日本歴史地名大系 「池之端七軒町」の解説 池之端七軒町いけのはたしちけんちよう 東京都:台東区旧下谷区地区池之端七軒町[現在地名]台東区池之端(いけのはた)二丁目下谷茅(したやかや)町二丁目の北、不忍(しのばず)池北西側にある。かつて一帯は葦・真菰などの群生する湿地で、地下を五、六尺も掘ると真菰の根などが出てくる。西側は水戸藩中屋敷で地面は相当高くなっている。その下の道は加賀金沢藩前田氏上屋敷を抜けて本郷に出られた。これを榎(えのき)坂という(御府内備考)。当地は三代将軍徳川家光の時代以来、中間頭黒柳(のち畔柳)助九郎組と小人頭牧野金助組の拝領地であったが、いつの頃にか武家方・寺方と町人七人により買受けられた。これが町名の由来とされる。市右衛門が名主になり、代々相続したが、残りの六人は変わり、広い所を分割して売ったので地主は文政九年(一八二六)時には一五人に増加していた。町は五ヵ所に分れる。第一は下谷茅町二丁目との境で心行(しんぎよう)寺の東にあり、東西表間口六間一尺・南北二五間五尺。第二は慶安(けいあん)寺の西にあり、道を隔てた西側には正慶寺(しようけいじ)門前や妙顕(みようけん)寺がある。東西は南方一八間・北方二一間、南北表間口で一七間三尺。第三は同所北側の道を隔ててすぐの所にあり、東西一五間・南北表間口一七間三尺。第四はその北方、北・東を加賀大聖寺藩前田氏の抱屋敷に囲まれた東西が南方三〇間三尺・北方二九間一尺、南北表間口二〇間の場所。第五はその北西、北へ向かう道の西側にある。南を忠綱(ちゆうこう)寺、北を休昌(きゆうしよう)院に挟まれ、道を隔てた東は大聖寺藩抱屋敷、東西は南方一七間三尺・北方一九間三尺、南北表間口二三間三尺である。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報