日本歴史地名大系 「気多郡」の解説
気多郡
けたぐん
- 兵庫県:但馬国
- 気多郡
「和名抄」にみえ、諸本ともに訓を欠くが、「延喜式」諸本にケタの訓がある。「拾芥抄」の訓もケタで、以後近代まで異訓はない。但馬国の中央部に位置し、
〔古代〕
郡名の初見は、天平八年(七三六)の平城京二条大路跡出土木簡に「気多郡思殖郷波太里」とある(裏は「忍海部麻呂白米五斗 天平八年八月九日」)。ついで同九年の但馬国正税帳(正倉院文書)に「疫病者給粥料符」の因幡国への逓送に「気多郡主帳外少初位上桑氏連老」が任用されている記事がある。管郷は「和名抄」によると
気多郡
けたぐん
- 鳥取県:因幡国
- 気多郡
因幡国西端、伯耆国との回廊的位置にあった。東は
〔古代〕
「和名抄」東急本国郡部では郡名の訓を欠く。「古事記」大国主神段の稲羽の素兎の説話に「一斗五升」とある。天平宝字五年(七六一)のものと推定される首中尾欠の造寺造物請用帳(正倉院文書)には「因幡国気多郡封」として糸「二百
二斤十四両二分五朱」、天平宝字三年分の「因幡国気多郡調」として綿「二百七十八屯」および「因幡国気多郡租」を交易して得られた綿「百廿六斤」が納められている。また年月日欠の中尾欠造金堂所解案(同文書)には天平宝字三年料として
七〇匹が「因幡国気多郡封」より納められている。「和名抄」は
〔中世〕
平安末期以降室町前期までに河内川東岸一帯に
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報