安土(あづち)桃山時代~江戸初期の大名。仙台藩祖。永禄(えいろく)10年8月3日米沢(よねざわ)城主伊達輝宗(てるむね)の長男として誕生。母は山形城主最上義守(もがみよしもり)の娘。幼名梵天丸(ぼんてんまる)。1577年(天正5)元服(げんぷく)して藤次郎政宗と称し、1579年三春(みはる)城主田村清顕(きよあき)の娘愛姫(めごひめ)と結婚、1584年家督相続。父の死後、1589年蘆名(あしな)氏を破り会津を掌握し、須賀川(すかがわ)二階堂氏を滅ぼし、石川、白川両氏を服属させて、現在の福島県の大半と米沢地方および宮城県にわたる大領土を築いたが、1590年豊臣(とよとみ)秀吉に服属し、会津などを没収された。1591年米沢・伊達など旧領6郡のかわりに大崎・葛西(かさい)両氏の旧領を与えられ、玉造(たまつくり)郡岩出山(いわでやま)(宮城県大崎(おおさき)市)に移る。
1600年(慶長5)関ヶ原の戦いののち、徳川家康から刈田(かった)郡を与えられて60万石(のち62万石)を領し、翌年仙台城を修築してここに移った。1607年塩竈(しおがま)神社、大崎八幡宮(はちまんぐう)、国分寺薬師堂、1609年松島瑞巌寺(ずいがんじ)を造営し、1626年(寛永3)には北上(きたかみ)川の石巻(いしのまき)流出などの土木工事を完成させて、仙台藩の米作と江戸廻米(かいまい)の基礎を据えた。南蛮との通商を企図し1613年家臣支倉常長(はせくらつねなが)をスペイン、ローマに派遣したが、幕府の切支丹(きりしたん)禁制強化のため目的を達しなかった(1620年帰国)。
1585年従(じゅ)五位下美作守(みまさかのかみ)、1591年侍従兼越前(えちぜん)守、羽柴(はしば)姓、1597年(慶長2)従四位下右近衛権少将(うこんえのごんしょうしょう)、1608年陸奥(むつ)守、松平姓、1615年(元和1)正(しょう)四位下参議(さんぎ)、1626年従三位(じゅさんみ)権中納言(ごんちゅうなごん)。寛永(かんえい)13年5月24日江戸桜田邸で死去。70歳。仙台瑞鳳殿(ずいほうでん)に葬る。和歌、茶道、能楽に長じ能書家としても知られる。幼時右眼を失明。世に「独眼竜」とよばれた。1974年(昭和49)瑞鳳殿再建工事の際の調査によれば、身長159.4センチメートルで、同時代の日本人の平均身長を示した。
[小林清治]
『小林清治著『伊達政宗』(1959・吉川弘文館)』
戦国末期から江戸初期の大名。米沢城主,のち仙台城主。仙台藩祖。米沢城主伊達輝宗の子。母は山形城主最上義守の娘。幼名梵天丸。1577年(天正5)元服,伊達中興の祖大膳大夫政宗の名を襲い藤次郎政宗と称する。79年三春城主田村清顕の娘愛(めご)姫(陽徳院)と結婚,84年家督相続。翌年父輝宗が二本松義継のために不慮の死をとげたのち積極的に領土拡張に乗り出し,86年安達郡を入手,88年田村家中を掌握し,89年蘆名義広を磨上原(すりあげがはら)の戦に大敗させて会津地方を収めた。同年須賀川城主二階堂氏を滅ぼし,石川昭光,白川義親らを服属させて,浜通りを除く現在の福島県,山形県置賜(おきたま)郡,宮城県および岩手県南部にわたる広大な勢力圏を築きあげた。90年小田原に参陣,豊臣秀吉から会津,岩瀬,安積(あさか)を没収され,田村,安達,伊達,信夫(しのぶ),刈田,柴田,伊具,亘理(わたり),名取,宮城,黒川,宇多,置賜の諸郡を安堵された。葛西・大崎一揆後の91年,伊達,信夫,安達,田村,刈田,置賜を没収され,大崎・葛西旧領の諸郡(江刺,胆沢以下13郡)を与えられ,米沢から玉造郡岩出山に移った。秀吉の死後まもなく長女五郎八(いろは)と家康の子忠輝の婚約により徳川氏に接近,関ヶ原の戦に上杉方の白石城を攻めた功により刈田郡を与えられた。のちに給される近江,常陸の2万石を含む伊達62万石の大勢がここに定まった。
1601年(慶長6)仙台城と城下の建設に着手,岩出山から士民を引き移した。07年塩竈神社,大崎八幡神社,国分寺薬師堂,09年には松島瑞巌寺を造営し,また26年(寛永3)北上,迫(はざま),江合(えあい)の3川の合流と北上川の石巻流出の工事を完成させて,仙台藩の米作と江戸廻米の基礎をすえた。他方,南蛮との通商を企図し,幕府の支持のもとに支倉常長(はせくらつねなが)をメキシコ,スペイン,ローマに派遣したが,幕府のキリシタン禁教が強化されたため目的を達しなかった(1620年帰国)。1585年従五位下美作守,91年侍従兼越前守,羽柴姓,97年従四位下右近衛権少将,1608年陸奥守,松平姓,15年正四位下参議,26年従三位権中納言と累進した。28年仙台城下東南郊の若林に屋敷を構え,花鳥風月を友とし,狩りと漁を楽しむ事実上の隠棲生活に入りながらも江戸参勤を行い,政治をみた。36年5月24日江戸桜田屋敷で死去。瑞巌寺殿貞山禅利大居士。仙台瑞鳳殿(ずいほうでん)に葬る。和歌,茶道,能楽に長じ,書をよくし,豪華を好み,人の意表に出ることが多かった。幼少のころ右眼を失明し,長じては〈独眼竜〉と畏敬されたが,死後造る肖像には両眼をそなえよと遺言したという。1974年瑞鳳殿(戦災で焼失)の再建工事に際して行われた調査によれば身長159.4cm,同時代の日本人の平均を示し,面長で鼻すじの通った貴族的な容貌をうかがわせ,手足は骨太であった。〈独眼〉の証跡は認められなかったが,それは疱瘡(天然痘)の毒が入って失明したという伝えの裏づけとなった。
執筆者:小林 清治
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(齋藤鋭雄)
(伊藤清郎)
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1567.8.3~1636.5.24
織豊期~江戸前期の武将・大名。初代仙台藩主。出羽国米沢城(現,山形県米沢市)城主伊達輝宗の長男。藤次郎。美作守,越前守,陸奥守,参議,権中納言。1585年(天正13)輝宗を二本松城主畠山義継のために失ったあと,翌年畠山氏を滅亡させ,89年には会津の蘆名氏を滅ぼし,東北南部に勢力を誇った。90年小田原攻めに参陣し豊臣秀吉に臣従したが,会津・岩瀬・安積の各郡を没収される。葛西・大崎一揆の鎮圧後,91年米沢から陸奥国玉造郡岩出山(現,宮城県大崎市岩出山)に移った。関ケ原の戦では徳川方につき,上杉景勝を攻めた。1603年(慶長8)仙台城に移って城下町を建設し,仙台藩62万石の基礎を築いた。支倉(はせくら)常長をローマ教皇のもとに遣欧使節として派遣したことでも知られる。
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…応神天皇,仲哀天皇,神功皇后をまつる。もと旧奥州探題家大崎氏の総鎮守として,宮城県遠田郡田尻町八幡の地にあったもので,太閤仕置によって米沢から岩出山(宮城県玉造郡)に移った伊達政宗が,新大崎領主としてこれを岩出山に勧請,さらにその仙台移転とともに1604年(慶長9)仙台城下に移した。米沢時代の鎮守成島八幡と合祀,成島の別当寺恵沢山竜宝寺をもってその別当寺とした。…
…近世,伊達氏のもとに仙台領内にはいると,〈奥州一宮〉とまで称されるにいたり,奥州を代表する神社として現在も篤い崇敬が寄せられている。伊達政宗は仙台築城とともに,城下内外に奥州を代表する文化をおこそうとして,壮麗な寺社建築の大事業をはじめた。塩竈神社もその一環で,1607年(慶長12)社殿の新営が成った。…
… 99年正月に入ると,五大老,五奉行内部の対立がしだいに表面化してきた。正月19日,家康を除く大老と五奉行は,家康が伊達政宗,福島正則,蜂須賀家政らと婚姻を予約したことを,秀吉の遺言違反として難詰した。この事件は家康と4大老,五奉行が遺言遵守の誓書を交換して収まったかに見えたが,閏3月3日利家の死をきっかけに細川忠興,蜂須賀家政,福島正則,藤堂高虎,黒田長政,加藤清正,浅野幸長らの7大名が三成を襲い,三成は大坂を脱出して伏見に逃れ,家康の軍勢に守られて居城の佐和山に帰るという事件が起きた。…
…奈良時代,北方の多賀城(現,多賀城市)に陸奥国府と鎮守府が設けられ,仙台には陸奥国分寺および国分尼寺が建立された。近世初め,伊達政宗が青葉城を築いて以来,伊達氏の城下町として繁栄した。1871年の廃藩置県後,仙台は仙台県,次いで宮城県の県庁所在地となり,軍事,教育,司法などの諸施設が設置された。…
…陸奥国(宮城県)仙台に藩庁を置いた外様大藩。藩主は伊達氏で藩祖伊達政宗以下14代。1591年(天正19)政宗が出羽国米沢から玉造郡岩出山に移されたのが初めで,1600年(慶長5)仙台に築城した。…
…09年漂着したビベロと,メキシコ貿易開設を望む家康との間に立って,通訳兼斡旋役として尽力し,仮協定を成立させた。江戸で関東の地区長のころ伊達政宗の知遇を得,東北地方に布教を行い,教勢の拡大を図った。政宗に慶長遣欧使節を立案し,13年10月みずからも支倉常長らとともに渡欧した。…
…鎌倉~江戸期の武家。藤原姓。中納言山蔭6代目の子孫実宗が常陸国伊佐荘中村に住して伊佐または中村と称し,始祖朝宗はその玄孫と伝える(図)。1189年(文治5)の奥州合戦で源頼朝に従軍した中村常陸入道念西(伊達朝宗)の子息らは,陸奥国伊達郡石那坂の合戦で平泉藤原方の信夫(しのぶ)荘司佐藤一族らを破った。戦後念西は功により伊達郡を与えられ,次男以下を従えて常陸から移り伊達氏を称した(長男為宗は常陸の本領に住し伊佐氏を称した)。…
…伊達政宗の臣下で慶長遣欧使節の正使。与市,五郎左衛門,のちに六右衛門常長または長経とも称する。…
…(1)財政基盤の確立を目ざす1535年(天文4)の棟役日記および38年の段銭古帳の作成,(2)36年の家法《塵芥集(じんかいしゆう)》の制定,(3)53年の家中に対する所領安堵状のいっせい給付(晴宗公采地下賜録)などが,その達成である。戦国後期の伊達氏は,この結果得られた強力な軍事力をもとに,北進する常陸の佐竹氏との間で,南奥の国人の帰属をめぐる争いを行い,89年(天正17)伊達政宗が会津の蘆名義広(佐竹義重次男)を攻め滅ぼしたところで,豊臣秀吉の小田原攻めを迎え,争乱は終結せしめられた。伊達勢力の北辺に位置する葛西,大崎両氏は葛西七郡,大崎五郡を領する大勢力であったが,最後まで家中の統制に苦しみ,最終的には伊達氏の従属下に入って,秀吉の奥羽仕置による取りつぶしのうき目にあう。…
※「伊達政宗」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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