(秋山伸隆)
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戦国~安土桃山時代の武将。隆元の嫡子。幼名幸鶴丸,少輔太郎,右衛門督,右馬頭。1563年(永禄6)父の死により家督を継ぎ,祖父元就の後見をうけ,その死後も叔父吉川(きつかわ)元春,小早川隆景の補佐により山陰・山陽10ヵ国に及ぶ領国を維持した。やがて京都を追われた足利義昭を迎え,石山本願寺に兵糧を援助するなど織田信長と対立し,77年(天正5)より羽柴(豊臣)秀吉の侵攻をうけ播磨,因幡に戦う。82年備中高松で講和し,以後秀吉に従い四国・九州両征伐に従軍。その後領内に惣国検地を実施し91年秀吉より9ヵ国112万石を安堵され,郡山城から広島城に本拠を移す。豊臣政権下では文禄・慶長の役に従軍,権中納言に任ぜられ,五大老の一人となる。1600年(慶長5)関ヶ原の戦では西軍の総大将となり大坂城に入るが,実戦には参加しなかった。戦後,防長両国に減封され,剃髪して宗瑞と号し,家督を子の秀就に譲ってこれを後見した。
執筆者:加藤 益幹
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安土(あづち)桃山時代の武将。隆元(たかもと)の長男。幼名幸鶴丸(こうづるまる)。少輔(しょう)太郎(たろう)と称す。将軍足利義輝(あしかがよしてる)の一字を受けて輝元と名づけられた。豊臣(とよとみ)政権のもと羽柴(はしば)姓を唱え、参議権中納言(ごんちゅうなごん)に任じられた。叔父吉川元春(きっかわもとはる)と小早川隆景(こばやかわたかかげ)に援(たす)けられて広大な領国をよく維持し、1577年(天正5)以来織田氏の将羽柴(豊臣)秀吉の来攻に対して中国東部各地で戦い、82年6月備中(びっちゅう)(岡山県)高松城で秀吉と講和した。翌年安国寺恵瓊(あんこくじえけい)を使者にたてて秀吉と境界を折衝し、結局領国を保持することで豊臣政権に協力し、四国・九州征服に加わり、89年中国経営の本拠として広島築城に着手、91年郡山(こおりやま)の山城(やまじろ)を捨てて移った。同年秀吉から安芸(あき)、備後(びんご)、周防(すおう)、長門(ながと)、石見(いわみ)、出雲(いずも)、隠岐(おき)の全域と伯耆(ほうき)、備中の各一部合計112万石の朱印状を受け、ついで文禄(ぶんろく)の役にも出動、五大老の一人となる。関ヶ原の戦いのとき、大坂で秀頼(ひでより)傅育(ふいく)の任にあたったが、西軍総大将の責を問われ、薙髪(ちはつ)して宗瑞(そうずい)と称し、幼児秀就(ひでなり)が防長2国を授けられ、1604年(慶長9)萩(はぎ)に築城したが、事実上は輝元が政務をみていた。
[福尾猛市郎]
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1553.1.22~1625.4.27
戦国末~近世初期の武将。隆元の長男。安芸国郡山城生れ。1563年(永禄6)父の急死により家督相続,祖父元就(もとなり)に後見された。元就没後は叔父吉川(きっかわ)元春・小早川隆景の補佐で,東中国の経略につとめた。76年(天正4)には,前将軍足利義昭を奉じて織田氏と対抗,石山本願寺救援などに戦果をあげるが,82年備中国高松城で交戦中の豊臣秀吉と和睦。豊臣政権下で四国攻め・九州攻めの先鋒をつとめた。91年,秀吉から112万石の知行目録をうけ,朝鮮出兵に従う。97年(慶長2)豊臣家の五大老に列し,関ケ原の戦では西軍盟主とみなされ,戦後周防・長門2国に減封,隠居して家督を秀就(ひでなり)に譲る。1609年萩に築城して移り,以後も実質的に藩政をつかさどった。
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…毛利氏は75年本願寺顕如の依頼に応じ石山本願寺を援助して信長勢力と対立するが,82年(天正10)信長の部将羽柴秀吉と和談が成立,85年には境目問題も解決し,豊臣政権下8ヵ国にまたがる大大名となった。【松岡 久人】
【近世】
1589年(天正17)毛利輝元は太田川河口デルタの地に広島城の建設をはじめ,91年本拠を山間の郡山城から移した。内海に臨み,四通八達の地を利して領国の統一を固めようとしたのである。…
…豊臣秀吉の遺言状案では〈おとな五人〉といわれ,1598年(慶長3)9月の起請文写しでは五奉行と合わせて十人の衆と呼ばれている。豊臣政権最高の施政機関で,構成は徳川家康,前田利家,毛利輝元,宇喜多秀家,上杉景勝からなり,家康と利家とが上首であった。1595年(文禄4)の起請文前書によれば,家康は坂東の法度置目公事篇の儀を,輝元と小早川隆景とは坂西のそれを委任されているし,秀吉の遺言状によれば利家は秀吉の盟友であって豊臣秀頼の傅(ふ),宇喜多秀家は豊臣氏と一体であった。…
…
[原因]
1598年8月の豊臣秀吉死後の政権は,家康を筆頭とする五大老と三成を筆頭とする五奉行によって運営されることとなった。秀吉の遺言によれば,家康,前田利家,毛利輝元,上杉景勝,宇喜多秀家の五大老が秀頼を後見し,〈御法度,御置目〉などの天下の政治は長束正家,石田三成,増田長盛,浅野長政,前田玄以の五奉行が合議によって推進し,太閤蔵入地その他の中央政権を支える財政の〈算用〉は,家康,利家の2人が総攬することになっていた。このことは,8月から9月にかけて五大老,五奉行の間で交換された多数の誓書によって確認され,秀吉の死で緊急の課題となった朝鮮からの撤兵も,この体制によって実施された。…
…市中心部には世界遺産に登録された〈原爆ドーム〉を含む平和記念公園のほか,原形復元された表御門のある広島城跡(史),旧藩主浅野氏の庭園縮景園(名),市内を展望できる比治山公園などがある。【藤原 健蔵】
[広島城下]
1589年(天正17)4月から毛利輝元の島普請とよばれる広島城の建設が行われ,以後毛利,福島,浅野の各大名の城下町として発展した。毛利時代は,枝状に分かれた太田川本・支流と,平田屋川・西堂川(せいとうがわ)両運河に堤防を築き,大規模な城郭を中心として周辺に広く武家屋敷を配置し,町人町は城郭の南西に区画したが,皮屋・材木両町のほかは町名も明らかでない。…
…安芸国(広島県)広島に居城した外様大藩。毛利輝元が1589年(天正17)太田川河口デルタの地を広島と命名して築城に着手,翌々年吉田郡山城からここに移り,中国地方9ヵ国にまたがる大領国を支配する拠点と定めたのがその起りである。関ヶ原の戦後,毛利氏が周防,長門2国に削封されて去ったあと,広島城に入ったのは安芸,備後両国を領した福島正則である。…
…(1)西中国の雄族で中・近世大名(図)。大江広元が相模国毛利荘をその子季光に譲り,季光がここを苗字の地としたのに始まる。季光は宝治合戦(1247)で三浦氏に荷担したため同荘を没収されたが,その第4子経光は荷担せず越後国佐橋荘,安芸国吉田荘等を保持した。経光は1270年(文永7)両所を第4子時親に譲った。吉田荘では96年(永仁4)領家・地頭間で下地中分(したじちゆうぶん)が行われ,時親は吉田,麻原(おはら)を領した。…
※「毛利輝元」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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