改訂新版 世界大百科事典 「南北朝内乱」の意味・わかりやすい解説
南北朝内乱 (なんぼくちょうないらん)
14世紀の半ばから末にかけて50余年間続いた全国的な内乱。この内乱の勃発は,足利尊氏の擁立した北朝と吉野にのがれた後醍醐天皇に始まる南朝との分立をもたらし,権門,寺社,武士などの多くは南北両党に分かれて抗争したので南北朝内乱という。この内乱は政治機構,社会状態,文化事象などに重要な変化を及ぼしたが,それらの変化は〈南北朝時代〉の項にゆずり,以下主として戦乱の経過に限って述べる。
その経過は,両党の勢力の浮沈に則して,ほぼ次の3期に分けられる。まず,南朝方が独力で足利方に抗しながら,しだいに勢力低下を招いた,およそ1348年(正平3・貞和4)までの第1期。足利方の紛争が表面化し,南朝方が足利直義・直冬(尊氏の実子で,直義の養子)党と結んで,かなり勢力を挽回した,およそ67年(正平22・貞治6)までの第2期。室町幕府権力の充実にともない南朝は支持勢力をほとんど失い,南朝の事実上の終焉となった南北朝合一により,内乱が終息した92年(元中9・明徳3)までの第3期。この各期の内乱の状況は次のとおりである。
第1期
1335年(建武2)8月,後醍醐天皇に征夷大将軍就任を要請していれられないまま京都から鎌倉に下り,中先代の乱を平定した尊氏は,召喚の勅命に応ぜず,11月弟直義とともに新田義貞誅伐を名目として建武政権に公然と離反し,12月義貞の率いる官軍を箱根竹ノ下の戦で破り,翌36年(延元1・建武3)正月いったん入京した。しかし義貞,楠木正成らは陸奥から上った北畠顕家勢とともに反撃を加え,尊氏は2月敗走して九州に赴くが,その途中で持明院統の光厳上皇の院宣を申し受け,3月筑前多々良浜の戦に菊池武敏を破り,4月博多を発し,中国・四国に分遣した諸将の軍勢を合わせて,5月摂津兵庫に義貞を破り湊川の戦で正成を討死させて6月再び入京。8月光厳上皇の弟豊仁親王(光明天皇)を擁立し,幕府の諸機関を次々と設置した。この戦乱で足利方が結局優勢を占めたのは,積極的な恩賞政策,足利一門・譜代諸氏や有力外様武将の起用,幕府再興路線の標榜,持明院統の権威の利用など,各種の周到な戦略によるものであった。
尊氏の入京を避けて叡山にのがれた後醍醐天皇は,10月いったん帰京したが,12月脱出して南大和の吉野に移り,ここに南北両朝の分立となった。南朝方は早くから守勢に立ち,各地の拠点で抵抗する状況となったが,その抵抗は根強かった。畿内・近国では吉野を中心に楠木・和田一族の本拠のある南河内,熊野三山のある南紀伊,伊勢神宮の神領の多い南伊勢の一帯が南朝の支配下にあり,北陸では越前・越後などに新田氏以下の拠点があり,奥州には北畠顕家を支持する国人層が広く分布し,瀬戸内には伊予の忽那(くつな)氏など南朝方の海賊があり,九州には肥後の菊池氏以下の南朝方豪族が分布した。また山野河海での生産や都市と地方市場,港湾等を結ぶ交易ルートに活動する供御人(くごにん)・神人(じにん)などの非農業民集団にも南朝支持勢力が多かった。けれども南朝方はしだいに幕府軍に圧迫され,38年(延元3・暦応1)北畠顕家が和泉石津に(石津の戦),新田義貞が越前藤島に(藤島の戦)討死し,翌39年後醍醐天皇が幼少の義良(のりよし)親王(後村上天皇)に譲位して没すると,南朝方の衰運はおおえなくなった。北畠親房は南朝勢力の挽回をめざして38年以来常陸の小田城,ついで関・大宝の両城等に拠って戦うとともに結城氏などの誘引につとめたが成功せず,43年(興国4・康永2)両城は落ち,親房は吉野に帰った。
もっともこのころ幕府では尊氏から裁判権などをゆだねられた直義と尊氏側近の幕府執事高師直との対立が表面化した。ここに楠木正成の遺子正行は47年(正平2・貞和3)挙兵して紀伊・河内に幕府方を連破し摂津に進んだ。しかし翌48年高師直の率いる幕府の大軍は正行を破って河内四条畷に討死させ,吉野を攻めて行宮を焼き,後村上天皇は大和賀名生(あのう)に逃れた。
第2期
49年幕府内の直義・師直両党の対立は破局を迎え,師直は尊氏に迫って直義を隠退させたが,直義の養子直冬は西国で挙兵,さらに翌50年(正平5・観応1)10月直義は河内に挙兵し,ここに両党は畿内はもとより九州から関東・東北にいたる各地で内戦を展開した。翌年師直は横死したが,まもなく直義も劣勢となって関東に走り,尊氏は南朝に講和を申し入れて北朝の崇光天皇を廃し,東下して52年(正平7・文和1)正月直義を下し,次いで殺害した。ここに南朝方は畿内・東国でいっせいに攻勢に転じ,東国の南軍新田義興・義宗らは旧直義党の前関東執事上杉憲顕らを加えて鎌倉を突き,尊氏を危地に陥れた。また畿内の南軍は京都を占領して尊氏の嫡子義詮を近江に追い,北朝の光厳・光明・崇光の3上皇と前皇太子直仁親王を捕らえ,北朝の三種の神器を接収した。まもなく尊氏と義詮はそれぞれ鎌倉と京都を奪還したが,九州では征西将軍懐良(かねよし)親王が菊池氏に擁せられて肥後から筑後に進み,足利直冬も南朝に帰順して中国に移り,旧直義党山名氏の支持を受けて勢力圏を拡大した。同じく旧直義党の吉良・石塔両氏も楠木正儀らの南軍とともに53年6月再び義詮を追って入京した。まもなく義詮は京都を回復し,尊氏も帰京したが,直冬党は越中の旧直義党桃井直常らとともに55年正月三たび尊氏・義詮を追って入京した。南朝の行宮も吉野のみではなく,形勢の伸縮に応じて山城男山,摂津住吉,河内天野などに移り,京都還幸の機をうかがった。
58年(正平13・延文3)尊氏が病死し義詮が将軍になると,幕府は大規模な畿内南軍追討戦をおこし,幕府執事細川清氏,関東執事畠山国清の率いる幕府軍はいったん南河内に攻め入った。しかし61年(正平16・康安1)細川清氏は義詮に追放されて南朝に下り,楠木勢とともに同年末京都に突入した。これは南軍最後の入京となり,反撃された清氏は翌62年(正平17・貞治1)四国に走り,従兄弟の中国管領細川頼之にたおされた。義詮は旧直義党斯波高経の子義将を幕府執事とし,鎌倉御所足利基氏も旧直義党上杉憲顕を招いて関東管領とし,ここに直義党の反発はようやくおさまり,南党大内弘世と直冬党山名時氏も63年幕府に帰順したので,九州以外の南朝方は再び低調となった。やがて幕府は南朝との講和を試みたが,南朝方が将軍の降参という名分にこだわったので和談は67年決裂した。
第3期
67年12月義詮は没し,その遺託を受けた細川頼之が幼少の将軍義満を後見し,管領として幕政を主導した。頼之は幕府諸制度の整備・充実を図り,北朝の諸権限もこのころ多く幕府に接収された。南朝では68年(正平23・応安1)後村上天皇が没して皇太子寛成(ゆたなり)親王(長慶天皇)が皇位を継ぐと,楠木正儀は頼之の誘いに応じて翌69年幕府に下った。畿内南軍は正儀を攻めたが,頼之は河内・紀伊と伊勢との両面から南朝方を圧迫した。また越中には桃井直常らの南党が蜂起したが,頼之は同国守護斯波義将らを派してこれを覆滅した。九州では征西将軍懐良親王以下の南軍が大宰府を中心として勢力を振るっていたが,頼之は70年(建徳1・応安3)今川貞世を九州探題とし,兵站基地を準備し,九州・中国の諸氏に貞世への協力を指令した。そこで貞世は72年(文中1・応安5)大宰府を占領し,やがて肥後に攻め入って菊池氏を圧迫した。
しかし,幕府ではやがて斯波・山名等の諸将が管領頼之排斥運動を起こし,これに乗じた紀伊の降将橋本正督(まさたか)は78年(天授4・永和4)南朝方に復帰して守護細川業秀(なりひで)を追い,大和でも十市氏,越智氏らが蜂起した。頼之は弟頼元を主将とする追討軍を送ったが,諸将分裂のため戦意が乏しく,幕府軍は敗退した。九州でも1375年貞世が肥後水島の陣中に少弐冬資(ふゆすけ)を誘い殺したため,島津氏以下の諸大名は貞世に反発し,78年貞世は肥後詫間原で菊池軍に大敗した。
翌79年(天授5・康暦1)義満は山名義理(よしまさ)・氏清兄弟に橋本を,斯波義将,土岐頼康らに十市,越智らを討たせたが,義将らは頼之罷免を要求して挙兵し,義満はこの要求をいれ,代わって義将を管領に任じた。この康暦の政変を機として幕府の支配体制はいっそう充実したのに対し,南朝の勢力はいよいよ低下し,その軍事活動も微弱となった。関東では幕府の追討対象となった下野守護小山義政が南朝方と号したが,82年(弘和2・永徳2)鎌倉御所足利氏満に討たれた。近畿では1380年橋本正督が山名氏清に討たれ,82年楠木正儀は南朝方に復帰したが振るわず,85年(元中2・至徳2)楠木正久が討死し,88年(元中5・嘉慶2)同正秀が山名氏清に破られた。九州でも今川貞世の国人層組織化がようやく奏功して91年(元中8・明徳2)肥後がまったくその支配下に帰し,征西将軍良成親王は筑後矢部の山間にこもった。ここに将軍義満は同年末の山名氏清らの反乱(明徳の乱)の鎮定を機会に南朝に講和を申し入れ,後亀山天皇はこれをいれて92年閏10月京都に還幸,三種の神器を後小松天皇に引き渡し,両朝合一が成り,内乱は終息した。なお幕府は,譲位の儀,両統迭立,大覚寺統の諸国国衙領支配という合一条件を履行せず,そのため南朝の皇胤や遺臣は,その後数十年間,断続的に挙兵した。
→建武新政 →後南朝
執筆者:小川 信
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