日本歴史地名大系 「吉田村」の解説
吉田村
よしだむら
山形県側に山頂のある
吉田村
よしだむら
吉田村
よしだむら
- 島根県:安来市
- 吉田村
正保国絵図に村名がみえ、明暦二年(一六五六)の検地帳によると、田一〇四町三反余・分米一千二一三石余、畑一三町八反余・分米七一石余、屋敷数四七(うち三五は御役目屋敷)。
吉田村
きつたむら
- 岐阜県:関市
- 吉田村
吉田村
よしだむら
- 山口県:下関市
- 吉田村
現下関市の最東部にあたり、村の西側を
「和名抄」厚狭郡に「良田郷」とみえ、「与之多」と訓じていることから、この吉田村辺りが比定されている。享禄二年(一五二九)三月の大内義隆安堵状(西福寺文書)に「厚狭郡吉田庄西福寺事」とみえる。永禄三年(一五六〇)二月一三日付の氷上山興隆寺文書(「寺社証文」所収)に
とみえ、「吉田郡」は
慶長五年(一六〇〇)の検地帳に「吉田村」とみえ、同一五年の検地帳によれば、総石高五千一九三石余、うち田面積一九六町余で石高三千一四二石余、畠面積五九町余で石高二三〇石余、百姓屋敷二〇九、市屋敷四八であった。
吉田村
よしたむら
河内郡に属し、北は
吉田村
よしだむら
- 宮城県:名取市
- 吉田村
高館丘陵の北東麓、西部山間から東流する
吉田村
よしだむら
現吉井町域の南部に位置し、
吉田村
よしだむら
北は
元和四年(一六一八)の長岡藩知行目録は高七八九石七斗余、正保国絵図は八六四石余。江戸時代を通して長岡藩領。慶安二年(一六四九)と寛文年間(一六六一―七三)の検地で村高は九二〇石二斗(本途八八三石七斗・新田三六石四斗)、畑三八石七斗(大島)、下畑三〇石六斗(大島)、下田二三石三斗(見対)となった。
吉田村
よしたむら
鹿島郡と
承久三年(一二二一)九月六日の能登国田数注文に吉田保がみえ、同元年の国衙の検注で公田数が五町二段三(もと五町七段九)と定められたとある。吉田保は、田数注文の鹿島郡での配列順から現吉田・
吉田村
よしだむら
- 茨城県:水戸市
- 吉田村
水戸城下の南、
大宝元年(七〇一)から和銅三年(七一〇)と推定される藤原宮出土木簡に「□□□大真目 仲郡吉田里人」とあり、天平勝宝四年(七五二)の白布墨書(正倉院御物)に「常陸国那珂郡吉田郷戸主君子部忍麻呂戸君子部真石調布壱端」とある。
吉田村
よしだむら
元和五年(一六一九)の安芸国知行帳では、吉田村一四一二・五八八石、
吉田村
よしだむら
吉田村
よしだむら
板野郡の西端、
吉田村
よしだむら
吉田村
よしだむら
- 京都市:左京区
- 吉田村
東は
吉田村の名は「中右記」天仁元年(一一〇八)一〇月三日条に禊をする地を述べた中で「件知土風者召前庭、問郷名、愛宕郡錦織郷吉田村者
村内神楽岡には、吉田神社が貞観年中(八五九―八七七)に建立された。
吉田村
よしだむら
東は
嘉元四年(一三〇六)九月二七日の崇演(北条貞時)寄進状(県史二)では「山内庄吉田郷内田壱町・在家壱
吉田村
よしだむら
吉田村
よしだむら
吉田村
よしだむら
村域は南北一一町・東西二〇町(元文五年「村明細帳」小笠原高雄家文書)。西隣の
吉田村
よしだむら
吉田村
よしだむら
吉田村
よしだむら
吉田村
よしだむら
永禄八年(一五六五)一一月の武田信玄の諏訪社上社造営再興次第(諏訪大社上社文書)に、大宮御門屋之造宮領、
吉田村
よしだむら
- 新潟県:三条市
- 吉田村
吉田村
よしだむら
- 山口県:山口市
- 吉田村
昭和四一年(一九六六)縄文晩期から古墳時代にかけての住居跡が発見され、この地に古代村落のあったことが確認された。氏神の
吉田村
よしたむら
最上川南岸にあり、北から西は
吉田村
よしだむら
- 滋賀県:草津市
- 吉田村
吉田村
よしだむら
吉田村
よしだむら
- 千葉県:八日市場市
- 吉田村
香取郡に属し、
吉田村
よしだむら
北は
観応元年(一三五〇)八月一五日、源秋田城之介泰長が平鹿郡明江山
元和元年(一六一五)樋口村肝煎ならびに
吉田村
よしだむら
吉田村
よしだむら
- 富山県:黒部市
- 吉田村
東は
吉田村
よしだむら
吉田村
よしだむら
- 長野県:中野市
- 吉田村
延文二年(一三五七)一〇月、高梨永高が吉田郷を
吉田村
よしだむら
吉田村
よしだむら
吉田村
よしだむら
明石川下流右岸の平坦地に立地し、西部は段丘。西は
吉田村
よしだむら
吉田村
よしだむら
吉田村
よしだむら
吉田村
よしだむら
吉田村
よしだむら
吉田村
よしだむら
吉田村
よしだむら
吉田村
よしだむら
- 兵庫県:三木市
- 吉田村
吉田村
よしだむら
吉田村
よしだむら
吉田村
よしだむら
吉田村
よしだむら
東は
鎌倉時代は隣郷赤木の地頭赤木氏が地頭職をもち、嘉元三年(一三〇五)、赤木家忠の遺領吉田郷をめぐる争論の幕府裁定がある(岡山県赤木家文書)。その後、守矢文書によると諏訪領となり、元弘二年(一三三二)諏訪時継は吉田・赤木両郷を諏訪社上社へ寄進したと伝える。
吉田村
よしだむら
吉田村
よしだむら
- 長野県:長野市
- 吉田村
北国脇往還に沿ってできた街村。善光寺の東北に位置する。
明徳三年(一三九二)の「高梨薩摩守朝高并一族以下被付給人所々注文」(高梨文書)に、「
吉田村
よしだむら
- 島根県:飯石郡
- 吉田村
県の南東部、奥出雲の一画、斐伊川・
吉田村
よしだむら
文禄四年(一五九五)の検地による村高三一四・一八石。近世初期は山口勘兵衛組領。のち幕府領(代官小野喜左衛門)。延宝七年(一六七九)の再検地で村高四〇二・六石。宝暦一二年(一七六二)から清水御領知、のち幕府領。さらに文政七年(一八二四)から安政二年(一八五五)まで清水御領知で、幕末には幕府領に編入されている。「吉田備前は水つき所」といわれるように布留川と初瀬川の合流点の水損場で、早いところでは寛永二年(一六二五)に
吉田村
よしだむら
吉田村
よしだむら
吉田村
よしだむら
- 福岡県:八女市
- 吉田村
吉田村
よしだむら
慶長検地高目録によれば村高三三二石余、小物成四升九合。山崎組に属し、正徳元年(一七一一)の山崎組定免所指出帳(増田家蔵)によると田一四町七反余で高二五七石余、畑五町二反余で高七五石余。
吉田村
よしだむら
吉田村
よしだむら
吉田村
よしだむら
吉田村
よしだむら
吉田村
よしだむら
吉田村
よしだむら
- 静岡県:伊東市
- 吉田村
東は
吉田村
よしだむら
吉田村
よしだむら
- 長崎県:福江市
- 吉田村
吉田村
よしだむら
吉田村
よしだむら
吉田村
よしだむら
吉田村
よしたむら
吉田村
よしだむら
- 京都府:亀岡市
- 吉田村
吉田村
よしだむら
吉田村
よしだむら
- 埼玉県:川越市
- 吉田村
吉田村
よしだむら
吉田村
よしだむら
吉田村
よしだむら
吉田村
よしだむら
- 岡山県:笠岡市
- 吉田村
吉田村
よしだむら
吉田村
よしだむら
吉田村
よしだむら
吉田村
よしだむら
吉田村
よしだむら
吉田村
よしだむら
吉田村
よしだむら
- 高知県:南国市
- 吉田村
吉田村
よしだむら
吉田村
よしだむら
- 大分県:竹田市
- 吉田村
大野川上流にあり、
吉田村
よしだむら
- 茨城県:取手市
- 吉田村
北相馬台地東の平坦地に位置する純農村。北の
平本家所蔵の吉田村年貢割付状によると寛永一〇年から天領、同一九年から佐倉藩領、元禄一一年(一六九八)から天領、享保三年(一七一八)から下総関宿藩領、明和六年(一七六九)から天領、安永三年(一七七四)から関宿藩領、天明五年(一七八五)から天領、同七年から明治四年(一八七一)まで関宿藩領。
吉田村
よしだむら
東は
吉田村
よしだむら
吉田村
よしだむら
吉田村
よしだむら
吉田村
よしだむら
吉田村
よしだむら
吉田村
よしだむら
吉田村
よしだむら
吉田村
よしだむら
- 愛媛県:東予市
- 吉田村
現東予市の南端、
慶安元年伊予国知行高郷村数帳(一六四八)の周布郡の項に「吉田村 日損所」とみえ、石高は田方四〇三石六斗八升四合、畠方二四八石六斗六升六合、計六五二石三斗五升と記され、うち八〇石二斗五升九合が松平隠岐守分(松山藩)、五七二石九升一合が一柳主膳分(小松藩)とある。
吉田村
よしだむら
吉田村
よしだむら
- 大阪府:池田市
- 吉田村
吉田村
よしだむら
吉田村
よしだむら
吉田村
よしだむら
吉田村
よしだむら
吉田村
よしだむら
吉田村
よしだむら
吉田村
よしだむら
吉田村
よしだむら
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報