朝日日本歴史人物事典 「水野忠央」の解説
水野忠央
生年:文化11.10.1(1814.11.12)
幕末の新宮城主で,江戸在住の紀州(和歌山)藩付家老。天保6(1835)年家督相続。嘉永5(1852)年,藩政の実権を掌握していた藩老山中筑後守,元藩主徳川治宝が続いて死去するに際し,その側近伊達宗広(千広)らを追放。幼主徳川慶福を擁して藩政指導の場に立つ。海防の充実を図り,江戸藩邸に文武場を設けて国学・蘭学の2学を置き,また自邸で洋式調練を行う。文学を好み稀覯書を収集,小中村清矩らの協力のもと『丹鶴叢書』として刊行。丹鶴は自身の号でもあり新宮城の別称でもある。のち井伊直弼を支持して慶福の将軍擁立を図った。桜田門外の変後の万延1(1860)年6月,幕府により隠居,新宮での蟄居を命ぜらる。元治1(1864)年5月蟄居解除,同8月鶴峯と改名した。
(井上勲)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報