精選版 日本国語大辞典 「グアテマラ」の意味・読み・例文・類語
グアテマラ
- ( Guatemala ) 中央アメリカの北部にある共和国。首都グアテマラシティ。四~一〇世紀にかけてマヤ文明が繁栄。一五二四年以後スペインの支配下に置かれた。一八二一年独立を宣言したが、翌年メキシコ帝国に併合。中米連邦参加を経て三九年に独立し、四七年に共和国となる。農業を主とし、コーヒー、綿花、砂糖などを輸出する。
翻訳|Guatemala
中央アメリカ中部の国。正式名称はグアテマラ共和国República de Guatemala。北と西をメキシコ、東をホンジュラスとベリーズ、南東をエルサルバドルと国境を接する。面積10万8889平方キロメートル、人口1123万7196(2002センサス)。首都はグアテマラ市。古代マヤ文明発祥の地であり、ラテンアメリカ諸国のなかでももっとも先住民人口の比率の高い国である。
[栗原尚子・国本伊代]
国土の東西方向に広がる太平洋沿岸低地、シエラ・マドレ山脈と中央高原、カリブ海沿岸低地およびペテン平原の四つの地域に大別される。太平洋沿岸低地は狭小であるが、近年バナナのプランテーションがカリブ海沿岸低地にかわって拡大している。シエラ・マドレ山脈は、メキシコとの国境では標高3500メートル以上に達し、東に向かって低くなり、ホンジュラスとの国境では2000メートルになる。中央アメリカの最高峰タフムルコ火山(4220メートル)をはじめとする火山や、火口湖のアティトラン湖、アマティトラン湖やアヤルサ湖などが点在する。シエラ・マドレ山脈に続く中央高原は、北東から南西に向かう断層に刻まれているが、河谷平野は厚い火山灰に覆われて肥沃(ひよく)な農業地帯を形成し、とくに山麓(さんろく)は同国の主要な産業であるコーヒー栽培の主産地となっている。シエラ・マドレ山脈と中央高原で国土の60%を占める。
この地域はまた地震の多発地帯でもある。1773年の大地震では旧首都アンティグアが壊滅したが、1976年2月にも中央部で大地震があり、死者2万3000、負傷者7万7000、倒壊家屋100万戸という被害を出し、国際的な救援活動が展開された。
一方カリブ海沿岸低地はホンジュラス湾岸に広がり、モタグア川河谷平野が中央高原にまで深く入り込んでいる。北部のペテン平原は国土の約3分の1を占める。ユカタン半島の南半分にあたり、湿地とカルスト地形を伴った石灰岩台地からなり、中央アメリカの他の地体構造とまったく異なっている。
気候は、太平洋沿岸低地では年平均気温が25℃を超え、年降水量は2000ミリメートルである。雨期と乾期に分かれ、サバナが卓越する。中央高原は同様に雨期と乾期に分かれるが、雨量、気温とも標高によって異なる。首都グアテマラ市の年降水量は1316ミリメートル、ケサルテナンゴでは670ミリメートルである。年平均気温は15~20℃で、高山性温帯気候に属し年間を通じて快適である。カリブ海沿岸低地やペテン平原は、高温多湿な熱帯雨林気候に支配されている。
[栗原尚子・国本伊代]
1522年、スペインの探検家ペドロ・デ・アルバラドPedro de Alvarado(1485―1541)によって征服される以前は、熱帯のジャングルの中に栄えたマヤ文明の中心地であった。ペテン湖の北のティカルでは、紀元後300~900年の間に、絵文字、精密な太陽暦、ゼロの数字を用いた二十進法、洗練された彫刻、絵画など、高度な文明を発達させていた。
1524年先住民の都イシムチェに初めてスペイン領グアテマラの首都が建設されたが、地震と大水害による破壊のためアンティグアに遷都された。1773年アンティグアが地震などの災害のために破壊され、1776年に現在の首都グアテマラ市に都市が再建設され、グアテマラ総督領の首都として、中央アメリカのスペイン植民地支配の拠点となった。1821年グアテマラ総督領は独立し、1822~1823年の間はイトゥルビデの率いるメキシコ帝国に併合されたが、同帝国の崩壊とともに中米連邦共和国が結成された。しかし各地域の利害が激しく対立して同連邦共和国は1839年に解体し、グアテマラは単独の独立国家となった。
独立後のグアテマラでは、数多くのクーデターが繰り返され、独裁者が次々と現われて実権を握った。まず中米連邦崩壊の直接の原因をつくったカレーラJosé Rafael Carrera Turcios(1814―1865)大統領はみずから定めた終身大統領の地位に就いて27年間実権を握った。1865年にカレーラ大統領の病死後武力で大統領の地位を手に入れたバリオスは、自由主義経済政策を推進すると同時に中米諸国の統一につとめ、その目的で侵略したエルサルバドルにおいて戦死した。1889年の政変で大統領となった次の独裁者エストラーダManuel Estrada Cabrera(1857―1924)は1920年まで実権を握り、晩年には奇行の多い暴君と化して議会によって「狂人」と議決され、その4年後に獄中で死亡した。
次の独裁者は1929年の世界恐慌でコーヒー・モノカルチュア(単一作物生産)経済が破綻した直後の1931年に、改革の政治を標榜して大統領に選出された軍人ウビコJorge Ubico Castañeda(1878―1946)である。彼は1944年に国民の蜂起(ほうき)で追放されるまで15年間実権を握った。独裁者ウビコを権力の座から引きずり降ろした改革運動は、アレバロとアルベンスという2人の大統領の下で、のちに「グアテマラ革命」とよばれる改革の政治を行った。
1952年に農地改革法を制定した革命政府は、当時グアテマラの可耕地の約半分を所有していた広大なバナナ・プランテーションを経営するアメリカ資本ユナイテッド・フルーツ社と対立。アメリカは社会改革を実施するグアテマラ政府を共産主義政権とみなし、CIA(中央情報局)に介入させて政府を転覆させた。その後文民政権が樹立されるまでの29年間、親米主義を標榜する軍事政権が続いた。
この軍部による強権政治に反対して立ち上がったのが反政府ゲリラ運動である。1960年に左翼ゲリラ統一組織を結成した反政府運動は、農民・労働者・都市住民の間に支持層を広めていき、1982年にグアテマラ全国革命統一連合を結成。1986年に民政移管が実現したがその後も内戦状態は続き、ゲリラ活動の激しさに比例して政府軍のゲリラ掃討作戦も残虐さを増し、軍部による拉致(らち)・殺害によって命を失った国民の数は30万以上に上ったとされる。このように戦場となったグアテマラから多くの国民が難民となって隣国メキシコに避難した。1991年に国際世論の圧力で両者間の和平に向けた話し合いが始まった。しかし軍部の強い反対から和平交渉は進展せず、紆余曲折(うよきょくせつ)を経て和平合意が成立したのは1996年12月であった。36年間という長い内戦状態に終止符が打たれたのである。
[栗原尚子・国本伊代]
三権分立による立憲共和制をとり、現行の憲法は1986年に制定されたものである。国家元相である大統領は18歳以上の国民の投票の過半数を得た政党から選出される。過半数を取得した政党がない場合は、上位2党による決選投票が行われる。大統領の任期は4年で、再選は絶対禁止となっている。議会は一院制で、任期4年の113名の議員で構成される。1994年に行われた選挙では、市民団体や労働組合の働きかけで選挙のボイコットが行われ、棄権率はほぼ80%に達した。政党には、この選挙で第一党となったグアテマラ共和戦線(FRG)、第2位の国民進歩党(PAN)のほかに、キリスト教民主党(PDCG)、国民中央同盟などがある。大統領には、1993年にデ・レオンRamiro de Leon Carpio(1942―2002)、1996年にPANのアルスAlvaro Enrique Arzu Irigoyen(1946―2018)、2000年にFRGのポルティージョAlfonso Antonio Portillo Cabrera(1951― )、2004年に右派・国民大連合(GANA)のオスカル・ベルシェOscar Bergerがそれぞれ就任した。
[栗原尚子・国本伊代]
グアテマラは中米諸国中最大の人口を擁し、多様な自然環境と資源に恵まれている。肥沃(ひよく)な土壌と気候の変化に富む国土のおかげでさまざまな農産物の栽培が可能である農業はグアテマラの基幹産業であるが、製造業を中心とする軽工業も比較的発達しており重要な役割を果たしている。農業は国内総生産(GDP)の25%(1994)、輸出総額の37%を占め、トウモロコシや小麦など国内消費用基礎作物のほかに、コーヒー、砂糖、バナナが重要な輸出産品となっている。グアテマラ・コーヒーは良質のアラビカ種で、中央高原一帯がおもな生産地であり、輸出総額の約20%を占める。
一方ユナイテッド・フルーツ社が中米地域で最初に進出して栽培したバナナは、当初太平洋岸の低地に拓かれたプランテーションで20世紀の初頭に栽培が始まった。現在ではカリブ海岸地域にバナナ・プランテーションが移動しており、さらに中米地域のバナナの主要生産地はホンジュラスやコスタリカに移っている。その他に比較的多角化された農業部門では、綿花、タバコ、果物、牛肉なども輸出されている。
工業部門は、1960年代から1970年代初めにかけて急成長をとげ、食品、飲料、繊維、衣料などの製造業が中米市場向けに発達したが、中米共同市場(CACM)の停滞と36年におよんだ内戦によって大きな打撃を受けた。しかし中米紛争の終結と域内の安定回復の下で活性化しつつあり、1993年には輸出総額の3分の1を工業製品が占めるに至っている。さらに1970年代の石油危機後に開発が行われた石油資源は、現在では少量ではあるが輸出するレベルにある。
[栗原尚子・国本伊代]
先住民、ラディノladino(混血)、ヨーロッパ系の人々で構成される。国民の42%が先住民からなり、ラテンアメリカで先住民人口が占める割合のもっとも高い国である。先住民はマヤ系民族で、もっとも人口規模の大きいキチェをはじめとして約20の言語集団に分かれている。スペイン語が公用語であるが先住民の固有の言語も広く話されている。マヤ系民族の強い伝統文化とアイデンティティは国民統合を難しくしてきたが、内戦の終結後、多民族・多文化社会を目ざす新しい動きが活発になっている。先住民の伝統的生活様式を捨てた人々および先住民と白人との混血はラディノとよばれ、国民の約50%がこの分類に入る。初等教育6年間が義務教育で、成人の識字率は68%(1999)となっている。国立のサン・カルロス大学は植民地時代の1676年に創設された伝統ある大学。大学生の数は7万を超す(1995)。
[栗原尚子・国本伊代]
『細野昭雄・遅野井茂雄・田中高著『中米・カリブ危機の構図』(1987・有斐閣)』▽『加茂雄三・細野昭雄・原田金一郎著『転換期の中米地域』(1990・大村書店)』▽『石井章編『冷戦後の中米―紛争から和平へ』(1996・アジア経済研究所)』
中央アメリカ、グアテマラ共和国の首都。アグア火山(3725メートル)とモタグア川河谷の間に広がる高原に位置する。年平均気温は20℃、年降水量は1316ミリメートルで5~10月が雨期となる。人口82万3301(1994センサス)、112万8800(2003推計)、中央アメリカ有数の都市である。1960年代初めには人口は60万弱であったが、他のラテンアメリカ諸国の首都と同様、人口増加が著しく、政治、経済、文化の中心的機能が集中する卓越都市(プライマイト・シティ)となっている。1773年の大地震により当時のスペイン領グアテマラの首都アンティグアが壊滅したため、1776年に当地グアテマラに遷都した。以後グアテマラはグアテマラ総督領の首都としてスペインの中央アメリカ支配の中心地となった。1917年、18年、76年には大地震の被害を被った。1960年代のグアテマラ共和国の目覚ましい工業化に伴い、主要な工業が集積し、農村からの人口流入によって著しく人口が増加した。パン・アメリカン・ハイウェーに沿い、カリブ海沿岸の外港プエルト・バリオスと太平洋沿岸の外港サン・ホセに鉄道が通じ、南方にはアウロラ国際空港があるなど交通の要地である。1676年創立のサン・カルロス大学があり、マヤ文明の遺跡カミナルフュー遺跡が残る。
[栗原尚子]
基本情報
正式名称=グアテマラ共和国República de Guatemala/Republic of Guatemala
面積=10万8889km2
人口(2010)=1436万人
首都=グアテマラGuatemala(日本との時差=-15時間)
主要言語=スペイン語(公用語),マヤ系言語
通貨=ケツァルQuetzal
中央アメリカの北部に位置する共和国。北はベリーズ,西はメキシコ,東はホンジュラスとエルサルバドルとに国境を接している。南は太平洋に大きく開かれており,また北はホンジュラス湾を通じてカリブ海とつながっている。中央アメリカ最大の人口を抱え,マヤ系先住民の比重ももっとも大きい国である。
地形的には,太平洋沿岸地帯,中部高原,北部渓谷地帯,ユカタン半島部(ペテンEl Petén)の四つに分けられる。太平洋沿岸はメキシコからエルサルバドルにつづく低地の一部をなしており,短いいくつもの川が流れ,降雨量も多い。中部高原はほぼ東西に走る二つの山脈にはさまれ,人口の多くはここに集中している。南のシエラ・マドレ山脈には火山が多く,その最高峰はタフムルコ山(4220m)である。火山のあいだにアティトラン等の美しい湖がある。北部ではカリブ海に向かって流れる川が深い渓谷をなしており,海寄りには同国最大のイサバル湖(590km2)がある。ペテン地域はユカタン半島の一部で石灰岩からなる低地をなしており,ほとんどが密林におおわれている。ティカル,ピエドラス・ネグラス等のマヤ文化の遺跡が多い。
気候は熱帯に属しているが,地形的な多様性からくる温度上の変化に富んでいる。海岸地帯での年平均気温は30℃近いが,高原では17℃に下がる。5月から11月にかけて雨季があり,11月から5月までが乾季である。総面積の半分は森林である。
人口の大部分はマヤ系の先住民および混血(ラディノladino)で占められ,白人の比重は小さい。公用語はスペイン語であるが,キチェー,カクティケル等のマヤ系言語を話す人々も多い。住民の7割近くは農村部に住み,多彩な先住民の慣習を受け継いでいる。ほとんどがカトリックの信者である。住民間の貧富の格差は大きく,特に農村では教育,保健衛生,住宅等の社会環境の整備は遅れている。教育は小学校(6年制)は義務化され無料であるが,卒業する生徒の数は多くはない。識字率(15歳以上,1995)は60%弱である。高等教育機関としては,グアテマラ市に国立のサン・カルロス大学(1676設立)等がある。社会サービスの多くは,首都に集中している。
同国の政体は1985年憲法で定められた立憲民主共和国で,大統領と一院制議会(定数は1994年から80名に削減された)とは4年ごとに直接の普通選挙で選出される。しかし,任期満了で政権を去った大統領の数は少なく,しばしばクーデタや革命で政権交代が行われてきた。全国は22の県departamentoに分けられ,各県の知事は大統領が任命する。軍隊は陸・海・空の三軍からなり,4万3000人の規模を持つが,1999年までに3分の1に減少する予定になっている。軍部の政治的・社会的発言力は,いまだに強力である。
グアテマラは中米全体の国民総生産の3分の1を占めるが,発展途上国に属し,国民所得の主たる源泉は農業と牧畜である。農牧業だけで経済活動人口の60%を占めている。国内消費向けのトウモロコシ,米,豆類等の生産のほか,輸出用商業作物として砂糖,バナナ,コーヒー,綿花等が栽培されている。石炭,貴金属,ニッケルなどの地下資源,さらに森林資源もあるが,開発が遅れている。近年,石油生産の比重が高まりつつある。工業はまだ未発達で,砂糖製品,繊維,衣服,家具,セメント等がグアテマラ市を中心に生産されている。主たる貿易相手はアメリカ合衆国で,機械,石油製品,肥料等が輸入され,輸出のほとんどは砂糖,コーヒー,綿花,果物類等の農産物である。近年は,中米諸国,日本,ドイツとの貿易量も増大している。通貨単位のケツァルは長期にわたって米ドルと交換比率を1対1に固定されてきたが,現在は変動相場制に移行している。国内運輸は主として道路に依存しているが,全長900kmほどの鉄道もある。国際空港がグアテマラ市にあり,カリブ海側と太平洋岸にはいくつかの港湾がある。
1990年代に入って,経済安定化政策が試みられているが,長期の内戦による社会的疲弊と,とくに農村部での極端な貧困とが,経済発展の大きな障害になっている。
グアテマラはもともとマヤ系の先住民が多く住んでいた場所で,彼らははじめユカタン半島で優れた文明を築いたが,ついで中部高原に進出し,いくつかの小王国を建設していた。1520年代になると,エルナン・コルテスの部下のペドロ・デ・アルバラドらのスペイン人征服者がメキシコより南下し,1541年にはアンティグア市が建設され,グアテマラ総監領が置かれた。鉱物資源に乏しかったため,主として牧畜と農業を中心に植民地社会が営まれた。なお,アンティグア市は1773年の大地震によって壊滅的な打撃を受けたため,総監領の中心地は76年にグアテマラ市に移されている。
1821年にメキシコが帝国として独立するとともに,グアテマラは同帝国の中米州の一部としてスペインから独立し,ついで中央アメリカ連邦(中央アメリカ)の指導的立場についたが,保守派と自由派の内部対立の激化は連邦の解体にいたり(1838),グアテマラは独立した主権国家となった。両派の対立は根深いものがあり,39年から71年まで保守派の長期政権がつづいたのち,自由派の革命によってフスト・ルフィノ・バリオスが政権につき,教会領の没収等の自由主義改革を促進した。
19世紀後半に生産量を増加させつつあったコーヒーは自由派政権下で同国の主要輸出品となった。その間,ドイツ資本を支えとしていたコーヒーに対し,アメリカ資本のもとでカリブ海側と太平洋側の低地でバナナ栽培が拡大し,20世紀初頭にはアメリカ企業ユナイテッド・フルーツ社が同国内で強大な権益を獲得した。バナナの積出港プエルト・バリオスとグアテマラ市および太平洋側のサン・ホセを結ぶ鉄道を敷設したのも同社である。1929年に始まる世界的大不況は同国経済に深刻な打撃を与えたが,31年にホルヘ・ウビコが大統領となり,44年のクーデタで倒されるまで独裁体制を維持し,反対勢力の弾圧と国家主義的経済政策の促進に努めている。44年10月には,小ブルジョアジー,学生が軍部の一部の支持を得て,ウビコを倒した軍事評議会を打倒し,翌年,改革派のフアン・ホセ・アレバロが大統領に選出された。アレバロの改革政策は,50年に選ばれたハコボ・アルベンス・グスマン大統領に受け継がれる。
アルベンス政権は,一連の進歩的政策を実施した。50年当時耕地の70%以上は2%の所有者の手に集中し,他方で57%の農民が土地を持っていなかった。新政権はこのような土地所有の不平等がグアテマラの社会的・経済的発展の障害になっているとし,その変革のために農地改革法を公布し,またユナイテッド・フルーツ社の所有地16万haを収用した。アルベンスの改革に反対する勢力はアメリカの支持を受け,54年6月には隣国ホンジュラスでアメリカのCIAの支援を得て反革命軍を組織していたカスティジョ・アルマス大佐がグアテマラに侵攻し,アルベンス政権は崩壊した。カスティジョ・アルマスたちは農地改革等の一連の改革政策を破棄している。
カスティジョ・アルマスは57年に暗殺され,翌年の選挙ではミゲル・イディゴラス・フエンテスが大統領に選ばれた。イディゴラスは経済開発政策を推し進めるとともに,アメリカの意向を受けて60年にはキューバとの国交を断絶している。同年11月にイディゴラス政権に反対する軍の一部が反乱を引き起こした。この反乱は鎮圧されたが,反乱派の若手将校の一部は左派のゲリラ戦争に加わり,トゥルシオス・リマのようにその指導者となった者もいる。60年代の前半に,グアテマラ各地でいくつものゲリラ組織が出現し,大衆運動も長期にわたる軍部の政治介入に反対し,土地改革を求めた。これに対して,イディゴラス,さらに66年に政権についたフリオ・セサル・メンデス・モンテネグロは厳しい弾圧策をもってのぞみ,国内での対立が激化した。70年に大統領となったカルロス・アラナ・オソリオ大佐も同様な政策を促進し,その大衆への弾圧政策は国際的な非難をあびた。74年にはキエル・ラウヘルド将軍が大統領に選出されたが,その選挙は露骨な軍部の干渉下に行われたため,法的有効性に大きな疑問がもたれた。
弾圧や指導者の相次ぐ戦死のために力が弱まっていたゲリラ運動は,70年代末から再生しはじめ,貧民ゲリラ軍等が農村部で勢力を拡大し,政府軍と激しい戦闘を交えるにいたった。戦火をのがれてメキシコに逃げこむ農民の数が増大したため,メキシコとの国際的緊張も生じた。
80年代に入ると,グアテマラでの政府軍と反政府派の武力衝突は完全な内戦状態を呈しはじめ,カーター政権時代には人権無視を理由に軍事援助を拒んでいたアメリカ政府は,政府側に武器援助を与えるにいたった。82年3月には軍部の強い支持を得たアニバサル・ゲバラ・ロドリゲス将軍が大統領に選ばれたが,野党の多くは選挙での不正を攻撃した。ゲバラが正式に大統領に就くより以前,3月23日に軍部と極右政党はクーデタを起こして権力を掌握し,リオス・モント将軍が大統領に就任した。しかし彼も83年8月,軍事クーデタでその地位を奪われ,国防相のメヒア・ビクトレスが軍事評議会議長に就任した。しかし,長期の軍部支配や人権侵害への内外の批判の声が高まり,86年1月にキリスト教民主党のビセンシアド・ビニシオ・セレソが大統領に就任して,31年間に及ぶ軍政が終わった。しかし,91年に大統領に選出されたホルヘ・セラーノは,議会との対立を理由に,93年5月にお手盛りクーデタで議会と最高裁を解散させた。彼は6月には内外世論の圧力と軍部の敵意のため亡命し,議会は人権オンブズマンのラミロ・デ・レオン・カルピオを大統領に選出した。
91年からゲリラ統一組織であるグアテマラ民族革命連合(URNG)との和平交渉が進められ,96年末に最終合意に達した。36年に及ぶ内戦は,10万を超える死者,20万の孤児を出したうえで一応終結したが,社会的荒廃や広範な人権侵害は解決されるにはほど遠い状況にある。軍部内にも和平に反対する極右勢力が根強い勢力を持っている。96年には中道右派の国民進歩党(PAN)のアルバロ・アルス・イリゴイェンが大統領に就任している。なお92年には,マヤ人の人権活動家リゴベルタ・メンチュ(1959- )がノーベル平和賞を受賞した。
執筆者:山崎 カヲル
グアテマラ共和国の首都であり,中央アメリカ最大の都市。人口102万(2001),大都市域人口337万(2001)。中部高原の南に位置し,標高1493mにあるため,気候は温暖である。1773年にそれまでグアテマラ総督領の中心地であったアンティグアが地震で大打撃を受けたため,76年に本市が首都となった。1821年のグアテマラ独立以降,短期間イトゥルビデのメキシコ帝国中米州の首都となり,ついで23年から33年まで中央アメリカ連合の首都が置かれた。それ以降は,グアテマラ共和国の首都として今日にいたっている。1874年,1917年,18年,76年には大地震に襲われて大きな損害をこうむった。
グアテマラ市には大統領官邸はもとより,政府省庁が集中し,また同国の各種産業活動の集積地でもあるため,街並みは近代化されている。国際空港をはじめとする国際・国内交通網,さらに同国の通信・金融・教育等の中心地でもある。グアテマラの工業活動の3分の2も同市に集中している。1676年に設立されたサン・カルロス大学や国立図書館も同市に置かれている。大統領官邸やカテドラル(1815建設)のような伝統的建築物と近代的ビルディングとが混在する都市である。
なお,市のはずれには古代マヤ族の重要な中心地のひとつカミナルフユKaminaljuyúがある。同地は前1000年よりも前からマヤ族の祭祀センターとして大きな役割を果たしてきたところで,10世紀までにはその重要性を失ってしまったが,今日でも壮大な遺跡が残っている。
執筆者:山崎 カヲル
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中央アメリカにあって太平洋とカリブ海に面し,メキシコ,エルサルバドル,ホンジュラス,ベリーズに囲まれた国。紀元前1千年紀からマヤ文明が発達したが,紀元9世紀以降に衰退し,その末裔が多くの集団に分かれて住んでいた。1520年代にスペイン人による征服と植民が進み,16世紀半ばには中央アメリカ全体を管轄するグアテマラのアウディエンシアが置かれた。1823年メキシコから分離した中央アメリカ連合の解体により独立し,ラファエル・カレラの独裁政権のもとに,1847年共和国の独立を正式に宣言した。1870年代から1940年代まで自由主義派の独裁が続いた。44年にアルベンスらが農地改革を中心としたグアテマラ革命を試みたが,アメリカの干渉で失敗。その後,強権的な寡頭(かとう)支配体制が続くなかでゲリラ勢力も拡大し,90年代まで内戦状態が続いた。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報
… 16,17世紀には二つの副王領しか存在しなかった。1535年に創設されたメキシコ市を主都とするヌエバ・エスパニャ副王領は現在の北アメリカの南部とメキシコ,それにパナマを除く中央アメリカ全域とアンティル諸島およびベネズエラの沿岸地方を含み,その領土内にはサント・ドミンゴ,メキシコ市,グアダラハラとグアテマラのアウディエンシアがあった。いまひとつは1543年に設置されたペルー副王領で,パナマのほか,ベネズエラ沿岸地方を除く南アメリカ全域を包摂し,リマを主都とした。…
※「グアテマラ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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