気多郡
けたぐん
「和名抄」にみえ、諸本ともに訓を欠くが、「延喜式」諸本にケタの訓がある。「拾芥抄」の訓もケタで、以後近代まで異訓はない。但馬国の中央部に位置し、円山川の中流域を占める。町の東部は豊岡盆地の南端部で平地(日高平野)が開けているが、中部・西部は中国山地の東端部(播但山地)にあたって山地がほとんどを占め、三川山(八八七・八メートル)、蘇武岳(一〇七四・四メートル)、妙見山(一一三九メートル)を結ぶ線を分水嶺とする諸河川がやがて稲葉川に流入、同川は東流して円山川に注ぐ。稲葉川の本・支流域にはわずかな舌状の平地がみられるにすぎない。郡境は北は美含郡・城崎郡、東は出石郡、南は養父郡、西は七美郡。現在の日高町のほぼ全域と豊岡市の一部(南東端部)、竹野町の一部(南端部)にあたる。なお現豊岡市の佐野地区は近世には城崎郡に含まれたが、それ以前は気多郡に属した。
〔古代〕
郡名の初見は、天平八年(七三六)の平城京二条大路跡出土木簡に「気多郡思殖郷波太里」とある(裏は「忍海部麻呂白米五斗 天平八年八月九日」)。ついで同九年の但馬国正税帳(正倉院文書)に「疫病者給粥
料符」の因幡国への逓送に「気多郡主帳外少初位上桑氏連老」が任用されている記事がある。管郷は「和名抄」によると太多・三方・楽前・高田・日置・高生・狭沼・賀陽の八郷で養老令の基準では中郡。このほか前掲の木簡にみえる「思殖郷」があり、天平宝字六年(七六二)一二月一六日の私部得麻呂漆工貢進文(正倉院文書)に余部郷、但馬国分寺跡出土木簡に思往郷がみえる(なお前掲木簡の殖は往の可能性がある)。「和名抄」の郷とこれらの郷との関係はつまびらかでない。同書東急本国郡部に但馬国府は気多郡にあり、都への行程は上七日・下四日とある。気多郡への「国治」(国府のこと)移転決定は延暦二三年(八〇四)正月で、移転先は高田郷であった(「日本後紀」同月二六日条)。移転前の所在地は出石郷とする説や高田郷内での移転とする説があるが、現在のところ不明。移転後の国府(第二次国府)所在地については現日高町の府市場説、同町水上・松岡説などがあるが、確定されるには至っていない。府市場は国府付属の市場が所在したことに由来する地名で可能性は高いが、水上には題籤や木簡を多数出土した深田遺跡があり、松岡にも奈良時代の官衙関連遺跡とされる川岸遺跡がある。但馬国分寺も当郡にあり、日高町の大字国分寺にその跡がある。
気多郡
けたぐん
因幡国西端、伯耆国との回廊的位置にあった。東は高草郡・八上郡、西・南は伯耆国河村郡に接し、北は日本海に面する。現在の気高郡全域すなわち気高町・鹿野町・青谷町に相当する。ただし郡域には多少の変更があり、高草郡西端の小沢見・内海(現鳥取市)地区は近世初期まで当郡に属していた(慶長一〇年気多郡高草郡郷帳)。郡域は南部中国山地から北へ延びる支脈と北へ流下する河内川・日置川・勝部川などの河川流域の平野からなり、南端佐谷峠から北の長尾岬まで延びる尾根で二分される。西側は山西、東側は山東と称された。古墳は宝木谷の口部、勝見谷の中・奥部、日置谷・勝部谷の中・口部に主として円墳が多く分布し、なかには西山古墳(気高町)のような前方後円墳も築かれている。
〔中世〕
平安末期以降室町前期までに河内川東岸一帯に光元保が成立。そのほか庄・保の存在は史料上からは確認できず、古代以来の勝部郷・勝見郷・日置郷がいくつかに分割されながらも存続した。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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