朝日日本歴史人物事典 「毛利就隆」の解説
毛利就隆
生年:慶長7(1602)
江戸前期の萩藩の支藩である徳山藩の藩祖。毛利輝元の次男。幼名は百助,三次郎。日向守。慶長16(1611)年から兄である本藩主毛利秀就の身代わりの証人(人質)として在江戸。元和3(1617)年3万石を分知され,末家を立てた。当初の中心地は下松。寛永11(1634)年証人としての地位を脱し,将軍徳川家光から支藩として認知された。届出石高は4万5000石。馬術に長けた人物として将軍に知られていた。支藩の独自性を強めようとして,しばしば本藩と対立。慶安3(1650)年館を下松から野上に移転し,徳山と改称した。<参考文献>『下松市史』
(田中誠二)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報