鎌倉幕府執権北条氏の家督。徳宗,徳崇とも書く。鎌倉北条氏2代義時の法名に由来し,その嫡流の家督をさすようになり,さかのぼって初代時政のほか,夭折して家督を継がなかった時氏も含めて,いわゆる〈北条九代〉(時政,義時,泰時,時氏,経時,時頼,時宗,貞時,高時)を総称する語になった。初代時政は将軍源頼朝の外舅として一般御家人とは別格の地位を与えられていたが,頼朝没後,御家人の列に下り,1203年(建仁3)9月比企能員一族を攻め滅ぼして2代将軍頼家を追放し,政所別当に就任,幕政を執権した。しかし05年(元久2)後妻牧氏の陰謀により(牧氏の変),子の政子,義時のため伊豆に追われて隠退した。このことがあったため,北条氏嫡流家は時政を初代とはしなかったものと思われる。13年(建保1)5月和田義盛を倒した義時は,政所別当に侍所別当を兼ね,鎌倉北隣の山内荘を拝領して,幕政の実権を掌握し,21年(承久3)の承久の乱で京都の後鳥羽院政に対する鎌倉幕府の優位を確立した。義時の死後に起こったその後妻伊賀氏の変で3代泰時の惣領権の弱さが露呈したので,泰時は一族に対する惣領権を強化するために,家政機関の公文所の設置,家令職の創設,家法の制定などを行った。このとき泰時が父義時の権威を借りようとしたことが,嫡流の家督を得宗と呼ぶ風を成立させたものであろう。このことは,幕府における泰時が《御成敗式目》を制定して法治主義をとり,連署,評定衆を創設して合議制をとったとき,頼朝の名を権威として振りかざしたことと同工である。
北条氏の所領は,本来の狭小な伊豆北条のみならず,しだいに増加していった。諸荘郷の地頭職が主であるが,初期には預所職兼帯も多かった。時政が遠江蒲御厨・河村荘,駿河益頭荘,越前大蔵荘・牛原荘,肥前阿蘇社,伊豆寺宮荘・仁科荘などを得,義時が相模山内荘・菖蒲,上総橘木荘,播磨在田荘,陸奥平賀郡・鼻和郡・田舎郡・山辺郡,尾張富田荘などを得,泰時が信濃小泉荘,陸奥遠田郡,大和波多荘,摂津多田院などを得たほか,一門の時房の上総飯富荘,伊勢勾御厨・丹生山・南堀江・永恒,伊賀予野荘,淡路志筑荘,実泰の武蔵六浦荘,有時の紀伊山東荘などもある。これらは,梶原,比企,和田,三浦などの族滅事件や承久の乱などを契機として北条氏領化したようである。
泰時の政治は,将軍の政務の御代官としての執権の地位に準拠したものであったため,これを執権政治と呼んでいる。執権政治は泰時の孫時頼が,1246年(寛元4)の宮騒動で一門の名越光時らを膺懲(ようちよう)して一門に対する惣領権を確立し,47年(宝治1)の宝治合戦で三浦泰村一族を滅ぼし,49年(建長1)に引付衆を置いたころまで続いた。しかし56年(康元1)11月,時頼は出家して執権を辞したあとも幕政を掌握していた。このときの時頼の権力の根拠は執権職にはなく,得宗という地位にあったものと考えられ,したがってこの時期に得宗専制が成立したと見ることもできる。
得宗家の権力伸張に伴って,その所領は得宗領または御内御領,御内所領と呼ばれて一般所領と区別され,一定の権威を持つようになった。得宗領在地は,初期には一般御家人が代官として支配することもあったが,やがて在地の豪族が代官に起用されることが多くなった。これを得宗被官または御内人(みうちびと),御内之仁という。その中でも尾藤,万年,関,金窪,南条,平,長崎などは,代官になっても在地土豪を又代官に任じて支配にあたらせ,みずからは在鎌倉の得宗に近侍して,一般御家人の外様に対し御内(みうち)と呼ばれ,一定の政治勢力になっていた。また得宗,一門の諸国守護職占取も進み,とくにモンゴル襲来を契機として西国,九州に増加し,全国の過半数を占めるにいたった。
85年(弘安8)11月の弘安合戦で外様の代表安達泰盛一族とその与党が滅びるや,内管領平頼綱の専権が樹立された。この時点を得宗専制成立と見る説が有力だが,すでに御内専制に変質していたともいえる。頼綱は93年(永仁1)の平禅門(へいぜんもん)の乱で滅び,得宗貞時の権力回復が10余年続いたが,得宗9代高時が嗣立して以降は,内管領長崎高綱,高資父子が専横をきわめた。高時は得宗として権威はあっても実権を伴わず,闘犬と田楽にうつつを抜かす奢侈生活を送るのみであった。時頼のころに始まった得宗私邸における重要秘密会議は,時宗のころには寄合衆として制度化されていたが,これもやがて執権職・評定衆と同様に形骸化して栄爵と化した。わいろ,陰謀,密偵,讒言(ざんげん),弾圧,不正裁判が渦巻く腐敗政治の中で,諸国に蜂起する悪党の鎮圧に手を焼き,全国の反幕勢力の決起の前に,1333年(元弘3)5月22日鎌倉幕府は倒れた。高時と北条一門数百名は鎌倉葛西ヶ谷の東勝寺で自刃したのである。
執筆者:奥富 敬之
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鎌倉幕府の執権(しっけん)北条(ほうじょう)氏嫡流の代々の当主をさす。「徳宗」とも記す。得宗とは本来、北条義時(よしとき)の法名であったが、義時ののち、北条氏嫡流の当主となった泰時(やすとき)―経時(つねとき)―時頼(ときより)―時宗(ときむね)―貞時(さだとき)―高時(たかとき)らの別称としても用いられるに至った。これら北条氏嫡流の当主をさして、「将軍家御後見として、政務を申行(もうしおこない)(略)、昇進に於(おい)ては家督(徳宗)従(じゅ)四位下をもて官途して遂に過分の聞えなし」(『梅松論』上)と称せられたゆえんである。
執権、連署(れんしょ)、評定衆(ひょうじょうしゅう)など幕府の要職が北条氏一門によって占められると、あらゆる権力は北条氏嫡流の当主、すなわち得宗に集中することとなった。これを得宗専制という。時頼のころからは得宗の私邸で行われる寄合(よりあい)(評定衆の一部ならびに得宗側近の人々の会合)がすべてを決定し、公的な議決機関たる評定会議に優越する事態となり、得宗は執権職を離れたのちも、一門の人をその職につかせて、政治の実権を掌握し続けた。そのため幕府の公的な政治制度は形骸(けいがい)化し、将軍の地位そのものまでもが傀儡(かいらい)と化するに至った。得宗の被官(家臣)は御内人(みうちびと)と称されて、陪臣たるにもかかわらず、一般の御家人(ごけにん)(将軍家の直臣)にも勝る発言力を行使することになった。零落した御家人のなかからは、北条氏の被官となって生計を維持しようとする者も現れた。得宗の側近(内管領(ないかんれい))となり、幕政を壟断(ろうだん)して、人々の謗(そし)りを受けた平頼綱(よりつな)、長崎高資(ながさきたかすけ)らは御内人の代表ともいうべき存在である。
北条氏一門の所領は全国各地に広がり、そのなかでも、得宗の所領は最大の比重を占めた。これを得宗領という。得宗家の家政機関たる公文所(くもんじょ)は多数の職員を抱えて、全国各地にわたる所領の管理にあたったが、このほかにも得宗方(裁判関係)、御内侍所(さむらいどころ)(軍事関係)などの家政機関があった。各地の所領には得宗被官が派遣されて、地頭(じとう)代、政所(まんどころ)、給主などとなり、年貢の収納をはじめとする管理業務の遂行にあたったが、このような所領管理システムは同時代の公家(くげ)・寺社による荘園(しょうえん)管理のそれときわめて類似したものであった。ところで、全国各地にわたる得宗領の維持、管理のうえで交通路の掌握が不可欠であったことはいうまでもない。そのため鎌倉の和賀江(わがえ)島から瀬戸内・日本海を経て奥州津軽十三湊(とさみなと)にまで至る、主要な関・渡・津・泊が得宗の管理下に置かれた。得宗の家紋(三鱗(みつうろこ))を旗印に関税免許の特権を得て日本海航路を往来した船団の存在も知られている。得宗家の保護を得て各地に教線を伸ばした禅宗(臨済宗)、律宗(西大寺流)などの末寺も、交通路に沿った得宗領の中に設定されることが多かった。
[入間田宣夫]
『網野善彦著『日本の歴史10 蒙古襲来』(1974・小学館)』▽『奥富敬之著『鎌倉北條氏の基礎的研究』(1980・吉川弘文館)』
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徳宗とも。鎌倉幕府の執権北条氏の家督。「梅松論」に「家督を徳崇(宗)と号す」とあり,時政・義時・泰時・時氏・経時・時頼・時宗・貞時・高時の9代をさす。北条義時の法名徳崇に由来するといわれる。実際に得宗を称したのは時宗の頃からで,それ以前の代々の家督も得宗とよぶようになった。義時の頃から家政機関が整えられ,政治力と経済力で他の一門を圧倒するようになり,得宗家の基盤が作られた。時頼が執権を一門の長時に譲ったのちも政務を執ったのは,彼が得宗の地位にあったことによる。この頃から評定衆の会議より,寄合(よりあい)といわれた得宗亭内での内談が重視され,専制化が図られた。
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…朝廷では形式的主権者である天皇と,執政者である治天の君との分裂である。幕府では鎌倉殿・執権・得宗(北条氏の家督)の間に権力の分裂が認められる。このような権力の多元的分裂のなかで,鎌倉後期になると集権化,一元化の傾向が見られるようになり,平安後期以来の荘園制的秩序,公武関係の秩序は動揺する。…
…執権は複数となり(1名がいわゆる連署),評定衆が置かれ,32年(貞永1)には最初の武家法典である《御成敗式目》が制定され,裁判の公正が図られた。 泰時の孫の時頼のころから,北条氏の家督である得宗と,その家臣である御内人(みうちびと)による得宗専制政治が始まった。得宗で執権である時頼は,46年(寛元4)陰謀を理由に前将軍九条頼経を京都に追い,当時京都で権勢を振るっていた頼経の父の前摂政道家を失脚させただけでなく,これを契機に朝廷の政務への干渉を強め,〈治天の君〉(政治の実権を握る上皇,ときには天皇)や天皇を選定する権限までも掌握した。…
…なお,この政所への改称の時期については1185年(文治1)とする異説もある。また鎌倉中期以降,北条氏得宗の地位が高まって得宗領と御内人が増加すると,これを統轄してその訴訟を扱う機関が公文所と呼ばれており,《沙汰未練書》には〈公文所トハ相模守殿御内沙汰所也〉と記されている。【福田 豊彦】。…
… 頼朝の死後,梶原景時が失脚して播磨守護を解任され,99年(正治1)下野の小山朝政がこれに替わった。小山氏の守護は建治(1275‐78)ころまでつづいたが,そのあと北条氏得宗(とくそう)(惣領家)の職となり,北条時業を経て六波羅探題北方兼任となった。景時討伐に功のあったのは駿河の水軍の武士たちで,景時が播磨でもっていた水軍基地の一つ神護寺領福井荘地頭職(海上警護の任をもつ)を吉香(吉河)小次郎の遺子がもらっている。…
…1203年(建仁3)時政は将軍頼家を廃して政所別当となり,その子義時は13年(建保1)和田義盛を倒して侍所別当を兼ね,執権政治への道を開き,21年(承久3)の承久の乱で幕府の覇権を樹立した。義時死後の24年(元仁1)に起こった伊賀氏の変で,北条氏の惣領権の弱さが暴露されたが,父義時の法名〈得宗〉を権威として,公文所,家令,家法などを始めた泰時の努力によって,やがて惣領権が確立した。嫡流の家督を得宗,所領を得宗領(御内所領,御内御領),被官を得宗被官(御内人(みうちびと),御内之仁)と呼ぶ風が成立し,時政の鎌倉名越の屋地を伝領した名越氏に不穏のことがあった以外には,一門諸氏への惣領支配権は確立したといえる。…
…国守は初め義信,朝雅と源氏が任じられたが,1207年(承元1)の時房以降は代々北条氏となり,執権,連署が多くこの地位にあった。そして13世紀半ば以降,北条氏家督の地位が執権と分離するようになると国務は得宗に属し,御内人(みうちびと)が留守所(るすどころ)を指揮して運営に当たるようになった。北条氏の国務運営は概して積極的であり,鎌倉街道をはじめ諸道路の改補,荒野の開発,沼堤の改修などの記事が《吾妻鏡》にみえている。…
…しかし28年(安貞2)ごろ彼は罪科により守護職,税所職等を失い,かわって北条時氏が守護となる。税所職や旧忠時所領の今富名地頭職なども北条氏得宗(とくそう)(嫡流)の手に握られ,以来幕府の滅亡まで守護職は得宗および北条一門の掌握下にあり,その支配は若狭全体に強くおよんだ。65年(文永2)の若狭国惣田数帳案の朱注によれば,鎌倉末期ごろ得宗が地頭職を有した所領は20ヵ所を下らず,その田数は国全体の4分の1以上にも達し,ほかに税所職やその支配に属する国衙領の名(みよう)などをも加えると,得宗の勢威はきわめて強大であった。…
※「得宗」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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