日本歴史地名大系 「河原代村」の解説 河原代村かわらしろむら 茨城県:龍ケ崎市河原代村[現在地名]龍ケ崎市川原代(かわらしろ)町小貝(こかい)川左岸の低地にあり、北は入地(いれじ)村、南は高須(たかす)村(現北相馬郡藤代町)。川原代村とも書く。文和二年(一三五三)の安楽(あんらく)寺鰐口銘に「総州相馬郡河原代安楽寺」とある。天正年間(一五七三―九二)に上野国太田金山(かなやま)(現群馬県太田市)から移った由良氏の所領となったが、寛永六年(一六二九)に牛久藩領、延宝七年(一六七九)には旗本土屋氏領となり幕末に至る(「村柄一村限調帳」宝田家文書)。慶応二年(一八六六)の村高は一千五石余で、家数二二〇・人数一千一九三(「地頭姓名村高家数書上帳」吉浜家文書)。寛永年間当村の北を流れていた小貝川が南に移され、現在の流路となった。 河原代村かわらだいむら 埼玉県:北葛飾郡栗橋町河原代村[現在地名]栗橋町河原代(かわはらだい)新井(あらい)村の北に位置し、正保国絵図・田園簿には川原代新田などとみえる。田園簿によれば田高二三〇石余・畑高二四一石余で、幕府領。元禄郷帳では高三一三石余、国立史料館本元禄郷帳では旗本榊原・久津見二氏の相給。天保三年(一八三二)の島中川辺領拾三ヶ村高書上帳(小林家文書)・旧高旧領取調帳などでも同じ。助郷は日光道中中田(なかだ)宿(現茨城県古河市)・栗橋宿に出役している(天保一〇年「栗橋中田両宿助郷帳」小林家文書)。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報