森田太郎兵衛(読み)もりた たろべえ

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「森田太郎兵衛」の解説

森田太郎兵衛 もりた-たろべえ

?-1665*? 江戸時代前期の歌舞伎座元。
芸名は宇奈木(うなぎ),通称うなぎ太郎兵衛。小唄作りの名手だった。万治(まんじ)3年(1660)興行をゆるされ,江戸森田座(のち守田座)をひらく。役者の初代坂東又九郎を相談相手とし,その次男養子(初代森田勘弥(かんや))として名代をゆずった。寛文4年12月29日?死去

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

朝日日本歴史人物事典 「森田太郎兵衛」の解説

森田太郎兵衛

生年生没年不詳
江戸前期の江戸森田座の創始者。俗称うなぎ太郎兵衛。小唄,文作(即席洒落や地口)の名手として知られていたが,万治3(1660)年,櫓を許されて木挽町5丁目で興行を始めた。上方の道外形坂東又九郎の次男を森田太七(のち勘弥)として養子に迎え,座元とした。2代目太郎兵衛は8代目森田勘弥の前名。

(今西晶子)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内の森田太郎兵衛の言及

【座元(座本)】より

…櫓主,太夫元ともいう。江戸では,1624年(寛永1)に猿若(中村)勘三郎が幕府に願い出て,中橋での興行を許されたのが座元の始まりで,以後,都伝内,村山又三郎,山村小兵衛(長太夫),河原崎権之助,森田太郎兵衛,玉川新十郎がそれぞれ劇場を立てて座元となった。57年(明暦3)の江戸大火後,中村勘三郎,市村宇(羽)左衛門,森田勘弥,山村長太夫の4人に限り座元として興行することが許されたが,1714年(正徳4)の江島生島事件で山村長太夫が官許を取り消され,山村座は廃絶した。…

【守田座(森田座)】より

…江戸三座の一つ。1660年(万治3)森田太郎兵衛によって,木挽町に創設されたが,61年(寛文1)太郎兵衛は引退し,坂東又九郎の次男又七を養子として森田勘弥を名のらせ太夫元にし,又九郎に座元を譲ったという。しかし創設の経過については明らかでない部分が多い。…

※「森田太郎兵衛」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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