出典 日外アソシエーツ「新撰 芸能人物事典 明治~平成」(2010年刊)新撰 芸能人物事典 明治~平成について 情報
明治期の映画俳優,映画監督 時代劇映画スターの元祖。
出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報
映画俳優。大きな目玉をぎょろりとむいて〈目玉の松ちゃん〉の愛称で親しまれた活動写真時代の時代劇(まだ〈旧劇〉と呼ばれていた)の大スター。とんぼを切り,見得を切り,ケレンがうまく,歌舞伎の当り狂言から忍術映画に至るまで,その主演映画はすべて〈松之助映画〉と呼ばれた。岡山市生れ。子ども芝居の舞台から旅役者を経て,牧野省三が経営する京都の千本座に出演。1909年,《碁盤忠信・源氏礎》を皮切りに,横田永之助(横田商会)の依頼で,牧野省三監督と組んで〈活動写真〉を撮り始め,やがて日活が創立(1912)されるとたちまち日活京都旧劇の大スターになった。牧野省三と仲たがいしたあとは,義弟(妹の夫)にあたる池田富保監督と組んで次々に作品を発表,25年,大作《荒木又右衛門》(松之助の〈1000本映画〉であった)が日活創設以来の大ヒットを飛ばした。26年,心臓病のため52歳で死去。死の直前には〈自己の限界を知り〉〈これからは阪東妻三郎の時代〉になることを予感し,旧劇から新しい〈時代劇〉に移っていく流れをしっかりと見据えていたという。
執筆者:広岡 勉
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
(長崎一)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報
映画俳優。本名中村鶴三。岡山市生まれ。歌舞伎(かぶき)俳優を志し、若いころより舞台に立ったが、巡業先で映画監督牧野省三にみいだされ、映画俳優となる。1909年(明治42)『碁盤忠信(ごばんただのぶ)』に初出演。以来、忍術映画や豪傑物、また侠客(きょうかく)物などに主役を演じ、身の軽さから大立回りなどにうまみをみせ、たちまちアイドル・スターとなる。大きな目をむいての大見得が独得の魅力となり、「目玉の松ちゃん」の愛称で親しまれ、サイレント期の時代劇映画に活躍した。出演作品数が1000本を超えるという記録をもち、日本映画俳優史には欠かせぬ人物である。代表作に『豪傑児雷也(じらいや)』(1921)、『荒木又右衛門(またえもん)』(1925)、『忠臣蔵』(1926)などがある。
[長崎 一]
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
1875.9.12~1926.9.11
明治・大正期の映画俳優。本名中村鶴三。岡山市出身。歌舞伎俳優として地方巡業中牧野省三に見いだされ映画界に入る。1909年(明治42)「碁盤忠信」でデビューした。以後英雄豪傑ものや忍術映画など数多くの時代劇に活躍し,出演作品は死去するまでに1000本といわれる。「目玉の松ちゃん」の愛称で大衆に愛された。おもな出演作「自来也」「荒木又右衛門」。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報
…強盗が格闘ののちに刑事に逮捕されるという内容からして,まさしく活劇以外のなにものでもなかった。次いで,最初の映画監督牧野省三と,1909年の同監督作品《碁盤忠信》でデビューした最初の映画スター尾上松之助とのコンビが量産した約500本の映画も,ほとんどが忍術や立回りを中心としたもので,活劇と呼んでいい。こうした活劇の素地に,さらに外国映画の影響があった。…
…映画が活動写真と呼ばれていたように時代劇映画という呼称はまだなく,現代ものの〈新派〉に対して〈旧劇〉と呼ばれていた。この旧劇ブームの中心になったのは映画スター第1号の〈目玉の松ちゃん〉こと尾上松之助で,1909年のデビュー作《碁盤忠信・源氏礎》以来,おもに映画監督第1号の牧野省三と組んで,12年に創立された本格的な映画会社第1号の日活(日本活動写真株式会社)を舞台に,26年に死ぬまで,1000本以上の作品に出演して,絶大な人気を博した。これ以前の映画は歌舞伎や新派演劇の模写がほとんどであったから,尾上松之助を中心とする旧劇ブームとは,すなわち映画らしい映画の隆盛を意味した。…
…1927年製作の伊藤大輔原作・脚本・監督の時代劇映画で,〈第一部甲州殺陣篇〉〈第二部信州血笑篇〉〈第三部御用篇〉からなる三部作。伊藤大輔の証言によれば(加藤泰編《時代劇映画の詩と真実》),当時,日活の〈重役さん〉と呼ばれた大スター尾上松之助が,〈仁義に富んだ〉忠次を演じた任俠映画に対して,これは〈無頼漢〉の忠次映画であるとして当初,反対されたため,企画を実現するためにまず初めに〈第一部甲州殺陣篇〉と題する〈無意味な〉立回りを撮り,のちに三部作をまとめて,再編集をするとき切り捨ててしまったという。〈第三部御用篇〉は,伊藤大輔が唐沢弘光カメラマンと組み,〈移動大好き〉と呼ばれて時代劇のスタイルに新風を吹き込むことになる名コンビの第1作である。…
… 最初の忠臣蔵映画は,1907年に吉沢商店がつくった《忠臣蔵五段目》であるが,これは11世片岡仁左衛門の与市兵衛・定九郎・勘平三役による歌舞伎映画であった。その後1910年,横田商会で映画スター第1号である尾上松之助の主演で《大石内蔵助一代記》がつくられ,つづいて同年,同じ横田商会が牧野省三監督,尾上松之助の浅野内匠頭・大石内蔵助・清水一角三役で,映画ではじめての〈忠臣蔵〉全通しである《忠臣蔵》をつくった。牧野省三,尾上松之助のコンビは,こののちも日活で,同社の創立記念作品《忠臣蔵》(1912),《仮名手本忠臣蔵》(1917),最初の超大作といえる《実録忠臣蔵》(1921)など,何度も〈忠臣蔵〉を映画化した。…
…翌10年にはこれに福宝堂が加わって,4社による映画の輸入・製作・配給がいよいよ盛んになった。各社とも撮影所をもったため,風景や戦争や白瀬中尉の南極探検などの実写作品のほかに,劇映画が多くつくられるようになり,それらも歌舞伎劇や新派劇をほとんどそのまま実写したようなものではあったが,弁士の説明によるドラマ性の盛上げもあって,多大の観客を集め,そのなかから最初のスター尾上松之助を生み出すとともに,日本映画の主流は実写作品から劇映画へと移っていった。
【牧野省三と日活――映画企業の始まり】
[松之助映画のブーム]
1912年,吉沢商店,横田商会,Mパテー商会,福宝堂の4社が合併して,日本活動写真株式会社(日活)が誕生した。…
…25歳で千本座という芝居小屋の経営者となり,活動写真業者の横田永之助を知って,その依頼で,1908年,映画《本能寺合戦》を撮り,以後300本を超えるチャンバラ時代劇(当時は〈旧劇〉と呼ばれた)をつくって,日本映画独自のジャンルを確立した。とくに尾上松之助を発見して〈目玉の松ちゃん〉の愛称で呼ばれる日本最初のスターに仕上げ,〈忍術映画〉の数々のトリックを考え出し,〈松之助映画〉の全盛時代をつくった。省三の映画作法は〈一スジ,二ヌケ,三動作〉という名言によって知られる。…
※「尾上松之助」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
宇宙事業会社スペースワンが開発した小型ロケット。固体燃料の3段式で、宇宙航空研究開発機構(JAXA)が開発を進めるイプシロンSよりもさらに小さい。スペースワンは契約から打ち上げまでの期間で世界最短を...
12/17 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新
11/21 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新
10/29 小学館の図鑑NEO[新版]動物を追加
10/22 デジタル大辞泉を更新
10/22 デジタル大辞泉プラスを更新