横田永之助(読み)ヨコタ エイノスケ

20世紀日本人名事典 「横田永之助」の解説

横田 永之助
ヨコタ エイノスケ

明治〜昭和期の映画興行師 日活社長;京都商工会議所会頭。



生年
明治5年4月(1872年)

没年
昭和18(1943)年3月29日

出生地
京都府京都市岡崎町

学歴〔年〕
札幌農学校卒

経歴
明治19年上京。のちサンフランシスコ・パシフィック・ビジネス・カレッジに学び、帰国後神戸内外物産貿易に入社。米国でリュミエールシネマトグラフX線を手に入れ、33年からフランスのパテー会社の映画を輸入、映画興業のための横田商会創立日露戦争で報道記録映画を作り、映画興行師の草分けの一人となった。牧野省三尾上松之助を世に送ったことでも有名。大正元年日活トラストが出来て日活重役、昭和2年社長となった。3年即位大礼叙勲の際、賞勲局疑獄連座。9年有罪となり、同年社長を辞任して相談役に。また横田保全、京都の岐阜戸池興業各社長、京都商工会議所会頭も務めた。

出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「横田永之助」の解説

横田永之助 よこた-えいのすけ

1872-1943 明治-昭和時代前期の映画製作者。
明治5年4月生まれ。30年フランスのシネマトグラフを手にいれ各地で興行する。のち兄万寿之助と横田商会を設立,日露戦争の実写や尾上松之助主演映画の製作を手がけた。昭和2年日本活動写真(日活)社長。昭和18年3月29日死去。72歳。京都出身。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

世界大百科事典(旧版)内の横田永之助の言及

【日本映画】より

…1909年7月31日付の《万朝報(よろずちようほう)》は〈活動写真の全盛〉と題する記事で,〈近来活動写真の流行は殆んど極点に達して居る。昨日まで出来た常設館の数は東京市内だけでも七十ヶ所以上に出で,興行資金に数十万円を運転してゐるとの事だ〉と書き,8月9日付の続稿では〈恁くも盛に流行して居る活動写真の材料を差し替引き替供給してゐる〉のは〈全国でか三人〉だとして,横田商会の横田永之助(1872‐1943),Mパテー商会の梅屋庄吉,吉沢商店の河浦謙一の名を挙げている。翌10年にはこれに福宝堂が加わって,4社による映画の輸入・製作・配給がいよいよ盛んになった。…

【売勲事件】より

…賞勲局疑獄ともいう。私的に巨額な負債を負って苦しんでいた天岡は,1928年11月の天皇即位大礼を機に行われた大幅な叙勲に際し,東京商工会議所会頭藤田謙一,日活社長横田永之助,日魯漁業会長堤清六らから叙勲の報酬として収賄した。この事実は浜口雄幸民政党内閣のもとで摘発されたが,勲章を売るという衝撃的な事件のため,政党内閣の下で相次いだ他の疑獄事件とあわせて,既成政党と財界の腐敗を世間に強く印象づけることとなった。…

※「横田永之助」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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