正智院跡(読み)しようちいんあと

日本歴史地名大系 「正智院跡」の解説

正智院跡
しようちいんあと

[現在地名]三戸町同心町 古間木平

同心どうしん町の北東、熊原くまはら川右岸低地に臨む段丘に位置する。熊野山と号し、真言宗。雑書の承応二年(一六五三)五月四日条に「三戸正知院へ祈念被仰付」とみえる。寛政年間(一七八九―一八〇一)の「邦内郷村志」に「正智院二人扶持二十五駄 真言宗、永福寺末寺 熊能山巌寺」とあり、藩政期末と推定される南部領寺社鑑写(岩手県盛岡市中央公民館蔵)によれば、現米六〇石を給され、御目見を許されていた。「邦内郷村志」には「利直公御子彦八郎利康公、寛永八年十一月廿一日御卒去、乃葬送之地也、故建立正智院、以御居間辺材木云、自開山泉済寛政三年辛亥十二代」と記されているが、明治初年の「新撰陸奥国誌」は泉済は中興開山であろうとしている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報