北村季吟(読み)キタムラキギン

デジタル大辞泉 「北村季吟」の意味・読み・例文・類語

きたむら‐きぎん【北村季吟】

[1625~1705]江戸前期の歌人俳人古典学者。近江の人。通称久助。号、拾穂軒。飛鳥井雅章あすかいまさあき歌学を、松永貞徳俳諧を学び、のちに幕府に仕えた。著「徒然草文段抄」「源氏物語湖月抄」「枕草子春曙抄」など。

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精選版 日本国語大辞典 「北村季吟」の意味・読み・例文・類語

きたむら‐きぎん【北村季吟】

  1. 江戸前期の古典学者、俳人、歌人。通称、久助。号は拾穂軒(しゅうすいけん)・湖月亭・慮庵。近江の人。松永貞徳に和学・俳諧、飛鳥井雅章和歌を学び、のち幕府に仕える。和漢・神儒仏の学に精通し、中世以後の古典の注釈を集大成。門弟に芭蕉、素堂などがある。著は「徒然草文段抄」「源氏物語湖月抄」「枕草子春曙抄」「万葉集拾穂抄」、句集「新続犬筑波集」など。寛永元~宝永二年(一六二四‐一七〇五

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「北村季吟」の意味・わかりやすい解説

北村季吟
きたむらきぎん
(1624―1705)

江戸前期の国学者、俳人、歌人。通称久助。別号は芦庵(ろあん)、拾穂軒(しゅうすいけん)、湖月亭など。近江(おうみ)国(滋賀県)野洲(やす)郡(現、野洲市)の人で、医師北村宗円の長男として寛永(かんえい)元年12月11日に生まれる。若くして上京し、初め俳諧(はいかい)を安原貞室(やすはらていしつ)(1610―1673)に師事し、ついで貞室の師松永貞徳(まつながていとく)に従って、広く古典を学んだ。24歳のとき季寄(きよせ)『山之井(やまのい)』を刊行し、ついで『師走(しわす)の月夜』などを刊行。貞徳没後は俳諧宗匠として独立し、積極的に俳諧活動を行い、『祇園(ぎおん)奉納連歌誹諧合(はいかいあわせ)』『新続犬筑波集(しんぞくいぬつくばしゅう)』(1660序)等の句合や撰集(せんじゅう)を出し、また古典の注釈にも力を注ぎ、『大和(やまと)物語抄』(1653)『土佐日記抄』(1661)『伊勢(いせ)物語拾穂抄』(1680)などを完成させている。1683年(天和3)には京都新玉津島神社の社司となったが、1689年(元禄2)66歳のときに将軍家の歌学方として、長男の湖春(1648―1697)とともに召され、江戸に居住した。1699年には法印に叙せられ、再昌院(さいしょういん)の号を受け、栄達の極みに達した。季吟は芭蕉(ばしょう)の師とされるが、それは若年の一時期で、以後二人の交流はみられない。季吟の編著は『季吟十会集(じっかいしゅう)』(1672)『続連珠(ぞくれんじゅ)』(1676)『誹諧埋木(うもれぎ)』(1673)などの俳諧関係、大部な『源氏物語湖月抄』(1673成立)『枕草子春曙抄(まくらのそうししゅんしょしょう)』(1674成立)『八代集抄』(1682)などの注釈書、その他歌集などがある。宝永(ほうえい)2年6月15日没。

[雲英末雄 2016年5月19日]

 一僕(いちぼく)とぼくぼくありく花見かな

『野村貴次著『北村季吟の人と仕事』(1977・新典社)』


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改訂新版 世界大百科事典 「北村季吟」の意味・わかりやすい解説

北村季吟 (きたむらきぎん)
生没年:1624-1705(寛永1-宝永2)

江戸前期の歌学者,俳人。名は静厚(しずあつ)。通称は久助。別号は蘆庵(呂庵),七松子,拾穂軒(しゆうすいけん),湖月亭。山城国粟田口の生れ。祖父宗竜・父宗円が連歌をよくした影響で,早くから文事に親しみ,16歳で貞室,22歳で貞徳に入門。1648年処女作《山之井(やまのい)》を刊行し,重頼と抗争中の貞室を助けて俳壇に名を挙げ,53年には《紅梅千句》の大興行に参加,跋文も書いた。貞徳没後は飛鳥井雅章(まさあきら)・清水谷実業(さねなり)に和歌・歌学を学び,歌道に明るくなると,貞室の無知がうとましく不和となり,56年《誹諧合(はいかいあわせ)》を出して独立を宣言,以後は撰集《新続犬筑波(いぬつくば)集》(1660),俳論書《埋木(うもれぎ)》(1673),句合書《六百番誹諧発句合(ほつくあわせ)》(1677)等を続々と著し,俳壇に不動の地位を築いた。一方歌学者としても,和歌詠作に資する目的で,1652年刊《大和物語抄》から,86年成立《万葉拾穂抄》に至る約30年間に,《土左日記抄》《伊勢物語拾穂抄》《徒然草文段抄》《源氏物語湖月抄》《枕草子春曙(しゆんしよ)抄》など,数多くの古典注釈書を出した。ほかに,仮名草子《仮名列女伝》(1655)がある。83年,京都新玉津島神社の社司となり,89年には子の湖春とともに幕府歌学方に仕え,のち法印,また再昌院の院号を賜った。宝永2年6月15日没。82歳。辞世〈花もみつ郭公をも待ち出でつこの世後の世思ふ事なき〉。俳風は純正の貞門風で可も不可もない。〈地主からは木の間の花の都かな〉(《花千句》)。
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朝日日本歴史人物事典 「北村季吟」の解説

北村季吟

没年:宝永2.6.15(1705.8.4)
生年:寛永1.12.11(1625.1.19)
江戸前期の俳人,歌人,和学者。名静厚。通称久助。慮庵,七松子,拾穂軒,湖月亭などと号した。祖父宗竜,父宗円とも近江野洲郡北村(滋賀県野洲町)の医師であり,連歌をよくした。季吟は父の修業先の京都で出生したとされる。医業を学ぶかたわら早くから俳諧に関心を持ち,寛永16(1639)年に安原貞室に入門した。やがて貞室の師松永貞徳の直門となる。季吟の古典注釈の素養は貞徳の指導により学問として結実をみることになる。 貞徳の没後,かつての師であった貞室とは疎隔を生じたが,その理由ははっきりしない。俳人および古典研究者としての活躍の場は広がる一方で,京のあらゆる階層の人々に古典を講釈し,俳諧を指導した。業績は次第に古典注釈の方に偏りをみせるようになり,講釈がそのまま注釈書として刊行された。『大和物語抄』『土佐日記抄』『伊勢物語拾穂抄』『徒然草文段抄』『源氏物語湖月抄』『枕草子春曙抄』『八代集抄』『百人一首拾穂抄』など,その注釈は主な古典の大半に施されたといってよい。諸説を手際よく整理して穏当な見解に落ちつくのが特徴で,『八代集抄』は近年までほとんど唯一の八代集全注として価値を有した。新玉津島社の神官となる天和年間(1681~84)には俳業をほとんど廃して古典注釈に没頭,元禄2(1689)年には,子息の湖春と共に幕府歌学方に召され,江戸に下る。以後北村家は代々歌学方を襲い,幕臣の文化圏の一中心となる。湖春に先立たれる(1697)などの不幸もあったが,功成り名遂げた満足感の中に一生を終えた。俳人としては貞門の有力者のひとりだが,その指導力には限界があり,強烈な個性で門人を引っ張るようなところはなかった。和歌では『季吟子和歌』があるが,本領はあくまで古典注釈にあった。ほかにも著述は極めて多い。<参考文献>野村貴次『北村季吟の人と仕事』,『北村季吟古註釈集成』

(久保田啓一)

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百科事典マイペディア 「北村季吟」の意味・わかりやすい解説

北村季吟【きたむらきぎん】

江戸前期の歌学者,俳人。名は久助。別号拾穂軒,湖月亭等。山城国粟田口の生れ。医師であり,連歌をよくした祖父,父の流れをうけ,医学修業のかたわら,貞室,貞徳に俳諧を学ぶ。貞徳没後,飛鳥井雅章らに歌学を学び,俳壇活動の一方,歌学者としても旺盛な著作活動を展開した。処女作《山之井》,俳論書《埋木(うもれぎ)》などの俳書のほか,《源氏物語湖月抄》《枕草子春曙抄》など多数の古典の注釈書がある。門下に素堂芭蕉など。1689年,子の湖春とともに幕府歌学方として召し抱えられる。
→関連項目鬼貫歳時記貞門枕草子柳沢吉保山岡元隣

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「北村季吟」の意味・わかりやすい解説

北村季吟
きたむらきぎん

[生]寛永1(1624).12.11. 近江
[没]宝永2(1705).6.15. 江戸
江戸時代前期~中期の古典学者,歌人,俳人。幼名,久助。号,七松子,拾穂軒,湖月亭など。父は医者で連歌の宗匠。父の教えを受け,19歳の頃,松永貞徳に師事,古典,和歌,俳諧を学び,のち飛鳥井雅章,清水谷実業らに歌学を学んだ。京都に住んだが,元禄2 (1689) 年幕府の歌学方となり,息子の湖春とともに江戸に下った。貞門の俳人として重きをなし,『山之井』 (48) ,『新続犬筑波集』 (67) ,『埋木 (うもれぎ) 』 (73) ,『続連珠』 (76) などの編著書,歌集『季吟子和歌』 (84) などを刊行,また『徒然草文段抄』 (67) ,『源氏物語湖月抄』 (73) ,『枕草子春曙抄』 (74) ,『八代集抄』 (82) ,『万葉拾穂抄』 (82~86) など大部の注釈書を出し,古典学,俳諧の普及に尽した。ほかに翻訳『仮名烈女伝』 (55) ,仮名草子『岩つつじ』 (76) など。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「北村季吟」の解説

北村季吟
きたむらきぎん

1624.12.11~1705.6.15

江戸前期の歌人・俳人・和学者。名は静厚。通称久助。別号は慮庵(りょあん)・呂庵・七松子・拾穂軒・湖月亭。近江国北村の人。祖父・父につぎ医学を修めた。はじめ貞室に,のち貞徳直門となり,「山之井」刊行で貞門の新鋭といわれた。飛鳥井(あすかい)雅章・清水谷実業(さねなり)に和歌・歌学を学んだことで,「土佐日記抄」「伊勢物語拾穂抄」「源氏物語湖月抄」などの注釈書を著し,1689年(元禄2)には歌学方として幕府に仕えた。俳諧は貞門風をでなかったが,「新続犬筑波集」「続連珠」「季吟十会集」の撰集,式目書「埋木(うもれぎ)」,句集「いなご」は特筆される。元隣・芭蕉・素堂らのすぐれた門人を輩出したことも,俳諧史上大きな意義がある。

出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「北村季吟」の解説

北村季吟 きたむら-きぎん

1625*-1705 江戸時代前期の俳人,歌人,国学者。
寛永元年12月11日京都で生まれる。安原貞室,松永貞徳に師事し,俳諧(はいかい)宗匠としてたつ。また古典研究に力をそそぎ,「源氏物語湖月抄」をはじめとする注釈書を多数刊行。元禄(げんろく)2年長男の湖春とともに幕府の歌学方(かがくかた)となり,12年再昌院の号と法印の称号をうけた。宝永2年6月15日死去。82歳。名は静厚。通称は久助。別号に慮庵,拾穂軒,湖月亭など。編著に「新続犬筑波集」など。
【格言など】花も見つほととぎすをも待ち出でつこの世後の世思ふことなき(辞世)

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旺文社日本史事典 三訂版 「北村季吟」の解説

北村季吟
きたむらきぎん

1624〜1705
江戸前期の古典学者・歌人・俳人
近江(滋賀県)の人。松永貞徳門下七俳仙の一人として活躍。また古典文学の注釈にすぐれた仕事を残し,『源氏物語湖月抄』『枕草子春曙 (しゆんしよ) 抄』などがあり,ほかに俳書・歌集もある。のち幕府歌学方となった。

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367日誕生日大事典 「北村季吟」の解説

北村季吟 (きたむらきぎん)

生年月日:1624年12月11日
江戸時代前期;中期の俳人;歌人;和学者;幕府歌学方
1705年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内の北村季吟の言及

【埋木】より

…俳諧論書。北村季吟著。1655年(明暦1)成立,73年(延宝1)刊。…

【仮名列女伝】より

…8巻。中国宋代の劉向の《列女伝》を北村季吟が翻訳したもので,124話の中国の賢女貞女の逸話を載せる。ただし妲己(だつき)や褒似(ほうじ)のごとき悪女の例も載せている。…

【源氏物語湖月抄】より

…注釈書。著者は北村季吟。60巻60冊。…

【古今和歌集】より

…内容は必ずしも高くないが,朗詠の譜や歌会の故実などまで広く含み,戦後乱世を通じて学芸の保持,伝達に果たした役割は大きい。中世の研究は北村季吟《八代集抄》(1679‐81成立)に総括され,近世の研究に基礎を提供した。契沖の《古今余材抄》(1692成立)は近世的な科学的研究を開始した重要な研究であり,本居宣長《古今和歌集遠鏡(とおかがみ)》(1794成立)は最初の口語訳である。…

【山之井】より

…俳諧季寄せ。北村季吟著。1647年(正保4)成立,翌年刊。…

※「北村季吟」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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