尾上松之助(読み)オノエマツノスケ

デジタル大辞泉 「尾上松之助」の意味・読み・例文・類語

おのえ‐まつのすけ〔をのへ‐〕【尾上松之助】

[1875~1926]映画俳優岡山の生まれ。本名、中村鶴三。牧野省三監督に見いだされ、多く時代劇に主演し、「目玉の松ちゃん」の愛称で親しまれた。

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精選版 日本国語大辞典 「尾上松之助」の意味・読み・例文・類語

おのえ‐まつのすけ【尾上松之助】

  1. 映画俳優。本名中村鶴三。岡山県出身。歌舞伎から転向して英雄豪傑、忍者ものなど多くの時代劇に主演し「目玉の松ちゃん」の愛称で一時代を画した。明治八~大正一五年(一八七五‐一九二六

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新撰 芸能人物事典 明治~平成 「尾上松之助」の解説

尾上 松之助(2代目)
オノエ マツノスケ


職業
映画俳優 映画監督

本名
中村 鶴三

別名
前名=尾上 鶴三郎,尾上 多鶴,監督名=公木 之雄(コウキ コレオ)

生年月日
明治8年 9月12日

出生地
岡山県 岡山市

学歴
環翠小学校高等科卒

経歴
父は士族だったが、明治維新後は貸座敷業を経営。母は芸事が好きで、近所の芝居小屋・旭座に出入りする役者たちの面倒をみていたことから、5歳の時に同座に出演した尾上多見蔵一座の芝居で初舞台を踏んだ。小学校高等科を卒業後、呉服屋に奉公に出されたが、芝居の味が忘れられず、旅役者一行に加わり各地を巡業。明治25年尾上鶴三郎を名乗り、37年2代目尾上松之助を襲名。関西巡業中、牧野省三に認められ、42年牧野が運営する京都千本座に出演。この年、牧野が横田商会(のち日活)と映画の製作契約を復活し、牧野監督「碁盤忠信」で忠信役を演じて映画初出演。とんぼ返りを得意として“トンボ松”と異名を取るほどの軽い身のこなしで、特にトリック撮影を用いた忍術映画において目を見開いて見得を切る演技から“目玉の松ちゃん”の愛称で呼ばれ、日本史上の英雄・豪傑・義人・侠客を演じて人々から絶大な人気を集め、日本映画初の大スターとなった。大正9年牧野の後任として日活京都撮影所所長、12年演芸部長となり、“重役スター”として“松之助”の名を並び替えた“公木之雄”の名で総指揮・監督・主演を一人でこなすこともあった。横田商会・日活を通して生涯に1000本を超える映画に出演したとされ、晩年は人気も下り坂となったが、14年義弟の池田富保が監督した1000本記念作「荒木又右衛門」は大ヒットとなった。代表作に「児雷也」「落花の舞」「忠臣蔵」などがあり、監督も手がけた作品に「憂国の志士」「血涙の記」など。口述による「尾上松之助自叙伝」もある。

受賞
藍綬褒章〔大正13年〕 赤十字有功章〔大正13年〕

没年月日
大正15年 9月11日 (1926年)

親族
義弟=尾上 松三郎(俳優)

伝記
怪奇と幻想への回路―怪談からJホラーへ増殖するペルソナ―映画スターダムの成立と日本近代時代劇の色気時代劇伝説―チャンバラ映画の輝き殺陣―チャンバラ映画史 内山 一樹 編藤木 秀朗 著島野 功緒 著岩本 憲児 編永田 哲朗 著(発行元 森話社名古屋大学出版会講談社森話社社会思想社 ’08’07’07’05’93発行)

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20世紀日本人名事典 「尾上松之助」の解説

尾上 松之助(2代目)
オノエ マツノスケ

明治期の映画俳優,映画監督 時代劇映画スターの元祖。



生年
明治8年9月12日(1875年)

没年
大正15(1926)年9月11日

出生地
岡山県岡山市西中島町

本名
中村 鶴三

別名
愛称=目玉の松ちゃん(メダマノマッチャン),前名=尾上 鶴三郎,尾上 多鶴,別名(監督)=公木 之雄(コウキ コレオ)

学歴〔年〕
環翠高小

経歴
5歳の時、岡山旭座で尾上多見蔵一座の「寺小屋」で初舞台。その後は旅役者で各地を巡業。明治37年2代目尾上松之助を襲名。関西巡業中、牧野省三に認められ、京都千本座に出演、横田商会(後の日活)に入社。42年「碁盤忠信」に映画初出演。以来、英雄、豪傑、義人、俠客から忍者映画に“目玉の松ちゃん”の人気は高まり、死去するまでに1000本の時代劇に出演した。大ヒットした1000本記念の「荒木又右衛門」のほか「自萊也」「落花の舞」「忠臣蔵」などが代表作。大正9年牧野の後任として日活京都撮影所所長となり、10〜12年取締役。“重役スター”として監督・主演を一人でこなす。公木之雄・中村鶴三名儀の監督作品に「憂国の志士」「三河武士」「血涙の記」(大正13年)「慕ひ行く影」(14年)がある。著書に「尾上松之助自叙伝」(口述)。

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改訂新版 世界大百科事典 「尾上松之助」の意味・わかりやすい解説

尾上松之助 (おのえまつのすけ)
生没年:1875-1926(明治8-昭和1)

映画俳優。大きな目玉をぎょろりとむいて〈目玉の松ちゃん〉の愛称で親しまれた活動写真時代の時代劇(まだ〈旧劇〉と呼ばれていた)の大スター。とんぼを切り,見得を切り,ケレンがうまく,歌舞伎の当り狂言から忍術映画に至るまで,その主演映画はすべて〈松之助映画〉と呼ばれた。岡山市生れ。子ども芝居の舞台から旅役者を経て,牧野省三が経営する京都の千本座に出演。1909年,《碁盤忠信・源氏礎》を皮切りに,横田永之助(横田商会)の依頼で,牧野省三監督と組んで〈活動写真〉を撮り始め,やがて日活が創立(1912)されるとたちまち日活京都旧劇の大スターになった。牧野省三と仲たがいしたあとは,義弟(妹の夫)にあたる池田富保監督と組んで次々に作品を発表,25年,大作《荒木又右衛門》(松之助の〈1000本映画〉であった)が日活創設以来の大ヒットを飛ばした。26年,心臓病のため52歳で死去。死の直前には〈自己の限界を知り〉〈これからは阪東妻三郎の時代〉になることを予感し,旧劇から新しい〈時代劇〉に移っていく流れをしっかりと見据えていたという。
執筆者:

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朝日日本歴史人物事典 「尾上松之助」の解説

尾上松之助

没年:大正15.9.11(1926)
生年:明治8.9.12(1875)
明治大正期の映画俳優,日本最初の大スター。岡山市生まれ。本名中村鶴三。幼いころより舞台に立ち,旅芝居の役者になり一座を率いて地方巡業をしていたが,映画監督の牧野省三の招きで映画界に入る。「碁盤忠信」(1909)がデビュー作。第3作「石山軍記」で目をギョロリとさせて睨みをきかせたのが人気を呼び,以来「目玉の松ちゃん」の愛称で親しまれる。以後牧野のもとで立ち回りや忍術を中心とする多くの時代劇映画に出演,特にトリック撮影による忍術映画で年少ファンのアイドルとなった。英雄,豪傑,義人,侠客などあらゆる主人公に扮し,横田商会,日活の2社を通して出演作品は1000本といわれる。主な出演作品に「自雷也」「落花の舞」「荒木又右衛門」「忠臣蔵」など。京都の等持院に葬られた。<著作>『尾上松之助自叙伝』

(長崎一)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

日本大百科全書(ニッポニカ) 「尾上松之助」の意味・わかりやすい解説

尾上松之助
おのえまつのすけ
(1875―1926)

映画俳優。本名中村鶴三。岡山市生まれ。歌舞伎(かぶき)俳優を志し、若いころより舞台に立ったが、巡業先で映画監督牧野省三にみいだされ、映画俳優となる。1909年(明治42)『碁盤忠信(ごばんただのぶ)』に初出演。以来、忍術映画や豪傑物、また侠客(きょうかく)物などに主役を演じ、身の軽さから大立回りなどにうまみをみせ、たちまちアイドル・スターとなる。大きな目をむいての大見得が独得の魅力となり、「目玉の松ちゃん」の愛称で親しまれ、サイレント期の時代劇映画に活躍した。出演作品数が1000本を超えるという記録をもち、日本映画俳優史には欠かせぬ人物である。代表作に『豪傑児雷也(じらいや)』(1921)、『荒木又右衛門(またえもん)』(1925)、『忠臣蔵』(1926)などがある。

[長崎 一]


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百科事典マイペディア 「尾上松之助」の意味・わかりやすい解説

尾上松之助【おのえまつのすけ】

映画俳優。本名中村鶴三。岡山市生れ。旅役者などを経て,1909年牧野省三に見いだされデビュー。映画草創期の時代劇スターとして1000本以上の作品に出演。忍術映画やチャンバラ映画の英雄に扮(ふん)し〈目玉の松ちゃん〉の愛称で人気があった。
→関連項目時代劇映画にっかつ(日活)[株]牧野省三

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「尾上松之助」の解説

尾上松之助
おのえまつのすけ

1875.9.12~1926.9.11

明治・大正期の映画俳優。本名中村鶴三。岡山市出身。歌舞伎俳優として地方巡業中牧野省三に見いだされ映画界に入る。1909年(明治42)「碁盤忠信」でデビューした。以後英雄豪傑ものや忍術映画など数多くの時代劇に活躍し,出演作品は死去するまでに1000本といわれる。「目玉の松ちゃん」の愛称で大衆に愛された。おもな出演作「自来也」「荒木又右衛門」。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「尾上松之助」の意味・わかりやすい解説

尾上松之助
おのえまつのすけ

[生]1875.9.18. 岡山
[没]1926.9.11. 京都
映画俳優。本名中村鶴三。最初歌舞伎俳優であったが,牧野省三監督に見出され,1909年『碁盤忠信』で映画界入り。以来 1000本以上の剣劇映画に出演,愛称「目玉の松ちゃん」でファンの人気を得,日本映画初の大スターとなった。出演作品は『自来也』 (1916) ,『落花の舞』 (25) ,『荒木又右衛門』 (25) など。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「尾上松之助」の解説

尾上松之助 おのえ-まつのすけ

1875-1926 明治-大正時代の映画俳優。
明治8年9月12日生まれ。旅役者となり,明治37年2代尾上松之助を襲名。牧野省三にみとめられ42年映画界にはいる。人気スター「目玉の松ちゃん」として,約1000本の時代劇映画に出演した。大正15年9月11日死去。52歳。岡山県出身。本名は中村鶴三。出演作品に「荒木又右衛門」「忠臣蔵」など。

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367日誕生日大事典 「尾上松之助」の解説

尾上 松之助(2代目) (おのえ まつのすけ)

生年月日:1875年9月12日
明治時代の歌舞伎役者;映画俳優
1926年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内の尾上松之助の言及

【活劇映画】より

…強盗が格闘ののちに刑事に逮捕されるという内容からして,まさしく活劇以外のなにものでもなかった。次いで,最初の映画監督牧野省三と,1909年の同監督作品《碁盤忠信》でデビューした最初の映画スター尾上松之助とのコンビが量産した約500本の映画も,ほとんどが忍術や立回りを中心としたもので,活劇と呼んでいい。こうした活劇の素地に,さらに外国映画の影響があった。…

【時代劇映画】より

…映画が活動写真と呼ばれていたように時代劇映画という呼称はまだなく,現代ものの〈新派〉に対して〈旧劇〉と呼ばれていた。この旧劇ブームの中心になったのは映画スター第1号の〈目玉の松ちゃん〉こと尾上松之助で,1909年のデビュー作《碁盤忠信・源氏礎》以来,おもに映画監督第1号の牧野省三と組んで,12年に創立された本格的な映画会社第1号の日活(日本活動写真株式会社)を舞台に,26年に死ぬまで,1000本以上の作品に出演して,絶大な人気を博した。これ以前の映画は歌舞伎や新派演劇の模写がほとんどであったから,尾上松之助を中心とする旧劇ブームとは,すなわち映画らしい映画の隆盛を意味した。…

【忠次旅日記】より

…1927年製作の伊藤大輔原作・脚本・監督の時代劇映画で,〈第一部甲州殺陣篇〉〈第二部信州血笑篇〉〈第三部御用篇〉からなる三部作。伊藤大輔の証言によれば(加藤泰編《時代劇映画の詩と真実》),当時,日活の〈重役さん〉と呼ばれた大スター尾上松之助が,〈仁義に富んだ〉忠次を演じた任俠映画に対して,これは〈無頼漢〉の忠次映画であるとして当初,反対されたため,企画を実現するためにまず初めに〈第一部甲州殺陣篇〉と題する〈無意味な〉立回りを撮り,のちに三部作をまとめて,再編集をするとき切り捨ててしまったという。〈第三部御用篇〉は,伊藤大輔が唐沢弘光カメラマンと組み,〈移動大好き〉と呼ばれて時代劇のスタイルに新風を吹き込むことになる名コンビの第1作である。…

【忠臣蔵映画】より

… 最初の忠臣蔵映画は,1907年に吉沢商店がつくった《忠臣蔵五段目》であるが,これは11世片岡仁左衛門の与市兵衛・定九郎・勘平三役による歌舞伎映画であった。その後1910年,横田商会で映画スター第1号である尾上松之助の主演で《大石内蔵助一代記》がつくられ,つづいて同年,同じ横田商会が牧野省三監督,尾上松之助の浅野内匠頭・大石内蔵助・清水一角三役で,映画ではじめての〈忠臣蔵〉全通しである《忠臣蔵》をつくった。牧野省三,尾上松之助のコンビは,こののちも日活で,同社の創立記念作品《忠臣蔵》(1912),《仮名手本忠臣蔵》(1917),最初の超大作といえる《実録忠臣蔵》(1921)など,何度も〈忠臣蔵〉を映画化した。…

【日本映画】より

…翌10年にはこれに福宝堂が加わって,4社による映画の輸入・製作・配給がいよいよ盛んになった。各社とも撮影所をもったため,風景や戦争や白瀬中尉の南極探検などの実写作品のほかに,劇映画が多くつくられるようになり,それらも歌舞伎劇や新派劇をほとんどそのまま実写したようなものではあったが,弁士の説明によるドラマ性の盛上げもあって,多大の観客を集め,そのなかから最初のスター尾上松之助を生み出すとともに,日本映画の主流は実写作品から劇映画へと移っていった。
【牧野省三と日活――映画企業の始まり】

[松之助映画のブーム]
 1912年,吉沢商店,横田商会,Mパテー商会,福宝堂の4社が合併して,日本活動写真株式会社(日活)が誕生した。…

【牧野省三】より

…25歳で千本座という芝居小屋の経営者となり,活動写真業者の横田永之助を知って,その依頼で,1908年,映画《本能寺合戦》を撮り,以後300本を超えるチャンバラ時代劇(当時は〈旧劇〉と呼ばれた)をつくって,日本映画独自のジャンルを確立した。とくに尾上松之助を発見して〈目玉の松ちゃん〉の愛称で呼ばれる日本最初のスターに仕上げ,〈忍術映画〉の数々のトリックを考え出し,〈松之助映画〉の全盛時代をつくった。省三の映画作法は〈一スジ,二ヌケ,三動作〉という名言によって知られる。…

※「尾上松之助」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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