日本歴史地名大系 「水判土村」の解説 水判土村みずはたむら 埼玉県:大宮市水判土村[現在地名]大宮市水判土飯田(いいだ)村の東に位置する。村の中央の慈眼(じげん)寺は指扇(さしおうぎ)支台最南端の台岬にあり、台地はここから北西に延びて佐知川(さじかわ)村に続く。台地の西を除く三方は沖積低地が取巻き、東は鴨(かも)川、南は荒川筋の氾濫原となり、台地のすそを大宮町と川越城下を結ぶ道が通る。現浦和市氷川女体(ひかわによたい)神社蔵の大般若経巻未詳識語に「水判土慈眼房」とみえ、永禄四年(一五六一)長尾景虎(上杉謙信)方についた岩付(いわつき)(現岩槻市)太田資正攻撃のため出陣してきた北条氏康軍によって、翌五年一月二六日、当地の慈眼房が焼失している。田園簿によると高九二石余、反別は田七町四反余・畑五町四反余、高内草銭永二五〇文、旗本多門領、ほかに蓮華寺(慈眼寺)領一〇石があった。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by