江馬庄(読み)えまのしよう

日本歴史地名大系 「江馬庄」の解説

江馬庄
えまのしよう

古代の田方郡依馬えま(和名抄)の郷名を継いだ庄園。遺称地は現伊豆長岡町域北端の北江間きたえま・南江間で、同地一帯に比定される。江馬(江間)地名は「吾妻鏡」建久四年(一一九三)九月一一日条に「江間」とみえ、幼年期の北条泰時が当地に住居していた。泰時は江間太郎と名乗っていたが(同書同五年八月一六日条など)、江間を名字とした者の存在は平安末期からみえ、仁安三年(一一六八)とも伝える源頼朝の愛人伊東祐親三女の嫁ぎ先は江馬次郎であった(妙本寺本「曾我物語」巻二)。延慶本「平家物語」(兵衛佐伊豆山ニ籠ル事)ではエマノ小次郎、「源平闘諍録」(十頼朝子息千鶴御前被失事)では江葉小次郎近末とする。妙本寺本「曾我物語」巻三は、のちに江馬次郎は頼朝によって滅ぼされ、北条義時がその子江馬小次郎を預かり、烏帽子子としたとしている。義時自身養和元年(一一八一)から江間四郎(小四郎)を名乗り(「吾妻鏡」同年四月七日条)、江馬の地は義時が開発領主江馬氏から没収したものと考えられる。鎌倉期に散見する江間平内兵衛入道(建治元年五月「六条八幡宮造営注文」国立歴史民俗博物館蔵)、江馬兵衛入道・江馬平内・江馬平四郎(元亨三年一〇月二六日「北条貞時十三年忌供養記」円覚寺文書)、江馬彦次郎(「太平記」巻九越後守仲時已下自害事)らは、北条氏の被官となった伊豆江馬氏であろう。なお泰時の館跡は現南江間字中之台なかのだいの伊豆箱根鉄道グラウンドとされている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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