三戸村(読み)さんのへむら

日本歴史地名大系 「三戸村」の解説

三戸村
さんのへむら

[現在地名]三戸町同心どうしん町・八日ようか町・馬喰ばくろう町・二日ふつか町・在府小路ざいふこうじ町・六日むいか町・川守田かわもりた町・久慈くじ町など

熊原くまはら川下流の河岸段丘に位置する。中央を熊原川が北東流し、東端を北流する馬淵まべち川と合流する。東と南は梅内うめない村、西と北は川守田村に接する。奥州街道が町筋に沿って北東に縦貫し、鹿角かづの街道が町場の西南で合する。

正安三年(一三〇一)のきぬ女家族書上案(新渡戸・岩大文書)に「三戸にしきのいや三郎との」「三戸さけこしのよとう二郎」とみえ、建武元年(一三三四)の多田貞綱書状(遠野南部文書)に「三戸横溝新五郎入道跡」、同年の北畠顕家国宣(同文書)には「糠部郡三戸内会田四郎三郎跡事」とみえるが、これらはいずれも後の三戸村、あるいは三戸町を含む広域地名であろう。天正一八年(一五九〇)の南部信直宛の豊臣秀吉朱印状(盛岡南部文書)に「一家中之者共相拘諸城悉令破却 則妻子三戸江引寄可召置事」とあり、この三戸が後の三戸村、あるいは三戸町にあたるものと考えられる。三戸南部氏は天文初年頃には小向こむかい(現南部町)を拠点としており、天文八年(一五三九)本三戸もとさんのへ館と称された聖寿寺しようじゆじ(現南部町)が炎上した後、当地に移ったとされる。

天正一八年の朱印状により信直は三戸城を正式な居城とし、三戸を城下と定めた。城下町は城の西、熊原川下流の両岸に形成されたが、現行の字名から推定すると右岸梅内村左岸の川守田村を割って建設されたものとみられる。町域は右岸の在府小路・同心町・八日町・二日町、左岸の六日町・川守田町久慈町にわたり、後の三戸町の原形はこの頃に形づくられたものであろう。翌一九年福岡ふくおか(現岩手県二戸市)に居城が移され、さらに文禄三年(一五九四)不来方こずかた(後の盛岡城、現岩手県盛岡市)が居城に加えられると三戸は城下町としての地位をしだいに失っていった。元和三年(一六一七)、あるいは同五年当町の住民は盛岡に移されたという(盛岡砂子、南部史要)

しかしその後も元和年間や寛永初年に二代藩主利直は三戸城に居城しており、同時に利直の手によって町の整備が進められたものであろう。寛永初年頃の配置図とみられる三戸御古城図によれば城の南西端の大手につながる「下馬御門」の西に在府小路があり、八戸弥六郎を筆頭とする一族重臣の屋敷地が配置され、城の北東端の「鍛冶屋御門」の北の留ヶ崎とめがさきには一般家臣の屋敷地が配置されていた。在府小路の西には南西から北東にかけて町場が形成され、南から八日町・二日町・六日町(川守田町・久慈町)が置かれ、八日町の南には同心組を配置した同心町、久慈町の北および留ヶ崎の南には鉄砲組を配置した鉄砲小路てつぽうこうじが置かれていた。


三戸村
みとむら

[現在地名]三浦市初声はつせ町三戸

相模湾に面し、交通の便が悪く、他村から孤立した場所に集落がある。村内はきたの里・かみの里・谷戸やとの里・神田かんだの里に分れる。東は下宮田しもみやだ村に接する。三浦義澄の子、三戸十郎友澄はこの地の人という。小田原衆所領役帳に朝比奈孫太郎「六拾貫文 三浦三戸」とある。漁業には商人資本が関与していたようで、明和九年(一七七二)には米屋庄左衛門が大和田屋与平治に金五〇両で三戸村での漁獲物取引権利を譲り渡し、「自今右之浦荷物不残貴殿ニ御引請御支配」することとした(「仕入浦譲渡証文」県史九)。安永九年(一七八〇)三戸浦の五人が「わらさ網弐丈・ふり網弐丈」を購入する代金を大和田屋与平治から借用している(「網仕入金借用証文」同書)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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