改訂新版 世界大百科事典 「河副荘」の意味・わかりやすい解説
河副荘 (かわそえのしょう)
肥前国佐嘉郡(現,佐賀県佐賀市北川副町,同市の旧川副町)にあった荘園。この地域は有明海に面した干潟が陸地化したものであるが,《長秋記》大治5年(1130)7月20日の条に,〈最勝寺御庄,肥前国河副,本数二千石也〉と見えるのが初見史料で,山城国最勝寺領であったことがわかる。ところが新立荘園であったので,年貢2000石のうち,到来したのは800石に過ぎなかった。この地を寄進した大僧正の申状によると,田数が作満していないために,年貢2000石を進めることができないと述べている。鎌倉時代惣地頭として大江広元・大仏朝房などが補任され,大江広元は荘内に極楽寺を建立し,灯油免田1町を寄進している。さらに大仏朝房は関東祈禱所となった高城寺に,荘内の所領所職を寄進した。鎌倉時代末期には得宗領化し,南北朝時代には勲功のあった武士に恩賞地として配分されている。のちには河副本荘,新荘,下荘,北荘,南荘などの呼称が見えるが詳細は不明である。
執筆者:瀬野 精一郎
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報