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毛利就隆 もうり なりたか

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

毛利就隆 もうり-なりたか

1602-1679 江戸時代前期の大名。
慶長7年9月3日生まれ。毛利輝元(てるもと)の次男。兄の長門(ながと)(山口県)萩(はぎ)藩主毛利秀就(ひでなり)から所領を分与され,慶安3年(1650)周防(すおう)(山口県)徳山藩主毛利家初代となる。4万5000石。延宝7年8月8日死去。78歳。通称は三次郎。

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書籍版「講談社 日本人名大辞典」をベースに、項目の追加・修正を加えたデジタルコンテンツです。この内容は2015年9月に更新作業を行った時点での情報です。時間の経過に伴い内容が異なっている場合がございます。

朝日日本歴史人物事典の解説

毛利就隆

没年:延宝7.8.8(1679.9.12)
生年:慶長7(1602)
江戸前期の萩藩の支藩である徳山藩の藩祖。毛利輝元の次男。幼名は百助,三次郎。日向守。慶長16(1611)年から兄である本藩主毛利秀就の身代わりの証人(人質)として在江戸。元和3(1617)年3万石を分知され,末家を立てた。当初の中心地は下松。寛永11(1634)年証人としての地位を脱し,将軍徳川家光から支藩として認知された。届出石高は4万5000石。馬術に長けた人物として将軍に知られていた。支藩の独自性を強めようとして,しばしば本藩と対立。慶安3(1650)年館を下松から野上に移転し,徳山と改称した。<参考文献>『下松市史』

(田中誠二)

出典|朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版
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世界大百科事典内の毛利就隆の言及

【周防国】より

…毛利輝元は1600年に吉川(きつかわ)広家へ周防国のうち玖珂郡で高3万石を分知して岩国藩をたてさせ,17年(元和3)に次男就隆へ都濃郡と熊毛郡で高3万1400余石を与えた。毛利就隆は,はじめ居館を都濃郡下松に設けたが,50年(慶安3)に同郡野上に移し,地名を徳山と改めた(徳山藩)。長州藩は郷村支配の行政単位として〈宰判〉を設け,周防国では大島,奥山代,前山代,上関,熊毛,都濃,三田尻,徳地,山口,小郡の10宰判を置いた。…

【徳山[市]】より

…山口県南部,瀬戸内海西部の徳山湾に臨む商工業都市。1935年市制。人口10万8671(1995)。1949年,現在の新南陽市にあたる地区を分離したため市域の中央部を失い,ドーナツ状の市域をもつが,面積は339km2で県下第2の広域都市である。市街地の主要部は栄谷(さかえだに)地区から徳山湾岸にひろがる狭い東川扇状地の上に発達している。沿岸部を山陽本線と国道2号が通り,山陽新幹線の徳山駅が設置され,特定重要港湾徳山下松(くだまつ)港をもつ交通の要地を占めている。…

【徳山藩】より

…江戸時代,周防国(山口県)都濃(つの)郡徳山を中心に郡の南部と阿武郡の一部2ヵ村を領域とする萩藩(長州藩)支藩の一。毛利輝元の第2子就隆(なりたか)が藩主の始祖。1617年(元和3)慶長検地高の3万1400余石を内証分知され,34年(寛永11)幕府の公認により藩に列した。公称石高は4万10石。廃藩のころの実高は6万9000余石とされる。萩本藩の公称36万余石の割合では2万500余石。毛利家の家譜類では徳山藩の石高を4万5000石とし,《武鑑》では1835年(天保6)までは3万石,翌年以降は4万10石としている。…

※「毛利就隆」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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