毒沢館跡(読み)どくさわたてあと

日本歴史地名大系 「毒沢館跡」の解説

毒沢館跡
どくさわたてあと

[現在地名]東和町毒沢

毒沢集落の西側の小高い山の頂にある山城。和賀氏の一族毒沢氏の館跡とされる。毒沢氏は貞治元年(一三六二)に和賀政義の三男盛義が独沢(毒沢)郷ほか八〇〇余町を領知して独沢に移り、毒沢を名乗ったのに始まるといわれる(東和町史)。天正九年(一五八一)一月の和賀氏分限録(小田島家記録写)に平士衆として「四百石 毒沢伊賀」がみえる。「奥南落穂集」には和賀氏一二代薩摩守義弥の孫が毒沢館に居住、その息毒沢民部少輔頼一、頼一の息が毒沢伊賀守一忠とある。毒沢伊賀は当館主であったが、天正一八年豊臣秀吉の奥羽仕置により、和賀氏とともに没落

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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