開高三二石余。元禄初頭の家数二八・人数一四二(作陽誌)。領主の変遷は初和村に同じ。
吉田村
よしだむら
[現在地名]松崎町吉田
建久寺村の北東、那賀川流域に位置する。北は山地。那賀郡に属する。慶長三年(一五九八)には田五町七反余・畑屋敷六町八反余(伊豆南西海岸)。江戸時代の初めは幕府領、元禄一一年(一六九八)旗本筑紫領となり幕末に至る(韮山町史)。元禄郷帳では高一二四石余。「掛川誌稿」によると高一二〇石余、戸数二〇・人数九〇。
吉田村
よしだむら
[現在地名]山添村大字吉田
名張川西方、広瀬村の北にある。名張川の奇勝吉田浦は俗に五月峡ともいわれた。近世初期、畑郷の内。慶長郷帳の村高一九〇・一五石。江戸時代を通じて旗本奥田氏(忠高系)領。
吉田村
よしだむら
[現在地名]内海町吉田
小豆島の最北端、藤崎と金ヶ崎に囲まれた吉田湾に面し、近世福田郷の枝村。島で有数の水量をもつ吉田川の流域にある小集落。宝暦明細帳では高二八石余(田一六石余・畑一二石余)・反別四町四反余(田一町七反余・畑二町七反余)、家数四九、牛六。
吉田村
よしだむら
[現在地名]橿原市吉田町
畝傍山西南麓、大谷村の南に立地。三箇院家抄(内閣文庫蔵大乗院文書)に「中吉田庄 高市郡 寺門反畝二丁八反」とある。また興福寺雑役免田吉殿庄は当村にも及んでいた(→吉殿庄)。
吉田村
よしだむら
[現在地名]作東町吉田
日指村の西、吉野川左岸に立地。南は川崎村、北は鯰村。正保郷帳に村名がみえ、田二八石余・畑四石余。元禄一〇年(一六九七)の美作国郡村高辻帳では改出高六石余・開高四石余、村位は下。
吉田村
よしだむら
[現在地名]秋田市金足吉田
片田村の支郷福田より南に入る沢に沿って集落があり、新城小友村とは山境をなす。
正保四年(一六四七)の出羽一国絵図では七〇石の小村。享保一五年(一七三〇)の「六郡郡邑記」に家数一六軒とあり、文化(一八〇四―一八)頃の「六郡郷村誌略」には「高百五十石六斗九升、免五ツ、家居十八戸、人九十一口、黒川へ山越の道植立杉凡三万本あり」と記す。
吉田村
よしだむら
[現在地名]明野町吉田
南は竹垣村・古内村、西は下川中子村。中世は四保氏が支配し、同氏は南北朝期に北朝方に立ったため、北畠親房に攻められ滅亡したと伝える(杉山私記)。
吉田村
よしだむら
[現在地名]和島村吉田
辺張村の北に続く村田村の枝郷。正保国絵図にはみえない。支配は村田村と同様と思われる。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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